お話は、一人の少女から始まります。


 海を隔てた島国から侵略を受ける国がありました。

 その国の王はあろうことか民を捨て、家族と護衛の騎士、重臣だけを連れて他国へと逃亡してしまったのです。
 戦いに疲れた民の心に、追い払うことのできない暗雲が差しました。

 他国へ逃げたとしても異国人にまともな暮らしは望めない。
 故郷に残ったとしても殺されるか、侵略者の手に落ち奴隷となるでしょう。


「おぉ、神よ!」
 残された神官が涙を流しながら天を仰ぐ。
「哀れなる我らに、救いの使者を遣わし給う!」

 尊敬していた大神官までもが王に伴なって逃亡してしまいました。
 統率者と指導者なくして、誰が自分たちを支えてくれるというのでしょう。

 成り立ての神官や若い巫女たちが肩を落とし、振るえながら広間に集まっています。
 見捨てられたものたちの握りしめた両手には、涙が落ちて乾きません。

 もはやこれまで、と神官は神に語りかけます。
 せめて残されたものに安らかな最期を、と。

 そのとき、足音がしました。

 広間の扉は儀式がない限り常に開けられたままで、誰もが自由に出入りできます。
 戦争が長引くにつれ、夫を亡くした女たちが子どもを抱えて廊下に座りこむようになりました。
 その数は日に日に増え、息子を亡くした老夫婦、親を失った子どもたちまでもが救いを求めてやってきました。

 集まった多くの人々は大神官がいないと知ると、太陽どころか月さえ失ってしまったのだと悲しみ、座り込んで廊下までびっしりと埋め尽くしました。

 この日もそうでした。
 女神像に向かい、誰もが固く手を握りしめて祈りを捧げていました。

 足音は遠慮がちに響き、祭壇へと近づきます。

 歩けるだけの余力がある者は誰だろうと、幼い巫女が首をもたげます。
 その目に最初に映ったのは、栗色の髪。
 そのあとに甲冑を着込んだ横腹と腕が続き、外套がひらりと舞う。
 甲冑の隣には、軽装備の後ろ姿。

 足跡は二つ。
 栗色の髪と甲冑です。
 軽装備からは足音はしませんでした。

 もしかして幽霊かしら、と幼い巫女は思いました。
 夜更かしをする子は足音のない幽霊が浚いにくるのよ、と姉巫女がよく言っていたのです。

 幼い巫女は隣に座る姉巫女の袖を掴んで引っ張りました。
「姉巫女さま、ユーレイがいます」
 一心に祈っていた姉巫女は、そう言われて初めて足音に気づきました。

 姉巫女の目に最初に映ったのは二人の男の背中。
 一人は長髪、もう一人は短髪です。
 一人は短い外套と甲冑を着込んで、もう一人は軽装備をしているらしく、腰の横に長剣と後ろに短剣を差していました。

 祭壇の前で二人は跪きました。
 するとその向こうに、もう一人いたのです。

 二人よりも小柄な栗毛の後ろ姿でした。
 腰の括れからして女のようで、なんと甲冑を着ています。
 長い外套は羽織られないまま左手にあります。

 硝子のはめ込まれた窓から差し込む陽射しが祭壇を照らしています。
 慈悲の笑みを浮かべる女神像の陰影がくっきりと浮かんでいました。

 栗毛の女は三段の階段を上り、一番上にいた神官のとなりに跪きました。
 絹のように滑らかな髪が陽の下にさらされました。

「我らが守護者、海の王よ」
 少女の声。

「あなたの后、大地の女神が侵略者によって汚されています。
 どうぞ我らに、王の后をお救いする力をお与えください。
 王の后と后の民をお守りください」

 栗毛の女が立ち上がり、振り返ります。

「あ……」

 幼い巫女が声をあげ、姉巫女の袖を掴んでいる手に力がこもります。
 姉巫女は声をあげませんでしたが、その目はすでに囚われていました。

 青い空。

 雲ひとつない晴天の色。

「立ちなさい」

 二つの空が広間に押し寄せた人々を眺めます。

「故郷を想うものは、銛でも斧でもかまわない、武器を手に取りなさい。
 ───死の訪れを待ってはいけない」

「あ、あなたは……?」
 どこからか声がしました。

「わたしは、先導者」
 栗毛の少女は腰に差した剣を抜く。
 陽にかざされた刃がきらりと輝きました。
「祖国が敵に侵されて惜しいと思うのなら、わたしに続きなさい」

 いつのまにか、広間にいたすべての人たちがその人を見ていました。
 廊下の向こうがざわめきます。
 人々が押し寄せます。

「立ち上がりなさい」

 一番前にいた神官が立ち上がり、栗毛の少女の足元に跪きました。
 不似合いな甲冑を着込んだ手にある外套の裾に口付けます。
 その両手の震えは感動のためだったのでしょうか。

「敵にむざむざと故郷を奪われてはならない。
 この地は我らのもの。
 大地の女神は我らの母だ」

 幼い巫女が立ち上がります。
 小走りに祭壇へと向かい、甲冑と軽装備の間を抜け、階段の前で立ち止まりました。

 見上げると、栗毛の少女の瞳は、忘れることのできなくらい澄んだ青色をしていました。

 海の王と大地の女神のご両親は空にいらっしゃるのよ、と姉巫女が言っていました。
 幼い巫女は思います。
 ここに天帝がいらっしゃる、と。

「立ち上がりなさい」
 大きな声ではありませんでした。
 けれど幼い巫女の背中は打たれたようにピンと伸びます。

 その後ろでは一人、また一人と大人たちが立ち上がります。
 隣の人に支えられてやっと立ち上がる、やつれたものの姿もありました。

「武器が持てなくてもかまわない。
 一人ひとつの意志がほしい。
 立ち向かえるという人は、わたしに力を貸してください」
「ですが、武器なくしては、どうすることもできません」
 どこからか、声が上がりました。

「けが人を解放するものに武器は必要ない。
 荷を運ぶものにも、食事を作るものにも、必要ない」
「どうやって戦うのですか!?」
「剣で斬りあうだけが戦いではない。
 わたしたちにはもっと別の戦い方ができる。
 そのためにも、たくさんの人たちの力が必要だ」

「わたしに、何ができるでしょうか……?」
 立ち上がりはしたものの、どうしてよいのかわからないでいる若い神官が訊ねます。

「ではあなたは、あなたの隣に座る人に肩を貸してあげなさい。
 そうすればあなたには、やるべきことができる。
 肩を借りた人は生き延びることができる。
 あなたは人一人の命を救うことになる」

 若い神官は隣で座り込んだままの老神官を見下ろします。
 頬を涙で濡らす老神官は両手を組んだまま、栗毛の少女を見つめています。
 その唇が微かに動きました。
 神よ、と。

「この人をどこに運べばよいのですか?」
 栗毛の少女がうなずきました。
「まずここを離れます。
 ここにいては敵に囲まれてしまう。
 この神殿は、篭城するには適していない」

 栗毛の少女が目の前に立つ連れの二人に視線を向けると、軽装備のほうがうなずきました。
「ついて来てください」
 栗毛の少女が祭壇を降り、歩き出します。

 若い神官は膝を折り、老神官に肩を貸して立ち上がらせようとしました。
「お待ちなさい」
 老神官が止めます。
「わたしは置いて行きなさい。
 足手まといになる」
 しわがれた手が若い神官の手を外そうとします。

「いいえ。
 それではわたしのやることがなくなってしまいます。
 どうかわたしのためにも、生きてください」
 生きましょう、という声と老神官の目から涙が流れるのは同じ速さでした。

 神よ、とつぶやく老神官を半分抱えるようにして歩き出します。
 そのときすでに座り込んでいた人々の半数以上は立ち上がっていました。

 栗毛の少女は扉の前まで来ていて、若い神官が歩き出すと微笑みました。

 空だ、と若い神官は思いました。
 天帝のおわす天空の青。
 見渡す限りに続く蒼穹の色。

 人々は吸い込まれるようにその人に続いたのです。



 国王が逃亡したにも関わらず、侵略される国は抵抗しつづけます。

 そして、あるときを境に戦い方が大きく変わりました。
 敵の総大将が代わったのだと侵略者たちは気づきます。

 だがそれくらいで諦める侵略者たちではありません。
 自国はすでに自滅の危機にあり、退却したところで心休まる故郷はないのです。

 彼らもまた、気力が続くかぎり戦いつづけました。

 終戦は実に、この一年後。



 後に人々は、栗毛の少女をこう呼びます。
 救世主。
 シュワルドの乙女。
 また、どこからともなくこんな呼び名が囁かれました。

 青眼の聖女、と。