指先から離れた緑色の舟が出港した。
 くっきりとした筋を残した細長い葉は、赤い実と硬い木の実を乗せてゆっくりと流れていく。

 背後からがさがさ、と木の葉を揺らす音がした。

 反射的に振り返り、逃げ出しそうになる足を堪えさせる。
 握りしめた両手を腹に当て、心の中で神に救いを求める。

 ぎゅっ、と目を閉じる。
 うずくまりたくなる衝動を抑える。
 早く目も開けなければ。

 堪えるようにまぶたを上げる。
 光が差した。
「いたっ」

 光から声が聞こえた。
「やだー。外れない!」

 よく見ると、光と思ったのは濃い金色の髪だった。
 風になびく洗い立ての敷き布のように波打つ髪を、どうやら引っ掛けたらしい小枝から外そうと、少女が奮闘している。

「待て」
 思わず、声が出た。
「乱暴にするな」

 足早に歩み寄り、そばに屈みこむ。
 涙目の少女の手元を見ると、細い髪が無残にも植木の枝に絡まっている。

 恐る恐る金髪を手にとると、絞りたてのミルクのように滑らかで、今にも溶けてしまいそう。
 少しでも力をこめると産毛のような髪を引きちぎってしまいそうだ。

 するりと、最後のひと房が解放される。
 ほぅ、と息を吐く。
「ありがとう。
 あー、良かった」
 金髪の少女は嬉しそうに笑みを浮かべた。

「いいや。
 ───ところで、どうやってここまで来た?」
「え?」
「迷い込んだのか? ……まさかな」
 金髪の少女は周囲を見回した。

 少女の右手には川が流れ、庭が広がり森に突き当たる。
 左手には小道があり、その向こうは見上げなければ行き止まりと勘違いしそうな建物。

「ここ、どこかしら?」
「迷ったのか?」
「そうみたい。
 ……おかしいわ。わき道に出るはずだったのに」
「このあたりに近道でもあるのか?」
「え……」
 金髪の少女は、今度は慌てたように周囲を見た。

「……えぇ、そうよ。この近く……だと思ったの。
 ごめんなさい。勝手に入り込んでしまって。
 すっかり迷ったみたい」
 そうか、と呟くように言う。
「かまわない。
 さぁ、道があるなら、早く逃げろ」
「え?」

 きょとん、とした顔で金髪の少女が見上げてくる。
 首を傾げて見上げてくる様子は、昔見たリスのようだ。
 うっすらと紅を差したような頬に泥がついていたので指でふき取ってやる。

「布令は聞かなかったのか?」
「ふれ?」
「誰も教えなかったのか。
 ───先日、城下に住むものは家を引き払い、他国へと逃げるようにとの勅令が出された。
 聞いたことはないか?」

 金髪の少女は驚いたように目を見開いた。
 どうやら知らなかったらしい。
 他国へ出稼ぎに出ていたとしても、途中で誰かが知らせてくれそうなものだが。

「知らずにここまで来たのか。
 いや、ここまで来たならしかたがない。
 今からでも間に合う。
 早く北上しろ」

「ちょっ、ま、待って。
 それじゃ、あなたも逃げなきゃ。
 のんびりしている場合じゃないわ」

 首を横に振ると、少女は怪訝に眉を寄せる。
「わたしはいい」
「いいって……?」

「わたしはここに残ると決めた。
 それが最後の務めだ」
「務め? なぜ?
 どうしてあなたも逃げないの?
 迎えでも待っているの?」
「いいや。迎えは来ない」
「そんな務めがあるのかしら……?」

 座り込んだまま、少女は真剣な表情で首をかしげる。
 解けた髪が風に揺らされ、柔らかにそよぐ。

「ねぇ。
 どうして国王は、そんなお布令をだされたのかしら?」
「街を見なかったのか?」
「街? どこの?」
「城下街だ。
 ここに来るまでにも、途中の村や町や、草原や山中では交戦があったはずだ。
 それらしき跡はなかったか?」
「まだ見てないわ。
 わたし、裏から回ろうと思ったの」

 もしかして、そうしてすべてを見過ごしてここまで来たのだろうか。
 そうならば頭を抱えるしかない。

「ここから少し南下すれば、すでに敵軍が陣取っている」
「敵?」
「アインス国だ。
 我がシュワルド国を侵略せんとする」
「……………………」
 さすがに少女にも現在地の危険性がわかったようだ。

「シュワルドぉー! うっそ! 行き過ぎちゃったぁあ!」
 勢いよく立ち上がった少女は周囲を見渡す。
 しかし見慣れた景色はないようだ。

「行き過ぎ……?」
 シュワルド国の首都は国土の中央より南に位置する。
 シュワルド国で行き過ぎたということは、かなり長いこと気づかなかったことになる。

「どこに行く気だったんだ?」
「グロバー国の、首都」
 シュワルド国の北にある大国だ。
 行き過ぎたというより大きな勘違いをしたのではないか。

「やだー! ぜんぜん違うじゃなぁい!」
 少女は半泣きで叫んだ。
 叫んだところで、過ぎてしまったことだった。





 大陸の南東に位置するシュワルド国。
 そのさらに東に浮かぶ島国アインス。

 歴史の紐を解けば、昔の両国はたびたび戦争を行っていた。
 陸続きの隣国ではなく海を挟んだ国を相手に選ぶのはなぜかと言うと、長い歪み合いが原因。

 もともと両国は婚姻関係にあった。
 それが相手が海を挟んだ向こうだ。
 婚約者が入れ替わってもわからないだろうと、すり変えたのはどちらが先だったのかはもうわからない。
 小さな諍いが結婚相手の詐称につながり、とうとう決別した。

 どちらからともなく火種が飛び、海上戦争が始まった。

 それが長く続くと互いに兵力も兵糧も減り、休戦状態になる。
 休憩を取って腹が太ったら、また火が付けられる。
 ───それが何十年と続いた。

 シュワルド国の一決王と呼ばれる人の御代。
 王の根気強い説得と粘り強い忍耐でもって和平が結ばれる。

『互いの国の川は海へと流れ、ひとつになるのです。
 黒も白もなく、善も悪もなく、広大な青の海となるのです。
 我々は、偉大な神の域近くにある。
 等しく海の神の恵みを受ける、兄弟なのです』

 海上に顔を出す海底山を境に、両国は争いを止め、憎み合いを放り投げた。
 その後の約百年、戦争は起こらなかった。

 しかしその百年のあいだに、両国には深い溝ができた。

 早々に戦争の名残を捨てた一決王に対し、当時のアインス国王は軍隊をそのまま維持しつづけた。

 莫大な維持費は国民を圧迫し、至るところで一揆が起こった。
 それを抑えるために軍隊は保たれ続け、維持費は重なり、さらに国民を押し潰す……。

 約百年のあいだに九人もの王が立ち、八人の王は倒れた。
 そして九人目の王は決意した。

 富を。

 懐かしい繁栄を。

 過去の血縁者であり、敵国であったシュワルド国を侵略せんと立ち上がった。

 それから三年が経つ。





 少女はシルヴィアと名乗った。
 一定期間の奉公を終え、家に帰る途中だった。
 家族に土産を買って帰ろうと寄り道をしたのだが、予想以上に道を間違えたらしい。

「わたしはウィリアム。
 シュワルド国の第三王子だ」

 庭で座り込んだままではいつまでも座り心地が悪いので、城のなかに招いた。
 本当ならすぐにでも逃げたほうがよいのだが、少女シルヴィアは納得がいかないといって去ろうとしない。

 いつもより一人分多めにお茶を用意し、大事になおしておいた菓子を出す。
 赤い花を挿した一輪挿しを白い丸机に置いてみると、来客をもてなすには充分足るようだ。

 一息ついて自己紹介をした。

 少女はぽかんと口をあけた。
「お……王子さまなの?」
「見えないか?」
 そういえば今朝は髪を梳かさなかったような気がすると、ウィリアムは思いだして髪に手をやる。
「う、うぅん。
 そ、そうじゃなくて、ね。
 …………王子様に、お茶を淹れてもらうなんて、思わなくっ、て……」

 できるだけ自分のことは自分でしなさいと乳母に言われてきたものだから、ウィリアムは自然とお茶を淹れてしまったにすぎない。
 たしかに、王女ならともかく、王子がお茶を淹れるのはおかしいかもしれない。

「すまない。
 わたしは田舎暮らしが長くて、貴人らしさがないといわれるのだ」
「え? あ、い、いいのよ。
 美味しいわ!」
 炒ってすり潰した豆と乾燥させた葉で淹れられたお茶は香ばしく、ウィリアムも一息ついた。

「ところで、王子様。
 どうしてあなただけお城に残っているの?」
「敵の狙いはまず陛下だ。
 わたしがここにいて毎夜明かりをつけ、いざ踏み込まれれば陛下の身代わりとなって逃げ回ろう」
「……それって……あの、王様はどこ?」
「それは言えない。
 陛下のお命に関わる」

「でもそれって、あなたの命にも関わることよね。
 もし何かあって王様の身代わりを引き受けるのなら、あなたが殺されるかもしれないのよね?」

 午後の暑い陽射しが足元まで来ている。
 さらに陽が傾くと、美しい西日が山の向こうに消えていくのが見える。

 夕日は沈んでいくのを惜しんでしがみつくように、すべてを赤く染める。
 赤い花の色は濃縮され、緑の葉は深みを増し、青い海は夜空を映したような色になる。
 涼しい夜を満喫しようと、家路を遅らせる者が多い。

 男たちは毎日海に出て、波に揉まれに揉まれ、陸に帰ってくる。
 色鮮やかな魚介類に、大人の背丈を越す大魚。
 幾重にも巻かれた海草は分厚く、若い者はきれいな貝殻を恋人に持ち帰る。

 なだらかな丘とどこまでも続く海岸。
 暖かで、穏やかで、平和なシュワルド王国。

 だが今は……。

 開戦から三年。

 港町はすでに敵国アインスに書き返られている。
 それは南東から徐々に北上し、いまは首都から北、国の三分の二となったシュワルド国。
 愛すべき祖国。

 首都の民へ、他国への脱出命令が下ったのは半月ほど前。
 兵士たちに扇動され、首都からいくらか離れた後は、思い思いに逃げていく人々。
 故郷を捨てるとき、帰る場所を失ったのだと泣き崩れただろう。
 守るべき国民。

 こうして今この首都には、第三王子ウィリアムしかいないはずだった。



「そうだな」
 答えに一拍間があったかもしれない。
 いや、少女は気づかなかっただろう。

「あなたは逃げなくていいの? 怖くない?」
「わたしは逃げてはならない。
 怖くないとはいえないが」
「怖いのに、逃げないの?」
「怖くても逃げてはならない」
「逃げてはならないのに、怖いの?」

 少女の手が伸びる。
「こんなに震えているくせに、何を言うの?」
「え…………」

 言われて、初めて気づいた。
 確かにウィリアムの手は震えている。
 押さえようとする少女の手も震わせて。

「怖いくせに。
 逃げ出したいくせに……何を、強がりを、言って……」
「………………」

 あれだけ華やかだった王宮に、たった一人になってしまった。
 もう守ってくれる騎士も、拠るべき国王もいない。

 かしずく侍女は暇をとる間もなく辞めていき、従僕はいつのまにか消えていた。
 家族のある兵士は故郷に帰り、ないものは一人で国を出ただろう。
 媚びへつらう貴族も、頼りにしていた騎士も、すでにいない。

 敵が目指すのは、唯一残った王族のウィリアムのみ。
 捕らえられたらどうなるのか。
 その前に、見つけ次第殺されるのかもしれない。
 どちらにしても良いことはない。

 そうかもしれない。
 怖いのかもしれないと、ウィリアムは自分にだけ告白した。

 表面は苦笑して見せた。
「おまえは物怖じしないな」
 少女は首をかしげた。
「三番目といえど、わたしは王の子だ。
 恐ろしくはないのか?」

「あなたは恐ろしい人なの?」
「……そう、言われたことはないな」
 少女は笑った。
「だったら大丈夫。
 わたしの目から見ても、あなたはちっとも怖い人じゃないわ」

 だって、と少女は続ける。
「こんなに美味しいお茶を淹れてくれるんだもの」





 少女は居座ることに決めたらしい。
 頑として退避しようとしないのにウィリアムも折れた。
 しかたがないので寝床を選ばせようとして、ウィリアムが主に使用していた一棟を案内すると、
「汚い!」
 猛烈な勢いで掃除を始めた。

 夕暮れが近づくと慌てて走り出し、厨房を探し出した。
 見つけたかと思うと戸棚を見て叫ぶ。
「ない! 何にもないわ!」
 少女は籠を片手に慌てて家畜小屋に駆け出した。
 玉子はなかったようだが、森ではキノコや木の実を見つけたようだ。

「大猟、大猟!」
「庭にあったのか?」
「庭? いいえ、森にあったのよ」
「森? 外まで出たのか?」
「え? 外? 外になんか出ていないわ」
「…………」
「…………どうしたの?」
「い、いや……。
 城の回りは森のようにみえるが、庭なんだ」
「え?」

「おまえが森といったところを抜けると城壁がある」
「え?」
「明るいうちに城の高いところから見て、やっと城壁が見えるくらい庭があるのだ」
 少女は眼をまん丸にして驚いた。
「わたしが迷うわけだわ」

 少女は笑った。
 つられてウィリアムも笑った。

 今にも陽が沈むかというとき、少女が夕食を告げた。
 湯気を立てるスープ。
 震えるほどの半熟玉子が掛けられた温野菜。
「パンがないのが残念ね。
 でも明日はきっと、焼きたてのパンを食べさせてあげる」

 小さなテーブルに飾られた黄色い花。
 質素で暖かな夕食。
 一人ではない時間。
 ウィリアムは神と少女に感謝の祈りを捧げて匙を取った。



 屋敷奉公に出ていたというだけあって、少女の仕事は手早く的確だった。
 城で一人になってからというもの一度も替えられなかった敷き布を替え、灯篭の芯を替え油を差した。

「王子様って言うのは間違いなさそうね」
 ウィリアムの足を洗いながら、少女は笑いを堪えていった。

「さぁ王子様。
 次はお歌を唄って差し上げましょうか? それともお話を?」
 ウィリアムは笑った。
「では、迷子の侍女殿。
 おやすみのあいさつを」
 少女は飛び跳ねてウィリアムの頬にキスをした。

 海辺の砂が立ちはだかっているかのような肌を持つ城がある。

 海岸の砂を運び、乾くと石のように硬くなる粘土と練り合わせた煉瓦で造られている。
 だから城は、まるで浜辺の砂城のようだ。

 柱は城を挟んで海と対極にある山の岩を削り、粘土を隙間に詰めてある。
 すべての石の色が微妙に異なり、地味な色合いの壁と対照的に色とりどりだ。

 二階から上は砂色の壁のあちこちに色貝殻がはめ込まれている。
 特に正面の壁には、国中の貝殻を集めて造られた王家の紋章が、白い陽射しに照らされてキラキラと輝いていた。

 王宮は広大で、足元に広がる城下街ほどもある。
 一の大門のうちには下仕えや一般兵が住まい、二の大門のうちには貴族やの屋敷が並ぶ。
 三の大門のうちには本宮があり、そのなかに小さいながらも四の大門と呼ばれるうちに王族の居住がある。

 下々の者には想像もつかないような豪邸。
 窓にはめ込まれた硝子には曇りの一点も見当たらず、知らずに手を差し入れてしまいそうなほど透きとおっている。

 城門から城へ向かう道は広く長い。
 途中、色さえついていれば本物だと疑わない彫刻が至るところに見られる。

 広い庭は初めて見る者に森と勘違いさせるかもしれない。
 だが本物の森には天使の石造を真ん中に置いた噴水も、宝石で飾られた小船が行き交う小川も、複雑にいり込む垣根の迷路も、緑と紫と赤の斑点のある大きな羽根を持つ鳥もいない。
 そこはまさに高貴なる方のお庭。

 庭をそろそろと進むと、木漏れ日に立ち尽くす一軒の平屋が見つかる。
 国王の足元に建つにしては粗末な小屋。
 いや、小屋にしては妙だ。

 軒下に並ぶ植木鉢や、腐れた板で蓋をされた井戸は不釣り合い。
 玄関の扉を見ても、鍵は中からかけるようだ。
 まるで人が住んでいたような気配。
 もちろん、城下街の端に住むものなら早速引っ越してきたくなるくらいの造りではある。

 六つある植木鉢は二つを除いて割れており、残った二つにも土は半分も入っていない。
 からからに乾いた白い土が残骸のように残っているだけ。

 鮮やかで賑やかな城の中でここだけまるでひっそりと咲く草花のよう。
 暖かな木漏れ日と清々しいそよ風と、小さな虫が訪れるばかりの、ひっそりとした隠れ家。

 赤に黒い斑点のある丸い虫が隠れ家の扉に止まる。
 何も見当たらなかったのか、すぐに羽根を広げて飛び去った。

 お話は、一人の少女から始まります。


 海を隔てた島国から侵略を受ける国がありました。

 その国の王はあろうことか民を捨て、家族と護衛の騎士、重臣だけを連れて他国へと逃亡してしまったのです。
 戦いに疲れた民の心に、追い払うことのできない暗雲が差しました。

 他国へ逃げたとしても異国人にまともな暮らしは望めない。
 故郷に残ったとしても殺されるか、侵略者の手に落ち奴隷となるでしょう。


「おぉ、神よ!」
 残された神官が涙を流しながら天を仰ぐ。
「哀れなる我らに、救いの使者を遣わし給う!」

 尊敬していた大神官までもが王に伴なって逃亡してしまいました。
 統率者と指導者なくして、誰が自分たちを支えてくれるというのでしょう。

 成り立ての神官や若い巫女たちが肩を落とし、振るえながら広間に集まっています。
 見捨てられたものたちの握りしめた両手には、涙が落ちて乾きません。

 もはやこれまで、と神官は神に語りかけます。
 せめて残されたものに安らかな最期を、と。

 そのとき、足音がしました。

 広間の扉は儀式がない限り常に開けられたままで、誰もが自由に出入りできます。
 戦争が長引くにつれ、夫を亡くした女たちが子どもを抱えて廊下に座りこむようになりました。
 その数は日に日に増え、息子を亡くした老夫婦、親を失った子どもたちまでもが救いを求めてやってきました。

 集まった多くの人々は大神官がいないと知ると、太陽どころか月さえ失ってしまったのだと悲しみ、座り込んで廊下までびっしりと埋め尽くしました。

 この日もそうでした。
 女神像に向かい、誰もが固く手を握りしめて祈りを捧げていました。

 足音は遠慮がちに響き、祭壇へと近づきます。

 歩けるだけの余力がある者は誰だろうと、幼い巫女が首をもたげます。
 その目に最初に映ったのは、栗色の髪。
 そのあとに甲冑を着込んだ横腹と腕が続き、外套がひらりと舞う。
 甲冑の隣には、軽装備の後ろ姿。

 足跡は二つ。
 栗色の髪と甲冑です。
 軽装備からは足音はしませんでした。

 もしかして幽霊かしら、と幼い巫女は思いました。
 夜更かしをする子は足音のない幽霊が浚いにくるのよ、と姉巫女がよく言っていたのです。

 幼い巫女は隣に座る姉巫女の袖を掴んで引っ張りました。
「姉巫女さま、ユーレイがいます」
 一心に祈っていた姉巫女は、そう言われて初めて足音に気づきました。

 姉巫女の目に最初に映ったのは二人の男の背中。
 一人は長髪、もう一人は短髪です。
 一人は短い外套と甲冑を着込んで、もう一人は軽装備をしているらしく、腰の横に長剣と後ろに短剣を差していました。

 祭壇の前で二人は跪きました。
 するとその向こうに、もう一人いたのです。

 二人よりも小柄な栗毛の後ろ姿でした。
 腰の括れからして女のようで、なんと甲冑を着ています。
 長い外套は羽織られないまま左手にあります。

 硝子のはめ込まれた窓から差し込む陽射しが祭壇を照らしています。
 慈悲の笑みを浮かべる女神像の陰影がくっきりと浮かんでいました。

 栗毛の女は三段の階段を上り、一番上にいた神官のとなりに跪きました。
 絹のように滑らかな髪が陽の下にさらされました。

「我らが守護者、海の王よ」
 少女の声。

「あなたの后、大地の女神が侵略者によって汚されています。
 どうぞ我らに、王の后をお救いする力をお与えください。
 王の后と后の民をお守りください」

 栗毛の女が立ち上がり、振り返ります。

「あ……」

 幼い巫女が声をあげ、姉巫女の袖を掴んでいる手に力がこもります。
 姉巫女は声をあげませんでしたが、その目はすでに囚われていました。

 青い空。

 雲ひとつない晴天の色。

「立ちなさい」

 二つの空が広間に押し寄せた人々を眺めます。

「故郷を想うものは、銛でも斧でもかまわない、武器を手に取りなさい。
 ───死の訪れを待ってはいけない」

「あ、あなたは……?」
 どこからか声がしました。

「わたしは、先導者」
 栗毛の少女は腰に差した剣を抜く。
 陽にかざされた刃がきらりと輝きました。
「祖国が敵に侵されて惜しいと思うのなら、わたしに続きなさい」

 いつのまにか、広間にいたすべての人たちがその人を見ていました。
 廊下の向こうがざわめきます。
 人々が押し寄せます。

「立ち上がりなさい」

 一番前にいた神官が立ち上がり、栗毛の少女の足元に跪きました。
 不似合いな甲冑を着込んだ手にある外套の裾に口付けます。
 その両手の震えは感動のためだったのでしょうか。

「敵にむざむざと故郷を奪われてはならない。
 この地は我らのもの。
 大地の女神は我らの母だ」

 幼い巫女が立ち上がります。
 小走りに祭壇へと向かい、甲冑と軽装備の間を抜け、階段の前で立ち止まりました。

 見上げると、栗毛の少女の瞳は、忘れることのできなくらい澄んだ青色をしていました。

 海の王と大地の女神のご両親は空にいらっしゃるのよ、と姉巫女が言っていました。
 幼い巫女は思います。
 ここに天帝がいらっしゃる、と。

「立ち上がりなさい」
 大きな声ではありませんでした。
 けれど幼い巫女の背中は打たれたようにピンと伸びます。

 その後ろでは一人、また一人と大人たちが立ち上がります。
 隣の人に支えられてやっと立ち上がる、やつれたものの姿もありました。

「武器が持てなくてもかまわない。
 一人ひとつの意志がほしい。
 立ち向かえるという人は、わたしに力を貸してください」
「ですが、武器なくしては、どうすることもできません」
 どこからか、声が上がりました。

「けが人を解放するものに武器は必要ない。
 荷を運ぶものにも、食事を作るものにも、必要ない」
「どうやって戦うのですか!?」
「剣で斬りあうだけが戦いではない。
 わたしたちにはもっと別の戦い方ができる。
 そのためにも、たくさんの人たちの力が必要だ」

「わたしに、何ができるでしょうか……?」
 立ち上がりはしたものの、どうしてよいのかわからないでいる若い神官が訊ねます。

「ではあなたは、あなたの隣に座る人に肩を貸してあげなさい。
 そうすればあなたには、やるべきことができる。
 肩を借りた人は生き延びることができる。
 あなたは人一人の命を救うことになる」

 若い神官は隣で座り込んだままの老神官を見下ろします。
 頬を涙で濡らす老神官は両手を組んだまま、栗毛の少女を見つめています。
 その唇が微かに動きました。
 神よ、と。

「この人をどこに運べばよいのですか?」
 栗毛の少女がうなずきました。
「まずここを離れます。
 ここにいては敵に囲まれてしまう。
 この神殿は、篭城するには適していない」

 栗毛の少女が目の前に立つ連れの二人に視線を向けると、軽装備のほうがうなずきました。
「ついて来てください」
 栗毛の少女が祭壇を降り、歩き出します。

 若い神官は膝を折り、老神官に肩を貸して立ち上がらせようとしました。
「お待ちなさい」
 老神官が止めます。
「わたしは置いて行きなさい。
 足手まといになる」
 しわがれた手が若い神官の手を外そうとします。

「いいえ。
 それではわたしのやることがなくなってしまいます。
 どうかわたしのためにも、生きてください」
 生きましょう、という声と老神官の目から涙が流れるのは同じ速さでした。

 神よ、とつぶやく老神官を半分抱えるようにして歩き出します。
 そのときすでに座り込んでいた人々の半数以上は立ち上がっていました。

 栗毛の少女は扉の前まで来ていて、若い神官が歩き出すと微笑みました。

 空だ、と若い神官は思いました。
 天帝のおわす天空の青。
 見渡す限りに続く蒼穹の色。

 人々は吸い込まれるようにその人に続いたのです。



 国王が逃亡したにも関わらず、侵略される国は抵抗しつづけます。

 そして、あるときを境に戦い方が大きく変わりました。
 敵の総大将が代わったのだと侵略者たちは気づきます。

 だがそれくらいで諦める侵略者たちではありません。
 自国はすでに自滅の危機にあり、退却したところで心休まる故郷はないのです。

 彼らもまた、気力が続くかぎり戦いつづけました。

 終戦は実に、この一年後。



 後に人々は、栗毛の少女をこう呼びます。
 救世主。
 シュワルドの乙女。
 また、どこからともなくこんな呼び名が囁かれました。

 青眼の聖女、と。