休戦を告げる使者が立った翌日。
火事騒ぎ以降、不思議なくらい何も起こらなかった。
日に一度は必ず襲撃してきたアインス軍の姿はちらりともしない。
もしかして軍師さまがもう休戦を取り決めてしまったからじゃないか。
だったら今のうちに攻め込もう
軍師さまに何か遭ったんじゃぁ
アインス人は逃げちまったんだよ。
……などと噂が飛び交うくらいに穏やかな日だった。
間者の報告ではアインス軍は、ブルゲス伯の領地境ぎりぎりに駐屯している。
軍師が書記官と護衛とともに敵陣の中にはいるまで間者は見届けてきた。
それからは一定置きに報告がはいるが、なんの変化もない。
アインス軍の駐屯地は昼寝でもしているかのように静かだということだった。
「周囲は一般兵の天幕だとすると……敵方将軍は中央でしょうか」
「腰を据えるつもりなら、そうするでしょうね。
食糧が最後に運ばれたのはいつだ?」
「二日前になります。
南東から五体の荷物が運ばれました」
これまでもアインス軍は長くても六日で食糧の補充をしてきた。
暑い気候と、軽量のためだろう。
シュワルド民軍は今のところどこに行っても食べるものに困らない。
行く先々で、住民の支持をえることができたからだ。
戦闘に加わらなくても、彼らは彼らなりに戦ってくれた。
将軍と二大領主、間者を含めて、マリーナたちは顔を突き合わせていた。
今後何が起こってもよいように、敵方の状況を把握しておきたかったのだ。
会議用に用意された広い天幕の中に、新たな情報をもった間者がきた。
「軍師さまが戻られます」
マリーナはおもわず立ち上がった。
かたわらの騎士を見て、ひとつうなずく。
「いつ頃だ?」
「日が沈む頃には」
昨日の朝早くに出ればその日の昼には敵方陣地に着いただろう。
だがフォスターは周囲の様子を見たいからといって、陽が昇ってから翌日早朝に着くように出て行ったのだ。
戻ってきて、火事の跡を見れば驚くだろう。
だがそれ以上に、彼はどんな返事を持ち帰るのだろうか。
おぉ、と声があがった。
期待と不安が入り混じったものだ。
クラウスだけは、険しい顔で自分の背後を振り返った。
まだ背後を取られたことを根に持っているらしい。
幸い、フォスターはまだいなかった。
「誰もケガなどはしていないか?」
「はい。全員、無事に出発されたそうです」
正式な使者といっても敵方に赴くのだ。
休戦など知らない、和平など考えもしないと、問答無用で切り捨てられる可能性もあった。
だからフォスターは少人数で無抵抗状態を示し、刺激するのを控えた。
間者の言葉に、それぞれの顔にそれぞれの表情が浮かんだ。
誰もがうまくいくことを望んでいて、そうなることを考えようと必死に笑みを浮かべた。
だがモーガン将軍は一人、複雑な表情だった。
「どうかされましたか、将軍?」
「は……。はい、聖女どの。
ここまでは軍師どのの考えどおりに事が運びました。
この調子で、何事もなく和平に結びつけるよう、最後まで気を引き締めなければと……思いまして」
将軍は苦笑した。
緊張のあまり笑いの形をとることもできなかったと言うのだ。
「えぇ、本当に。
もう少しです。
みなさん、がんばりましょう」
聖女の言葉で、やっと全員が笑みを浮かべることができた。
間者を下がらせた後も誰も天幕から出なかった。
緊張がほぐれると気持ちの余裕もできて、談笑が続いたのだ。
「ところで、聖女どの。
あの軍師どのはどこのご子息です?」
「おぉ、そうだ。
それはわたしも気になっておりました。
これほど巧みな戦術を持つ令息など、聞いたこともありませんでしたぞ」
これには二人、ひやりとした。
マリーナ自身は、その仕草や言葉遣いからしてどこかの男勝りな令嬢と思われている。
シュワルド王家の縁者ではという声もちらほら聞こえるが、現状でそれを口にするのは危険だ。
逃げた国王一家を恨む者もいる。
クラウスはそのままだ。
エメール男爵子息で、令嬢の侍従で幼なじみで、今はその騎士である。
これには同僚の言葉もあるので心配ない。
「お身内ですか?」
「あの…………」
答えにつまったマリーナは、とりあえず嘘をつかないことにした。
「友人の紹介で知り合ったのです。
こんなご時世ですから、友人が心配して、わざわざ彼に様子を見てきてほしいと、頼んだのだそうです」
ほう、とモーガン将軍がうなずいた。
「他国の方ですか、ご友人は」
「はい。突然現れては、突然帰ってしまう人なのです」
マリーナは苦笑して答えた。
まさにそのとおりだったからだ。
使者を迎える準備に領主たちが去ると、マリーナはホッと息を吐いた。
気が付くと汗をかいていた。
一日のうちで一番暑い時刻だ。
陰を作る天幕の中でもむっとする熱気で汗が流れる。
クラウスがそっと拭き布を差し出す。
花の咲き乱れていた季節はあっという間に過ぎ、嵐と炎天の日々も終わろうとしていた。
青いばかりの稲穂がもうすぐ色づくだろう。
「姫」
汗を拭くマリーナに、クラウスの真剣な声が呼びかけた。
「なに?」
「……フォスターは、本当に、誰なのでしょうか?」
マリーナはきょとんとした。
クラウスの言葉の意味をよくつかめなかった。
「あなたのご友人といっても、ほんの一晩、宿をお貸ししただけでしょう?」
「そうだ。でも……」
「でも?」
「でも…………。
あのな、クラウス……あの…………」
巧く言葉を作れない。
どうすれば伝わるのだろう。
あの少女と過ごした一時が大切だったのか、どれほど貴重なものだったのか。
怒り、励まし、嘆いてくれた少女の気持ちを伝えたいのに、いざ言葉に使用とするとこれほど難しいものだとは思わなかった。
クラウスが訝しい顔をする。
困った人だと、言い出しそうだ。
泣きそうな顔を俯けたマリーナは唇を噛む。
弁解してもあげられずに友人だなんて、おこがましいのかもしれない。
『何もしようとしてないくせに!』
少女の声がした。
(そうだ。だめだ!)
何もしないうちに諦めてはならない。
拭き布を両手で握りしめる。
「クラウス」
緊張を含んだ強い口調で騎士を呼ぶと、彼は驚いたように応える。
「はい、姫」
「フォスターが誰なのかなんて、わ、わたしにも、わからない。
シルヴィアは、生まれた国は、と……遠いところだと言っていただけだ。
でも、素性で言うのなら、わたしだって応えられない。
答えるわけにはいかない」
実父の身を危うくするだけでなく、王の虚偽をさらけ出してしまうことになる。
「…………」
「でも……でも、クラウス。
この半年のうちにわかったことがある」
彼はマリーナを励まし、陰ながら支えてくれた。
たった一晩宿を貸しただけなのに、少女は我がことのように心配して。
戦闘中に危険が迫ればいち早く大声を上げて兵を動かし、敵を巻き返していく青年。
寝台の敷布を替え、乏しい食料でおいしい料理を作ってくれた少女。
戦え、と彼が。
逃げましょう、と少女が。
なんの見返りもないとわかっていながら、手を引いてくれたのだ。
「フォスターは、わたしたちの味方だ」
きっぱりとマリーナは言った。
これだけは譲れないと、クラウスを強い眼差しで見つめる。
ここで逃げればすべてを失いそうな気がした。
築き上げたものが砂の城のように解けてしまいそうになる。
「いまは、彼が必要なんだ」
クラウスの瞳が戸惑いに揺れた。
薄暗い夜空を写しこんだ瞳がじっとマリーナを見つめる。
マリーナは吸い込まれそうになるのを必死に堪え、心の中で賢明に自身を励ました。
午後の風が、天幕の裾から入り込む。
分厚い革の靴ではその風を感じることができない。
柔らかな絹でできた服ではないので風通しは悪く、重たくて、いつもより汗が出た。
「この国を救うのに、飾られるだけのわたしだけでは足りない。
わたしを守ってくれるクラウスだけではなく、わたしを信じてついてきてくれた人々だけでなく、みんなを…………みんなの往く手を示してくれる人が、必要なんだ。
わたしだって、行き先を指差すだけならできるだろう。
でもどこを指していいのかわからない。
自分の国だというのに、わたしは町の名前もそんなに知らない。
どこに何があるのかも知らない。
文字は読み書きできても、地図だって、ここに来て初めて見たくらいだ。
婆やは教えてくれなかった。
必要なかったんだ、わたしには。
だって……だってわたしは、ただの…………」
はっと口を押さえる。
気づけば、胸がどくどくと鳴っていた。
視界が揺れるほど激しく振動するので、呼吸も苦しくなるほどだ。
不自然に空いた喉から恐ろしいものがでようとしていた。
歯を食いしばって飲み込むと、口腔に苦いものが広がった。
「わた、し、は……」
顔が熱い。
暖炉に近づいたときのように熱くなって、けれど目は乾くどころかみるみる潤み、涙が頬を伝い落ちた。
口を押さえた手を濡らした。
「…………た……し……」
わたしは、誰なんだろう───
フォスターよりもシルヴィアよりも、マリーナの存在が一番わからない。
不確かな出生、王子の影、王の虚偽物、名も知らぬ母……。
なぜ広い庭の片隅の小屋に、老婆と二人、住まわせたのか。
第二王子の身代わり。
なぜ最初から第二位継承者の影を、自分が任ぜられたのか。
そしてただ死ぬためだけに三番目として名乗りをあげた。
することは、敵の目の前で死んで見せることだけ。
王子と判別できる程度に、ばらばらになって見せるだけ。
たったそれだけ。
城の一室で一人ポツンと立ち尽くした。
ほかにすることがなかったから。
時が来るのを待っていればよかったから。
一度しかない役目。
失敗は許されない。
間違えないように何度もその時を想像した。
自分の死に様を考えていて、あまりの不気味さに気分が悪くなった。
外に出た。
庭ぐらいなら、大丈夫だろう。
見上げたの空の青さに目を奪われて、ふらふらと庭を歩いた。
空の青色は、別邸から見えていた晴天と、目の覚めるような海を思い出した。
甘い花の匂いに誘われる蜜蜂のように、白い花を咲かせる茂みに近寄った。
そのとき、がさがさと木の葉を揺らす音がした。
『あいたっ』
陽射しに照らされてキラキラと金髪を輝かせた少女が転がり出てきた。
マリーナが男装していると気づいたとき、少女なんと思ったのだろう。
異質なものを見る目をしていたのだろうか。
少女はただ気づいただけで何も言わなかった。
それでも少女はマリーナに手を差し伸べてくれた。
逃げよう、と。
囚人に牢獄の鍵を渡す恩情のような、貧しい病人に薬を差し出す同情にも似た、けれど真摯な眼差しをして。
クラウスでさえ信じられないと首を横に振ったのに。
許してくれるまで何日もかかったのに。
「……し、は………………だ…………」
喉に疑問が絡みついた。
苦しくて出してしまいたいのに、それは訊ねてはいけないと、喉が押しとどめてしまう。
彼はその疑問に答えきれないだろう。
彼が知るはずないものだから。
今のマリーナを受け入れるのだけで精一杯のはずだ。
それ以上求めるのは酷だった。
マリーナは諦めて、疑問を嗚咽に変えた。
哀しいばかりの音が天幕の中に響いた。