両手を見て男は愕然とした。

(汚い……!)

 地面に落ちた枝を拾っていけばそうなることはわかりきっていた。
 だが現実を見ると許しがたいものに映る。

 体が震えた。
 怒りだ、これは。
 この現実を招いたものへ対する激しい炎のような憎しみが胸を占める。

 完成させなければ、と男は思った。
 なんとしてもこの任務を成功させなければならない。
 そうでなければ自分の立つ場所すら見えなくなりそうだ。

 俄然、男の動きが機敏になる。

 枯れかけた倒木の周囲に枝を積み上げていく。
 低木から枝を切り落として箒代わりに、落ち葉を倒木の周囲にかき集める。
 仕上げとばかりに用意しておいた油をかけ、倒木からほかの木へ道を作るように撒く。

 息が上がった。

 仕上げだ、と男は呟いた。

 その手には石が二つ握られていた。

 外は軽い興奮状態にあった。
 そわそわとした空気が天幕から出たクラウスを包んだ。

「姫は午睡だ。
 静かにしておくように」
「はっ」
 見張りの騎士は疑わず敬礼した。

 アインス国軍に赴いた使者が帰途に着いたという報せは、すでに知れ渡っていた。
 人々は結果を待ちきれず、あちこちで噂話をしている。

 年若いながらも頭の切れるという軍師がわざわざ出向いて行ったのだから大丈夫だろう、と安堵するもの。
 いや強暴なアインス国軍は渋って無理難題を言ってきただろう、と憤慨するもの。
 どちらもつばを飛ばして論議している。

 かの青年軍師が素性のすれない人間だと知るものは少ない。
 聖女と面識のある令息か、クラウスと同じ学童だったのだろうと伝わっている。
 高位指揮官となった三大領主と数名の騎士を除き、あえて閉口した。
 余計な混乱や疑惑の目を起こしたくなかったからだ。

 だがここまで来ると、さすがに気になるものもいるようだ。
 将軍たちの口から出たのはこれで二度目だが、いつまでもかわしきれるものでもない。

 もし和平が成って、国の再興に手をつけるようになったら。
 青年軍師はどうするのだろう。
 帰ってしまうのだろうか。

 もし和平が成り立たず、結局シュワルド国が滅んだら……。

 クラウスは首を振った。
 その考えはどうやっても想像できない。
 クラウスの中ではすでに和平は成り立つものとして考えられ、再興への手を伸ばしていた。

 大丈夫だろうと言う安堵。

 悔しいが、あの男は朗報を持って還るだろう。





 従者を連れて歩いていたクラウスを呼び止めるものがあった。
 モーガン将軍だ。

 厳つい顔のモーガン将軍はやや表情を緩め、見回りを中断させる詫びを口にして、クラウスを自分の天幕に誘った。
 お互いの従者を下がらせると、彼は懐から布の包みを机に置いた。

「昨夜の騒ぎの片付け作業をしておりましたとき、兵士が見つけたものです。
 どうぞ、ご覧ください」

 言われるままクラウスが包みを開くと、そこには大ぶりの指輪がすすけた姿で現れた。
 王侯貴族が名乗るときに使用する、家紋の彫られた指輪だった。
 大きさからして男物と思われる。

「これは?」
「家紋をよくご覧ください」

 指輪は汚れを簡単に拭い去られただけで、彫り物部分にはまだ煤や泥が入り込んでいた。
 それでも判読できる程度だ。
 細い蔦と、三叉に分かれた葉。

「ロイズ家のものです。
 国王と逃亡したロイズ家の方は、この陣地にはお一人しかおられないでしょう」
 はっとクラウスは顔を上げ、将軍を見つめた。

 将軍の目には困惑と恐れがあった。
 けっして非難の眼差しではないのが救いだ。
「しかし、これは男物。
 もしや誰か戻ってこられたのではと」
 クラウスは目の前の問題を片付けるため、ひとまずうなずいた。

「ロイズ家の男子といえば、ご当主のご子息とお孫が七人おられるはずです。
 指輪を持つのはそのうちの成人男子だけですから、お孫は除いてよいでしょう」

「亡くなられた方はおられませんか?」
「国王が逃亡する時点では、四人ともご存命でした。
 そのあとの足取りはつかめておりません」

「聖女どのの噂を聞きつけ、誰かが戻ってこられたという可能性が高いでしょうな」
「そうですね。
 焼け跡の中から見つかったという理由はわかりませんが、盗まれでもしないかぎり、誰かが近くまでおいでのはずです。
 しかし……」

 それならそうと、姿を現してもよいはずだ。
 家紋入りの指輪は持つだけで正当性を表しているのだから、疑われるはずもない。

「聖女どのを怪しげな魔女として、警戒しているのかもしれません」
 魔女説は、敵方アインス国軍で始まった。
 か弱い女の身で戦場を駆け回りながら、落馬したこともない女丈夫を見て恐れを抱き、そう思ったのかもしれない。
 それが噂となって国王一行の耳に入った可能性もある。

「間者として来たのでしょうな」
「…………。
 そうですね」
 指輪を見つめているとクラウスの胸に嫌な記憶が蘇える。

 初めてロイズ家の当主にあったとき、酔狂なヤツだと冷笑された。
 怒りを抑えるのに苦労した。
 娘を王子の身代わりに仕立て上げるしか出世の望めない男に膝を折るのは屈辱だった。
 それも未来の主のためならばと、耐えられたことだが。

「警護を増やされますか?」
「…………いいえ。
 軍師の言葉ですが、かえって目立つでしょう。
 スライに伝えて、警戒させておきます。
 何がおきるかわかりません」

 モーガン将軍は肯定してうなずいた。

「しかし、将軍は……ご存知、でしたか」
「恐れながら……」

 日焼けした顔を苦笑させ、モーガン将軍は手を胸に当てた。
「四年前の出撃の際、謁見には王とお子全員が出席されました。
 お子は全員で四名……」

 そのときすでに嫁していた王女二人を除く数だ。
 その後二人の王子が死に、一人の王女が嫁した。
 残る一人は王とともに逃亡の身。

「内密の約定を取り交わしていただけるのなら」
 将軍は剣にかけて誓うと口にした。

「姫は王子ではなく、王子らの御いとこあたられる方です」
「では、ロイズ家の姫君のご息女で?」
「は? ……いいえ。
 ロイズ家当主の、庶子としてお生まれになりました。

 ……あの、ロイズ家の姫というのは?」
「お若い方はあまりお知りにならないでしょう。
 ですが……いや、かの姫のことは、噂のひとつしてお聞きください」

 モーガン将軍はひとつ咳払いをして、崩れてもいない居住まいを正した。
「ロイズ家は代々、男子ばかりの生まれる家系でして、嫁いで縁を持つということの滅多にできない家でした。
 それが、現当主には三人の姉妹がお生まれになったのです」
「三人、ですか……」

「はい。
 残念ながら、ご長女は夭折され、国王に嫁されたのは二番目の姫です。
 ご存知のとおり、お体の細い方で、王子を一人お産みになられて以降は、みな側室のお子ばかりでした。
 そして三番目の姫は、ご幼少のときすでに許婚のもとにおられたのです。
 それで知るものも少ないのですよ」

「許婚……」
 珍しいことではない。
 物心つく前から親同士が許婚を決めるのはよくあることだ。
 十歳くらいになると相手のもとへ行儀見習いとして送られ、正式な婚約を交わすと家に戻る。
 結婚してから、改めて同棲することになる。

「そうですか。
 では、その方は……」
 クラウスは期待を込めて訊ねた。
 今どちらにおいでなのか、と。

 だがモーガン将軍は首を横に振った。
「お亡くなりになりました」
「…………」

「相手方は、ひどく落胆されたという話ですが、もともとお体の弱い方でした。
 こればかりは……」
「そう……です、か」

 クラウスも落胆した。
 もし何か遭ったときその伯母を訪ねることができると、考えていたのだ。
 父親は役に立つどころか敵になりかねないが、伯母なら希望はあっただろうに。

「しかし、ロイズ子爵に庶子がいるとは存じませんでした」
「はい。
 庶子とはいえど、なにぶんあのご容姿ですので、小さな庵でつつがなくお暮らしでした。
 偶然お会いしたわたしを、唯一の友人として」

「そうでしたか」
 モーガン将軍は下向き三角形の髭を撫でながらうなずいた。
 何か青い思い出でもあるのだろうか、遠い目をしている。

「クラウス殿。
 わたしとしましては、聖女どののお生まれがなんであれ、最後までお味方いたします。
 おぉもちろん、再興のお手伝いもさせていただきますぞ」

 そう言ってモーガン将軍は、大きな口で笑った。





 モーガン将軍の天幕を出ると、外で待っていた従者に盗賊の頭を呼ぶよう言付けた。

 あの盗賊のことだから見つけるのは難しいだろう。
 巨漢の癖に身を隠すのに長けていて、自分からひょっこり現れるまで見つけることができないのだ。
 大声で呼び続けるしかない。

 自分の天幕に戻ると、布を濡らして顔と首を拭いた。
 常に甲冑を着込んでいるとはいえ、暑さに汗が流れないことはない。
 それもあと、ふた月もすれば昼間も過ごしやすくなるだろう。

 二人分のお茶の用意が終えた頃、盗賊の頭はひょっこり現れた。
「呼んだかい?」
「あぁ。まぁ、座ってくれ」

 クラウスが天幕に呼びつけるときは内密の話だと盗賊の頭は知っている。
 いつものように取り巻きは外に残して来たのだろう。

 砂糖をたっぷりと入れたお茶をひとつ差し出す。
 荒くれた男たちを取りまとめ指揮をする大男は、無類の甘党だった。

「で?」
「姫の周囲の警護を強化してほしい」
「厄介事かい?」
「あぁ」

 クラウスはうなずいて、モーガン将軍から預かった指輪を見せて事の次第を話した。
 聞き終えたスライは「ふーん」と興味のない相槌を打った。
 これもいつものことだ。

「お姫さんも大変だぁな。
 置いてきぼりくらったかと思ったら、戦場這いずり回ってよ。
 かと思いきや、昔のしがらみに狙われちまうとは」

 因果なもんだ、と盗賊の頭は呟いた。
 その口元には寂しげな笑みが浮かんでいる。

「お姫さんにはこのこと、話したのかい?」
「いいや。
 いまは午睡だ」

「使者が無事に帰ってくるってんだ。
 気が抜けたんだろうな。
 いくら変わりもんのお姫様でもなぁ」
 眉間にしわを寄せたクラウスはそれでも何もいわず、お茶で喉をふさいだ。

「知ってるかい? お姫さん、短弓が珍しかったらしくってな、それはなんだ、ってな感じで聞いてきたんだそうだ」
「いつだ?」
 それは初耳だ。

「ブルゲスの旦那に会う前だ。
 あいつらびびって、作り方から飛ばし方まで教えたらしいぜ。
 おもしろいお姫さんだよなぁ。
 なんかこう……ほっぺ突いてやりたくなる」

 ぶっとクラウスはお茶を吹き出した。
「きったね!」
「きっ、貴様がおかしなことを言うからだ!
 姫にそんなことをしてみろ!」
「うぎゃっ」

 唾を飛ばして怒るクラウスに向かって、スライは両手を上げて降参する。
 仰け反って、飛んでくるものを避けるのも忘れない。

「わかってるよ。
 わかってるって! んなこたぁしねぇよ」
「本当にわかっているのか!」
「しようもんなら、おまえさんが俺のケツに噛み付いてくらぁ」
「誰が貴様の尻など噛み付くか!」

「あぁ、たとえだよ、たとえ。
 言い方が悪かったな」
「妙な例えをするな!」
「古女房に浮気がばれたときみたいになるって言やぁいいのか?」
「誰が貴様の古女房だ!」
「じゃぁなんて言やぁ気が済むんだよ!」

 まったくおめぇはよぉ、とスライは脱力して肩を落とした。
「言っとくけどなぁ、クラウス。
 俺たちにはな、上品な女はどうもあわねぇんだよ。
 しな作ってなだれかかってくるような身軽なのが、気楽でいいんだな。
 わかるか?」

「町娘に手を出していたようだが」
 うっ、と盗賊の頭はうめいた。

「バ、バカっ。
 ありゃ、ザロはまだ入りたてで、若けぇからだよ。
 何にでも熱いれちまうんだ。
 ……いや、もしかしたら、足抜けするかもなぁ」

 強烈に甘いはずのお茶を飲み干し、スライは言い継ぐ。
「ま、かまわねぇけどよ。
 ちょっくら刺青いれて、仲間のことは死ぬまで口にしねぇって約束さえしてくれりゃぁ、どこへ行こうとかまわねぇんだ」

「いいのか、それで?」
 盗賊団によっては、仲間を辞めること自体死を意味することもある。
 命までとらなくても、生涯まともに動かない体にされることもある。

 いいんだよ、とスライは笑う。
「俺らはいつも、やりたいようにやってる。
 誰にも束縛されたくない。
 誰にも邪魔されたくない。
 だから、抜けようが入ろうが、勝手にしやがれってんだ」
 わははは、と盗賊の頭は笑った。

「緑のアルキスっての、知ってるかい?」
「いいや。
 聞いたことはないな」
「大昔の大盗賊だよ。
 国を造っちまったっていう」

「まさか!」
 クラウスはきっぱりと否定した。
 そんなこと、御伽噺でも聞いたことはない。

「いるんだよ。
 どっか遠い国のことらしい。
 この大陸じゃねぇって話だ。
 けどカッコイイじゃねぇか。
 大盗賊にして建国の父ってのはよ!
 憧れるんだよ、おれはよ!」

 大男は突然立ち上がった。
 ご機嫌な顔で訊ねてくる。
「なぁクラウス。
 俺たちもちったぁ、アルキスみてぇだろう?」

 答えを待つ間もなく鼻歌を謳いながら現代の盗賊は天幕を出て行った。
 クラウスにしてみれば建国の父だろうと盗賊であることが間違っている。

 机の上に置かれた首輪を手にとる。
 指にはめようとしたが、どうもクラウスには小さい。
 薬指にやっとはいるくらいだ。
 武の家柄の男ならばもっと指も太いだろうに、とクラウスは思った。

 クラウス自身は兄弟のなかで唯一の武官で、成人のときに貰った兄の指輪が小さかったくらいだ。
 当時は薬指になんとかはいったが、今では剣を握ることもあって紐を通して首に下げている。

(それにしても、まだ新しい……)
 一度補修したクラウスの家紋指輪よりも傷が少ない。

 マリーナの異母兄たちは三十歳近いはずだ。
 補修したてというならともかく、つい先日できあがった新品に思える。

「クラウス!」
「!」

 天幕の布戸を激しくあおり盗賊が戻ってきた。
 驚いてクラウスは指輪を落としてしまう。

「な……なんだ?」
 来たときとは打って変わって慎重に布戸を閉めると、スライはクラウスの腕をとって立ち上がらせた。
 天幕の中心まで移動すると、誰もいないはずの天幕内を見回した。

 顔を近づけ、小さな声で問う。
「モーガンの旦那んとこからも、火事の後始末の人手は出したのか?」

「いいや。
 おまえたちと民兵に任せたはずだ」
 スライが警戒するものはわからなかったが、クラウスも小声で応えた。

「だよな。
 じゃぁなんで指輪は、俺じゃなく、将軍とこにいったんだ?」
「…………」

「俺は午後いっぱい作業場にいたんだぜ。
 将軍はおまえたちと会議中だっただろう?」
 何度か休憩を挟んだとはいえ、その姿が集まった誰かの視界から消えたはずはない。

「それに、将軍は兵士といったんだよな?」
「あ…………」
 クラウスは愕然とした。

 確かにモーガン将軍は『作業をしていた兵士』と言った。
 だがそんなものはいないはずだ。
 いたのは盗賊と民兵だけだった。
 兵力が必要になるかもしれない警護や巡回に兵士を回すため、その配役となったのだ。

 クラウスは瞬きを忘れて盗賊の頭を見た。
 スライも額から汗を流して騎士を見ている。
 申し合わせたように、二人の視線が地面に落ちた指輪に移った。

 薄汚れた、いるはずのないロイズ家男子の、家紋指輪───。

「火事場のなかから見つかったにしちゃぁ、溶けた様子もねぇ」
「…………」
「どうする?」
 先ほどよりももっと小さな声でスライが囁いた。

「本人に聞くか?」
 クラウスはカラカラに乾いた喉にどうにか唾を通した。
 小さく首を横に振る。

「真意が、わからない」
「お姫さんが危険だ」
「警護を」
「増やした。
 あいつを特に注意するよう、言っといた」

 クラウスはうなずいた。
「わたしは、姫の、おそばに」
「それがいい。
 ケツにくらいついてろ」

 ぶっとクラウスは再び吹き出す。
「だから! 貴様はその口調を改めろ!」

 言い終える前にすでに盗賊は布戸まで逃げてしまった。
「イヤなこった!」
 盗賊は言いながら天幕の外に逃げてしまった。

「……!」
 クラウスは地団太を踏んだ。
 それでも、最後のやり取りでなんとか冷静さを取り戻している。

 地面の指輪を拾うと、クラウスは天幕を出た。

 主の下に。

 休戦を告げる使者が立った翌日。

 火事騒ぎ以降、不思議なくらい何も起こらなかった。
 日に一度は必ず襲撃してきたアインス軍の姿はちらりともしない。

 もしかして軍師さまがもう休戦を取り決めてしまったからじゃないか。
 だったら今のうちに攻め込もう
 軍師さまに何か遭ったんじゃぁ
 アインス人は逃げちまったんだよ。
 ……などと噂が飛び交うくらいに穏やかな日だった。

 間者の報告ではアインス軍は、ブルゲス伯の領地境ぎりぎりに駐屯している。

 軍師が書記官と護衛とともに敵陣の中にはいるまで間者は見届けてきた。
 それからは一定置きに報告がはいるが、なんの変化もない。
 アインス軍の駐屯地は昼寝でもしているかのように静かだということだった。

「周囲は一般兵の天幕だとすると……敵方将軍は中央でしょうか」
「腰を据えるつもりなら、そうするでしょうね。
 食糧が最後に運ばれたのはいつだ?」
「二日前になります。
 南東から五体の荷物が運ばれました」

 これまでもアインス軍は長くても六日で食糧の補充をしてきた。
 暑い気候と、軽量のためだろう。
 シュワルド民軍は今のところどこに行っても食べるものに困らない。
 行く先々で、住民の支持をえることができたからだ。
 戦闘に加わらなくても、彼らは彼らなりに戦ってくれた。

 将軍と二大領主、間者を含めて、マリーナたちは顔を突き合わせていた。
 今後何が起こってもよいように、敵方の状況を把握しておきたかったのだ。

 会議用に用意された広い天幕の中に、新たな情報をもった間者がきた。
「軍師さまが戻られます」

 マリーナはおもわず立ち上がった。
 かたわらの騎士を見て、ひとつうなずく。

「いつ頃だ?」
「日が沈む頃には」

 昨日の朝早くに出ればその日の昼には敵方陣地に着いただろう。
 だがフォスターは周囲の様子を見たいからといって、陽が昇ってから翌日早朝に着くように出て行ったのだ。

 戻ってきて、火事の跡を見れば驚くだろう。
 だがそれ以上に、彼はどんな返事を持ち帰るのだろうか。

 おぉ、と声があがった。
 期待と不安が入り混じったものだ。

 クラウスだけは、険しい顔で自分の背後を振り返った。
 まだ背後を取られたことを根に持っているらしい。
 幸い、フォスターはまだいなかった。

「誰もケガなどはしていないか?」
「はい。全員、無事に出発されたそうです」

 正式な使者といっても敵方に赴くのだ。
 休戦など知らない、和平など考えもしないと、問答無用で切り捨てられる可能性もあった。
 だからフォスターは少人数で無抵抗状態を示し、刺激するのを控えた。

 間者の言葉に、それぞれの顔にそれぞれの表情が浮かんだ。
 誰もがうまくいくことを望んでいて、そうなることを考えようと必死に笑みを浮かべた。
 だがモーガン将軍は一人、複雑な表情だった。

「どうかされましたか、将軍?」
「は……。はい、聖女どの。
 ここまでは軍師どのの考えどおりに事が運びました。
 この調子で、何事もなく和平に結びつけるよう、最後まで気を引き締めなければと……思いまして」

 将軍は苦笑した。
 緊張のあまり笑いの形をとることもできなかったと言うのだ。

「えぇ、本当に。
 もう少しです。
 みなさん、がんばりましょう」
 聖女の言葉で、やっと全員が笑みを浮かべることができた。

 間者を下がらせた後も誰も天幕から出なかった。
 緊張がほぐれると気持ちの余裕もできて、談笑が続いたのだ。

「ところで、聖女どの。
 あの軍師どのはどこのご子息です?」
「おぉ、そうだ。
 それはわたしも気になっておりました。
 これほど巧みな戦術を持つ令息など、聞いたこともありませんでしたぞ」

 これには二人、ひやりとした。

 マリーナ自身は、その仕草や言葉遣いからしてどこかの男勝りな令嬢と思われている。
 シュワルド王家の縁者ではという声もちらほら聞こえるが、現状でそれを口にするのは危険だ。
 逃げた国王一家を恨む者もいる。

 クラウスはそのままだ。
 エメール男爵子息で、令嬢の侍従で幼なじみで、今はその騎士である。
 これには同僚の言葉もあるので心配ない。

「お身内ですか?」
「あの…………」
 答えにつまったマリーナは、とりあえず嘘をつかないことにした。

「友人の紹介で知り合ったのです。
 こんなご時世ですから、友人が心配して、わざわざ彼に様子を見てきてほしいと、頼んだのだそうです」

 ほう、とモーガン将軍がうなずいた。
「他国の方ですか、ご友人は」
「はい。突然現れては、突然帰ってしまう人なのです」
 マリーナは苦笑して答えた。
 まさにそのとおりだったからだ。

 使者を迎える準備に領主たちが去ると、マリーナはホッと息を吐いた。
 気が付くと汗をかいていた。

 一日のうちで一番暑い時刻だ。
 陰を作る天幕の中でもむっとする熱気で汗が流れる。
 クラウスがそっと拭き布を差し出す。

 花の咲き乱れていた季節はあっという間に過ぎ、嵐と炎天の日々も終わろうとしていた。
 青いばかりの稲穂がもうすぐ色づくだろう。

「姫」
 汗を拭くマリーナに、クラウスの真剣な声が呼びかけた。
「なに?」

「……フォスターは、本当に、誰なのでしょうか?」
 マリーナはきょとんとした。
 クラウスの言葉の意味をよくつかめなかった。

「あなたのご友人といっても、ほんの一晩、宿をお貸ししただけでしょう?」
「そうだ。でも……」
「でも?」
「でも…………。
 あのな、クラウス……あの…………」

 巧く言葉を作れない。

 どうすれば伝わるのだろう。
 あの少女と過ごした一時が大切だったのか、どれほど貴重なものだったのか。
 怒り、励まし、嘆いてくれた少女の気持ちを伝えたいのに、いざ言葉に使用とするとこれほど難しいものだとは思わなかった。

 クラウスが訝しい顔をする。
 困った人だと、言い出しそうだ。

 泣きそうな顔を俯けたマリーナは唇を噛む。
 弁解してもあげられずに友人だなんて、おこがましいのかもしれない。



『何もしようとしてないくせに!』

 少女の声がした。

(そうだ。だめだ!)
 何もしないうちに諦めてはならない。

 拭き布を両手で握りしめる。
「クラウス」
 緊張を含んだ強い口調で騎士を呼ぶと、彼は驚いたように応える。
「はい、姫」

「フォスターが誰なのかなんて、わ、わたしにも、わからない。
 シルヴィアは、生まれた国は、と……遠いところだと言っていただけだ。
 でも、素性で言うのなら、わたしだって応えられない。
 答えるわけにはいかない」

 実父の身を危うくするだけでなく、王の虚偽をさらけ出してしまうことになる。
「…………」

「でも……でも、クラウス。
 この半年のうちにわかったことがある」

 彼はマリーナを励まし、陰ながら支えてくれた。
 たった一晩宿を貸しただけなのに、少女は我がことのように心配して。
 戦闘中に危険が迫ればいち早く大声を上げて兵を動かし、敵を巻き返していく青年。
 寝台の敷布を替え、乏しい食料でおいしい料理を作ってくれた少女。

 戦え、と彼が。

 逃げましょう、と少女が。

 なんの見返りもないとわかっていながら、手を引いてくれたのだ。

「フォスターは、わたしたちの味方だ」

 きっぱりとマリーナは言った。
 これだけは譲れないと、クラウスを強い眼差しで見つめる。
 ここで逃げればすべてを失いそうな気がした。
 築き上げたものが砂の城のように解けてしまいそうになる。

「いまは、彼が必要なんだ」

 クラウスの瞳が戸惑いに揺れた。
 薄暗い夜空を写しこんだ瞳がじっとマリーナを見つめる。
 マリーナは吸い込まれそうになるのを必死に堪え、心の中で賢明に自身を励ました。

 午後の風が、天幕の裾から入り込む。
 分厚い革の靴ではその風を感じることができない。
 柔らかな絹でできた服ではないので風通しは悪く、重たくて、いつもより汗が出た。

「この国を救うのに、飾られるだけのわたしだけでは足りない。
 わたしを守ってくれるクラウスだけではなく、わたしを信じてついてきてくれた人々だけでなく、みんなを…………みんなの往く手を示してくれる人が、必要なんだ。

 わたしだって、行き先を指差すだけならできるだろう。
 でもどこを指していいのかわからない。
 自分の国だというのに、わたしは町の名前もそんなに知らない。
 どこに何があるのかも知らない。
 文字は読み書きできても、地図だって、ここに来て初めて見たくらいだ。

 婆やは教えてくれなかった。
 必要なかったんだ、わたしには。
 だって……だってわたしは、ただの…………」

 はっと口を押さえる。

 気づけば、胸がどくどくと鳴っていた。
 視界が揺れるほど激しく振動するので、呼吸も苦しくなるほどだ。

 不自然に空いた喉から恐ろしいものがでようとしていた。
 歯を食いしばって飲み込むと、口腔に苦いものが広がった。

「わた、し、は……」

 顔が熱い。
 暖炉に近づいたときのように熱くなって、けれど目は乾くどころかみるみる潤み、涙が頬を伝い落ちた。
 口を押さえた手を濡らした。

「…………た……し……」

 わたしは、誰なんだろう───


 フォスターよりもシルヴィアよりも、マリーナの存在が一番わからない。
 不確かな出生、王子の影、王の虚偽物、名も知らぬ母……。

 なぜ広い庭の片隅の小屋に、老婆と二人、住まわせたのか。

 第二王子の身代わり。
 なぜ最初から第二位継承者の影を、自分が任ぜられたのか。

 そしてただ死ぬためだけに三番目として名乗りをあげた。
 することは、敵の目の前で死んで見せることだけ。
 王子と判別できる程度に、ばらばらになって見せるだけ。

 たったそれだけ。

 城の一室で一人ポツンと立ち尽くした。
 ほかにすることがなかったから。
 時が来るのを待っていればよかったから。

 一度しかない役目。
 失敗は許されない。

 間違えないように何度もその時を想像した。
 自分の死に様を考えていて、あまりの不気味さに気分が悪くなった。

 外に出た。

 庭ぐらいなら、大丈夫だろう。

 見上げたの空の青さに目を奪われて、ふらふらと庭を歩いた。
 空の青色は、別邸から見えていた晴天と、目の覚めるような海を思い出した。
 甘い花の匂いに誘われる蜜蜂のように、白い花を咲かせる茂みに近寄った。

 そのとき、がさがさと木の葉を揺らす音がした。

『あいたっ』
 陽射しに照らされてキラキラと金髪を輝かせた少女が転がり出てきた。

 マリーナが男装していると気づいたとき、少女なんと思ったのだろう。
 異質なものを見る目をしていたのだろうか。
 少女はただ気づいただけで何も言わなかった。

 それでも少女はマリーナに手を差し伸べてくれた。
 逃げよう、と。
 囚人に牢獄の鍵を渡す恩情のような、貧しい病人に薬を差し出す同情にも似た、けれど真摯な眼差しをして。

 クラウスでさえ信じられないと首を横に振ったのに。
 許してくれるまで何日もかかったのに。

「……し、は………………だ…………」

 喉に疑問が絡みついた。
 苦しくて出してしまいたいのに、それは訊ねてはいけないと、喉が押しとどめてしまう。

 彼はその疑問に答えきれないだろう。
 彼が知るはずないものだから。

 今のマリーナを受け入れるのだけで精一杯のはずだ。
 それ以上求めるのは酷だった。

 マリーナは諦めて、疑問を嗚咽に変えた。

 哀しいばかりの音が天幕の中に響いた。