森にキノコがある、とシルヴィアは言った。
今朝食べたのはきっとこの庭に生えていたキノコだろうと、ウィリアムは自分でも探しに行った。
ずっと部屋で読書にふけるより、たまには散歩するのもいい。
シルヴィアの手料理は本当においしかったし、また作ってもらうにはキノコが必要だ。
足元を見ながら木漏れ日の中を歩く。
今朝はまともな朝食がとれたので妙な空腹感はない。
懐かしいキノコ取りというのも楽しい。
あのときは確か……。
(クラウスが、一緒だった……)
ばあやの目を盗んで家を出た。
少年の待つ木の下まで賢明に走った。
クーラ
またせて、ごめんね
いいですよ、と少年は言って笑う。
さぁ行きましょうと、幼い子どもの手を取り、森のような庭を歩きだす。
ずっと怖かった森も、彼と一緒なら怖くなかった。
泣いて歩けなくなった自分をおんぶしてくれた見知らぬ少年は、最初に会ったときからずっと優しいまま。
わたしは、大きくなったら騎士になるから
そうしたら、わたしの短剣を受け取ってください
なぁぜ、と幼い子どもは訊ねる。
その意味を教えてくれたのは婆やだった。
少年は耳を真っ赤にして、教えてくれなかった。
ふふ、と笑い声が漏れる。
幸せで、くすぐったい思い出。
無知な自分はどれほど彼を困らせたことだろう。
手をつなぐときの頬の赤さ、抱っこするときの真剣な眼差しは忘れられない。
ウィリアムの足が止まる。
(家が……)
光の差し込む、小さな空間。
森に抱かれる崩れかけの小屋があった。
打ち捨てられてずいぶん経つのか、屋根に青い草が生えている。
家の周囲の空き地は踏むものもなく草が立ち、王の執務室の絨毯のように深い。
ウィリアムは無意識にきびすを返した。
何も見なかったかのように、一度も振り返らず城に戻った。
過去は過去。
思い出は箱に詰めて物置にしまい込む。
もう子どもではない。
無邪気なままではいられない。
もうかつての幼い子どもはいない。
少年だった人はいない。
もう彼は……
───……殿下
思いつめた表情の青年。
外套がいつものものと違う。
いつものよりも暑くて、フードが付いている。
長靴もなめした革を履いていて、まるで旅人のようだ。
殿下
どうした? と訊ねると、青年は思いつめた顔を俯けたがすぐに上げ、まっすぐな眼差しを向けてきた。
磨かれた黒真珠のような瞳をまっすぐに。
しばらく、お暇いたします、殿下
どこに、行くな、と差し出した手を取られる。
ひざまづいた彼にしがみつく。
他にだれもいない夜の寝室はあまりにも暗くて、今にも青年を飲み込んでしまいそうだった。
唯一の心の支えを失いそうな錯覚に、全身が震えだす。
できるだけ早く戻るようにいたします
それまで、どうぞ、ご辛抱を
いやだ、と首を振る。
小さい頃のように駄々をこねる。
涙は知らずに頬を滑り落ち、青年の外套に吸い込まれた。
行かないで、としがみつく。
彼に会いたくて戻ってきたのに。
奇異の眼差しを賢明に無視し続けて、国王の謁見中も王子としての姿勢を保って、何を言われても泣かなかったのに。
太い腕が背中に回される。
大きな手が髪を撫でる。
それだけで泣いてしまう。
嬉しくて。
でも今は悲しみのほうが大きくて。
そっと体を離されて、ぬれたままの瞳で青年を見上げる。
彼はいつものような困った顔をしておらず、真剣な表情のまま左手を取った。
そっと唇が寄せられる。
なぜ左手に、と首をかしげた途端、痛みが走る。
噛まれたのだ。
青年が顔を避けると、左手の真ん中の指の付け根のあたりに歯形がついていた。
今は、これだけを……───
なぁぜ……?
どうして、クラウス?
……殿下───
「王子様?」
ぼんやりとした輪郭が視界に迫った。
「…………あ」
ウィリアムの目の前には心配げな表情のシルヴィアがいた。
何度も声をかけたらしい。
「あ……ご、す、すまない。
ぼうっとしていた」
「聞きたいことがあるの」
「何だ?」
「騎士や兵士は全員、国王について行ったの?」
「いいや。
たしか、側近の一師団だけだ。
あとは……領地や故郷に戻って、散り散りになったと聞く」
「あなたをここに置いていくのに、反対した人はいないの?」
ウィリアムは胸を押さえた。
なんてことを聞いてくるのだろう。
「……いた」
「その人たちも帰ったの?」
「……あぁ。そう聞く」
「騎士の誓いを立てたのに、王の側を離れたの?」
「それが王命なら」
ふーん、と少女がうなずいた。
「わたしね、策略とか戦術とかわからないの」
「ほぉ!」
ウィリアムは笑った。
「わたしもだ」
「慣れた人がいるの」
「…………」
「頼んではいけないかしら?」
「見返りは保障できない。
国王さえいない首都を守ろうなんて無謀だ」
「…………。
あなたも……あなたも国を、見捨てるの?」
「なに?」
「犯された国はたやすく取り戻せない。
蹂躙された土地は痩せ、川は濁るわ。
愛し尽くされた国は、簡単には馴らせないの」
「やめろ。
占い師のようなことを言うのはやめろ!」
「占いじゃないわ。
見てきたことを言ってるの。
どんな平和な国でも、戦いと無関係ではいられない。
いかに平穏を、いかに富を、いかに贅沢を……求めるものはみんな一緒。
どんな大義名分を振りかざしても、結局自分の欲のために戦場を作り出すのよ」
少女の目の奥にうごめく炎が産まれた。
怒りと屈辱の色が絡み合い、ウィリアムを困惑させる。
少女の怒りの理由がわからない。
王命を受けたウィリアムの身を案じるのは何もシルヴィアだけではなかった。
多くの同情を送られた。
だが怒りを向けたのは、彼女だけだ。
「なぜ……? どうしておまえが怒らなければならない? わたしはおまえを巻き込むつもりはないんだ。
今からでも逃げるのに遅くはない」
「違う!」
少女が激しくかぶりを振る。
柔らかな髪が宙で振り回される。
少女は両手で顔を覆った。
震える声で、賢明に訴える。
一緒に逃げて、と。
「だめだ。
わたしは、ここに残る」
「わからず屋! 命を粗末にする人なんて、犠牲にもならないわ!」
「…………!」
言い捨てて、少女は部屋を出て行った。
興奮のあまり閉め忘れられた扉が虚しく揺れる。
「粗末になんて……」
していないはずなのに───確かに気持ちが揺れた。
突き刺されたような痛みが胸を襲った。
遠い海を眺める。
午後の陽射しを目一杯浴びようと広がる海は別宅にいたときよりも小さい。
潮騒を子守唄に、猟師たちの掛け声を目覚ましの合図にしていた、たった数ヶ月が懐かしい。
腕を重たくする腕輪も、耳が引きちぎれそうな耳飾りも要らない。
きれいに均された髪がいつ乱れるかなんて気にする必要はなかった。
服一枚で駆け跳ねた幼い頃。
まだまだ子どもで、婆やを困らせてばかりだった、静かで柔らかなとき。
あの日、自分はキノコを探しに森にいた。
玉子を全部取り出して籠を用意し、おやつに焼き菓子を三つ、ポケットに入れた。
まだそのころ、家の周囲を囲む森が庭の一部だとは知らなかった。
婆やと二人で住む家と取り囲む森のすべてが自分の世界だった。
迷ったのだと気づくのに、どれくらいかかっただろう。
延々と続く木々の乱立。
遠くを見つめても緑が濃くなるばかりで目的の地は見えそうにない。
歩いても歩いても家にすらたどり着けない。
幼い自分はいつしか座り込み、不安で泣き出した。
どうしたの?
お家に帰れないの?
送っていくよ、と差し出された手に縋りついた。
家の周辺で髪を振り乱した婆やが二人を見つけ、足をもつれさせながら駆け寄ってきた。
いつもリンゴのように赤い頬は真っ白で、唇は菫色の花びらのような色だった。
ぷっくり突き出た頬は濡れ、それを擦り付けるように幼い自分に縋りついてきた。
胸が張り裂けそうだった、と婆やは幼い主を抱きしめ、大声で泣き出した。
安堵と、婆やを泣かせてしまった申し訳なさに、ただ泣くしかできなかった。
婆やは少年に向かって深々と頭を下げた。
名前を聞くと、クラウスと名乗った。
子爵子息だった。
三日間はおとなくしていたが、我慢できずに森に出かけた。
彼も探していたらしく、再会は簡単だった。
よかった。
また、お会いできて
父からちゃんと許可をもらいました
見つかっても怒られませんよ
婆やには怒られるかもしれないがかまわなかった。
遊び仲間ができたことが嬉しかった。
もう森で怖い思いをしなくていいのだ。
殿下
ずっとおそばにいます
ずっと
──────……
少年の姿が揺らめいた。
夏の海上の蜃気楼のように。
揺らめいて、細く伸び上がり……。
殿下
お約束します
大人の男性の手が伸びた。
ウィリアムの肩にかかったショールの端をそっと手に取り、跪いたクラウスはそれに口づけた。
ずっと、あなたのおそばおります
けれど彼は、短剣はくれなかった。
今朝食べたのはきっとこの庭に生えていたキノコだろうと、ウィリアムは自分でも探しに行った。
ずっと部屋で読書にふけるより、たまには散歩するのもいい。
シルヴィアの手料理は本当においしかったし、また作ってもらうにはキノコが必要だ。
足元を見ながら木漏れ日の中を歩く。
今朝はまともな朝食がとれたので妙な空腹感はない。
懐かしいキノコ取りというのも楽しい。
あのときは確か……。
(クラウスが、一緒だった……)
ばあやの目を盗んで家を出た。
少年の待つ木の下まで賢明に走った。
クーラ
またせて、ごめんね
いいですよ、と少年は言って笑う。
さぁ行きましょうと、幼い子どもの手を取り、森のような庭を歩きだす。
ずっと怖かった森も、彼と一緒なら怖くなかった。
泣いて歩けなくなった自分をおんぶしてくれた見知らぬ少年は、最初に会ったときからずっと優しいまま。
わたしは、大きくなったら騎士になるから
そうしたら、わたしの短剣を受け取ってください
なぁぜ、と幼い子どもは訊ねる。
その意味を教えてくれたのは婆やだった。
少年は耳を真っ赤にして、教えてくれなかった。
ふふ、と笑い声が漏れる。
幸せで、くすぐったい思い出。
無知な自分はどれほど彼を困らせたことだろう。
手をつなぐときの頬の赤さ、抱っこするときの真剣な眼差しは忘れられない。
ウィリアムの足が止まる。
(家が……)
光の差し込む、小さな空間。
森に抱かれる崩れかけの小屋があった。
打ち捨てられてずいぶん経つのか、屋根に青い草が生えている。
家の周囲の空き地は踏むものもなく草が立ち、王の執務室の絨毯のように深い。
ウィリアムは無意識にきびすを返した。
何も見なかったかのように、一度も振り返らず城に戻った。
過去は過去。
思い出は箱に詰めて物置にしまい込む。
もう子どもではない。
無邪気なままではいられない。
もうかつての幼い子どもはいない。
少年だった人はいない。
もう彼は……
───……殿下
思いつめた表情の青年。
外套がいつものものと違う。
いつものよりも暑くて、フードが付いている。
長靴もなめした革を履いていて、まるで旅人のようだ。
殿下
どうした? と訊ねると、青年は思いつめた顔を俯けたがすぐに上げ、まっすぐな眼差しを向けてきた。
磨かれた黒真珠のような瞳をまっすぐに。
しばらく、お暇いたします、殿下
どこに、行くな、と差し出した手を取られる。
ひざまづいた彼にしがみつく。
他にだれもいない夜の寝室はあまりにも暗くて、今にも青年を飲み込んでしまいそうだった。
唯一の心の支えを失いそうな錯覚に、全身が震えだす。
できるだけ早く戻るようにいたします
それまで、どうぞ、ご辛抱を
いやだ、と首を振る。
小さい頃のように駄々をこねる。
涙は知らずに頬を滑り落ち、青年の外套に吸い込まれた。
行かないで、としがみつく。
彼に会いたくて戻ってきたのに。
奇異の眼差しを賢明に無視し続けて、国王の謁見中も王子としての姿勢を保って、何を言われても泣かなかったのに。
太い腕が背中に回される。
大きな手が髪を撫でる。
それだけで泣いてしまう。
嬉しくて。
でも今は悲しみのほうが大きくて。
そっと体を離されて、ぬれたままの瞳で青年を見上げる。
彼はいつものような困った顔をしておらず、真剣な表情のまま左手を取った。
そっと唇が寄せられる。
なぜ左手に、と首をかしげた途端、痛みが走る。
噛まれたのだ。
青年が顔を避けると、左手の真ん中の指の付け根のあたりに歯形がついていた。
今は、これだけを……───
なぁぜ……?
どうして、クラウス?
……殿下───
「王子様?」
ぼんやりとした輪郭が視界に迫った。
「…………あ」
ウィリアムの目の前には心配げな表情のシルヴィアがいた。
何度も声をかけたらしい。
「あ……ご、す、すまない。
ぼうっとしていた」
「聞きたいことがあるの」
「何だ?」
「騎士や兵士は全員、国王について行ったの?」
「いいや。
たしか、側近の一師団だけだ。
あとは……領地や故郷に戻って、散り散りになったと聞く」
「あなたをここに置いていくのに、反対した人はいないの?」
ウィリアムは胸を押さえた。
なんてことを聞いてくるのだろう。
「……いた」
「その人たちも帰ったの?」
「……あぁ。そう聞く」
「騎士の誓いを立てたのに、王の側を離れたの?」
「それが王命なら」
ふーん、と少女がうなずいた。
「わたしね、策略とか戦術とかわからないの」
「ほぉ!」
ウィリアムは笑った。
「わたしもだ」
「慣れた人がいるの」
「…………」
「頼んではいけないかしら?」
「見返りは保障できない。
国王さえいない首都を守ろうなんて無謀だ」
「…………。
あなたも……あなたも国を、見捨てるの?」
「なに?」
「犯された国はたやすく取り戻せない。
蹂躙された土地は痩せ、川は濁るわ。
愛し尽くされた国は、簡単には馴らせないの」
「やめろ。
占い師のようなことを言うのはやめろ!」
「占いじゃないわ。
見てきたことを言ってるの。
どんな平和な国でも、戦いと無関係ではいられない。
いかに平穏を、いかに富を、いかに贅沢を……求めるものはみんな一緒。
どんな大義名分を振りかざしても、結局自分の欲のために戦場を作り出すのよ」
少女の目の奥にうごめく炎が産まれた。
怒りと屈辱の色が絡み合い、ウィリアムを困惑させる。
少女の怒りの理由がわからない。
王命を受けたウィリアムの身を案じるのは何もシルヴィアだけではなかった。
多くの同情を送られた。
だが怒りを向けたのは、彼女だけだ。
「なぜ……? どうしておまえが怒らなければならない? わたしはおまえを巻き込むつもりはないんだ。
今からでも逃げるのに遅くはない」
「違う!」
少女が激しくかぶりを振る。
柔らかな髪が宙で振り回される。
少女は両手で顔を覆った。
震える声で、賢明に訴える。
一緒に逃げて、と。
「だめだ。
わたしは、ここに残る」
「わからず屋! 命を粗末にする人なんて、犠牲にもならないわ!」
「…………!」
言い捨てて、少女は部屋を出て行った。
興奮のあまり閉め忘れられた扉が虚しく揺れる。
「粗末になんて……」
していないはずなのに───確かに気持ちが揺れた。
突き刺されたような痛みが胸を襲った。
遠い海を眺める。
午後の陽射しを目一杯浴びようと広がる海は別宅にいたときよりも小さい。
潮騒を子守唄に、猟師たちの掛け声を目覚ましの合図にしていた、たった数ヶ月が懐かしい。
腕を重たくする腕輪も、耳が引きちぎれそうな耳飾りも要らない。
きれいに均された髪がいつ乱れるかなんて気にする必要はなかった。
服一枚で駆け跳ねた幼い頃。
まだまだ子どもで、婆やを困らせてばかりだった、静かで柔らかなとき。
あの日、自分はキノコを探しに森にいた。
玉子を全部取り出して籠を用意し、おやつに焼き菓子を三つ、ポケットに入れた。
まだそのころ、家の周囲を囲む森が庭の一部だとは知らなかった。
婆やと二人で住む家と取り囲む森のすべてが自分の世界だった。
迷ったのだと気づくのに、どれくらいかかっただろう。
延々と続く木々の乱立。
遠くを見つめても緑が濃くなるばかりで目的の地は見えそうにない。
歩いても歩いても家にすらたどり着けない。
幼い自分はいつしか座り込み、不安で泣き出した。
どうしたの?
お家に帰れないの?
送っていくよ、と差し出された手に縋りついた。
家の周辺で髪を振り乱した婆やが二人を見つけ、足をもつれさせながら駆け寄ってきた。
いつもリンゴのように赤い頬は真っ白で、唇は菫色の花びらのような色だった。
ぷっくり突き出た頬は濡れ、それを擦り付けるように幼い自分に縋りついてきた。
胸が張り裂けそうだった、と婆やは幼い主を抱きしめ、大声で泣き出した。
安堵と、婆やを泣かせてしまった申し訳なさに、ただ泣くしかできなかった。
婆やは少年に向かって深々と頭を下げた。
名前を聞くと、クラウスと名乗った。
子爵子息だった。
三日間はおとなくしていたが、我慢できずに森に出かけた。
彼も探していたらしく、再会は簡単だった。
よかった。
また、お会いできて
父からちゃんと許可をもらいました
見つかっても怒られませんよ
婆やには怒られるかもしれないがかまわなかった。
遊び仲間ができたことが嬉しかった。
もう森で怖い思いをしなくていいのだ。
殿下
ずっとおそばにいます
ずっと
──────……
少年の姿が揺らめいた。
夏の海上の蜃気楼のように。
揺らめいて、細く伸び上がり……。
殿下
お約束します
大人の男性の手が伸びた。
ウィリアムの肩にかかったショールの端をそっと手に取り、跪いたクラウスはそれに口づけた。
ずっと、あなたのおそばおります
けれど彼は、短剣はくれなかった。