太陽の光に照らされキラキラと輝く水面。
 流れをせき止めるように両手が差し入れられ、小さな渦が起きる。

 水を溢れるほど汲んだ両手に口をつける。
 ゴクリ、ゴクリと喉を鳴らして飲み干す。
 口元を袖で乱暴に拭いた。
 ふぅ、と安堵の息が漏れる。

 川のふちに腰掛けると、体がずしんと重くなった。
 昨夜はずいぶん無理をしたらしく、しばらく動けそうにない。

 それでも脚を叱咤して立ち上がると、木陰と茂みの間に身を隠した。
 休むにしても、簡単に人の目に晒されるところではいけないのだ。

 なぜだ、と怒りが湧き出す。
 落ち着いていた激しい感情が呼吸を荒くし、地面に爪を立てさせる。
 強く食いしばった歯の隙間からギリギリと音がした。

 なぜ自分がこんなめにあわなければならないのか───それは何度考えても理不尽だと思った。
 主に見捨てられ、寄る場所を失った父は発狂のもと死に、自分に残されたのは過去に栄光を受けた異物だけ。
 家名というガラクタだ。

 たまたま一族に穢れが生まれただけで、これほど落ちぶれなければならないものなのか。

(いいや、違う!)
 男は思った。

 自分は何も悪くはない。
 一族の男子として恥じない行動をしてきた。
 悪いのはすべて、あの『穢れ』なのだ。

 あの『穢れ』さえいなければ、再び一族は栄えるだろう。
 自分は亡父の跡を継ぎ、立派な家長となれるだろう。

 男は深い深いため息をついた。
 少し休もうと、目を閉じる。

 耳元には川の流れる音と、遠くで鳥の鳴き声がするだけだった。


 胸を張って並んでいろとは言われたものの、クラウスは落ち着かないでいた。
 肩を怒らせ駐屯地を何度巡回しても不安が消えない。
 いま駐屯するのがいくらブルゲス伯の領地で、まだアインス国軍の手の届かない場所だといっても。

 なだらかな高低を繰り返す草原。
 青々とした緑が視界を埋め尽くす。
 その緑に抱かれるようにして、天幕が星のように散らばっている。

 西に見える山の向こうにブルゲス伯の城があり、北の湿地帯と山を越えると、国境のワーナー男爵の領地になる。

 同国人でありながら味方をするでもなく、なんの反応も示さない大領地は三つある。
 ワーナー男爵もその一人だ。
 聖女の一行がこれだけ近くにいても、使者の一人も来ない。

 クラウスは北を睨みつけた。
「おいおい兄さん。
 なぁに睨んでんだよ」
 男が一人、馬を隣に並べてきた。

 明らかに騎士でも一般人でもないこの男は、最初に仲間になった山賊の頭。
 傷だらけの胸当てに分厚い脛当てや手甲、武器は大ぶりの剣といったいかにも凶暴な外見だが、付き合っていくうちに鬱陶しいほど人懐こいこともわかった。

「おまえさんの顔見て、やつらビビッてるじゃねぇか。
 もっと愛想よくしてやれよ」
「部下に愛想を振り撒いてどうする」
 わかっちゃいねぇなぁ、と男が首を振る。

「軍師どのは大丈夫だって言ってたんだろ?」
「そうだ」
「だったら、そんなピリピリするこたぁねぇだろ」
「フォスターは交渉については保障した。
 だが奇襲には備えろと言ったんだ」

 交渉中に敵側を攻撃することは非道だが、軍師は、今のアインス国軍ならやりかねないと言った。
 特に聖女の護衛は厳重にしなければならない。
 だが軍師は今度は、それはだめだと言った。
 かえって目立つ、と。

 反発したクラウスだが、盗賊の頭から選り抜きの忍びを用意したといわれれば、それ以上は抗議できなかった。
 昔のクラウスだったらそれこそ恐ろしいことだと言っただろうが、この盗賊の頭と付き合うようになってからは、その心配もやや減った。

 そんなわけで現在、聖女の周囲はこれまでどおりの護衛のほか、目立たないように盗賊たちが見張っている。

「お姫さんのことは心配いらねぇよ。
 生娘を口説くより慎重に見張ってるさ」
「…………………………………………」
 そんな見張り方はしてほしくないが、この男らしい言い方ではあるので何も言い返さなかった。

「しかしまぁあの軍師どのは、やることがハデだね。
 賢明王んとこ行ったかと思えば、今度は和平の使者だって?
 お忙しいこって」
 かかか、と盗賊の頭が笑う。
「笑いごとじゃない。
 我がシュワルド国の命運がかかっているんだ」

「そりゃスマンね。
 おれは国なんてもんはもってねぇからな。
 おれの命運は、仲間とともにあることさ」
 バチン、とまぶたを片方閉じて見せる盗賊。

 この男はどんな状況にあっても飄々としている。
 助力を願ったときも、城に忍び込むときもそうだった。
 荒くれて身勝手で下品で粗野でがさつな男たちが、頭として抱え上げたくなるのもわかる気がした。

 尖った心が勝手に丸くなる。
 確かに自分は必要以上に緊張していたようだと、クラウスは認めた。
 自分の命運は国ではなく、姫とともにあるのだと思い出す。

「スライ、あとの巡回は任せる」
「あいよ」
 男はおどけて敬礼した。



 騒ぎがあったのは、使者が出発した日の晩だった。
 シュワルド国軍が駐屯する近くの村の、一番端の小屋から火が上がった。

 武器庫として借りていたので見張りをつけておいたはずがその姿はなく、いつのまにか周囲に藁が敷きつめられていた。
 最初の一人が気づいたときには、火は屋根に届こうかとしていた。

 報告を聞いたクラウスは、直ちに人手を村に向かわせた。

 マリーナは立ち上がり、両手を前で組んだ。
 どうすればよいのかとっさに思いつかない。
 人手をまわす命令も、本当ならマリーナが言うべきことだ。

「すぐに火は消えます。
 落ち着いて待ちましょう」
 そうだな、とマリーナは小さな声で応え、堅い椅子に座りなおした。

 すぐに次の報告が入った。

 村の者たちも集まり、鎮火にあたった。
 火が弱まった頃、今度は別のところで火の手が上がった。
 半数が鎮火のためにそちらに向かい、最初の火が消えるころに、さらに反対側の小屋が燃え出した。

「わたしが村を出発することには、六ヶ所から火の手が上がっておりました」
「井戸の水は足りるのか?」
「小さな村でしたので、もう限界かと」

「クラウス、地図を」
 マリーナは無意識にそう言った。
 クラウスが慌てて広げた地図に視線を落とし、火事の遭っている村の周囲を探る。

「クラウス」
「はい」
「なるだけたくさんの桶を持たせ、この川から村に列を組ませなさい。
 鍋でも瓶でもいい」
 聖女の指は、村から一番近い川を差していた。
「川から水を運ばせる」

「第十三隊から第十六隊を連れて行け」
「は、はい!」
 察した兵士がすぐさまきびすを返していく。
 その後ろ姿を見下ろすと、マリーナは甲冑に手をかけた。

「姫?」
「わたしも行く」
「いけません! 今はあなたのみが一番危険なんです」
「でも彼らは、わたしの守るべき人たちだ。
 わたしが自分のものを守るんだ」

 言い返そうとしたクラウスの言葉を遮るように扉が開けられた。
「行かせてやれよ、兄さん。
 お姫さんの言うとおりだぜ」
「しかし」
「お姫さん。
 見張りはそのままくっついて行くからな」
「わかった」

 嬉しそうにうなずいた主の表情に何も言えず、クラウスは甲冑を着るのを手伝った。
 ニヤニヤ笑う盗賊の頭を睨むのは忘れずに。

(盗み聞きとは……)
 腹立たしい。

 主の用意が済むと、主従は急いで火事場へと走った。

 右往左往する者を水を運ぶ列に押し込み、子どもたちを女たちに渡して避難させる。
 丸太を抱えた男たちは、火に飲み込まれた小屋に向かって丸太を突撃させ、崩れる前に壊していった。

「崩れるぞー!」
 火の粉が舞う。

 人々の頬が揺れる火の色に染まっていた。
 轟々と音がする。

「次はあっちだ!」
「急げー!」
「気ぃつけろ!」
「走れ! まだ向こうが燃えてらっ!」

 すべての火が収まったのは、東の空が白みだした頃だった。

 ほっと一息ついた人々は、煤だらけの体を地面に座らせ、その日の昇天を眺めた。
 薄紫色の空が次第に青空へと変色する。
 西の空の藍色と向き合う朝陽が神々しいその姿を見せた。
 さぁ今日も、人々を照らそうと。

 誰がいうともなく人々は立ち上がり、焼け跡をみて腰を上げた。
 これから片付けなければならない。
 幸い生き物のいる小屋は免れ、武器や食料、雑多な物小屋が焼かれたようだ。
 無事なものがあれば移動させなければならない。

 女たちは朝食の用意に移った。
「ささ、急いで、急いで」
「パンをさきに焼いとくれ」

 いつもなら朝陽よりも早く起きて朝食を作るはずが、先の火事騒ぎだ。
 急いで作らなければならない。

「井戸の水は、も湧いてるかね?」
「川で汲んでったほが早いよ。
 ちょっとずつ持って行こか」

 集めるだけ集められた桶を持って、身軽な少女たちが先に走っていく。
 それを見送るようにマリーナは目を細めた。

 自分と変わらない年頃の少女たちがいる。
 すらりとした脚はスカートの中に隠れ、帯で引き締めた腰は細い。
 着の身着のままで逃げてきた者たちが多いから、服にも擦り切れや縫い目が目立つ。
 だがどんなに汚れていても、どんなぼろを着ていても、彼女たちは少女なのだ。

 マリーナは小さくため息をつく。

 女物の甲冑は腰の細さも尻や胸の膨らみも考えて作られている。
 だがマリーナには上の柔らかな膨らみが少ない。
 中身がほとんどない、形ばかりの甲冑の膨らみだ。

(わたしは、誰なんだろう……)
 聖女と呼ばれるようになって、そんなことを考えるようになった。

 婆やと二人だけで暮らしていた懐かしい少女時代。
 父という人に言われるまま第二王子の真似をして、戦が始まると隠されていた王族として第三王子を名乗り、国王の命で果てようとして……聖女と呼ばれるようになって。

 果たしてそれは本物だろうか?
 本当に自分は聖女なのだろうか?

 作戦を練るわけでもない。
 陣頭指揮を執るわけでもない。
 手にした剣で敵を斬ることもない。
 ただ戦中にあって、味方を励まして回るだけなのだ。

 それは聖女なのだろうか?

 偽の王子であったときと変わらないのではないか?

 そんなことを考えながら、マリーナの足は自分の天幕に向かって……いなかった。
 気づけば、朝食の用意に走っていった少女たちのあとを追って村に入っていた。
 律儀に護衛もついてくる。

 井戸と狩小屋を中心とした広場では、大きな焚き火がいくつも起こされ、その上には大きな鍋が水を湛えてかけられている。
 お湯が沸く間に材料を切ってしまおうと、トントントンと小気味いい音がする。

 少女たちが切りながら談笑している。
 羨ましい。
 自分も一見はただの少女なのだ。
 一見は。

「…………」
 突然、マリーナは甲冑を取り始めた。
「せ、聖女さま……?」
「これは持っていろ」
 外した小手を護衛の騎士に渡す。
 彼は何を言われたのかわからないのか、口をぽかんと開けたまま受け取った。

 胸当ても外し、別の騎士に渡す。
 腰帯を外して股間当ても股当ても取り、装備は脛当てだけになる。

 それぞれ渡された甲冑を手に口を空けたままの騎士たちを見て、聖女はのたまった。
「先に天幕に戻っていて良い」
 返事も聞かずに少女たちの中にはいっていった。

 忠実な騎士たちは大いに迷ったが、主の命令に従った。
 どんな理不尽なことでも、どんな不可解なことでも、主の命とあらば利かないわけにはいかない。
 彼らは呆然としたまま主の抜け殻を手にその場を去った。

 さてマリーナは、少女たちの間にすんなり溶け込んでいた。
 いや、多少目立っていた。

 料理らしい料理をしたことがないと言うと、少女たちは一瞬黙り込み、次には大笑いした。
 年頃の娘としては料理の一つや二つ覚えるものだ。
 それに男のような口調がおもしろかったらしい。

 それでも邪魔者扱いはされなかった。
 正直に白状したのが好かったのか、あっさり洗い場係と味見係とかき混ぜ係を任ぜられた。
 今朝は人手がいるのだ。

 細かく刻まれた野菜が次々と鍋に入れられ、かき混ぜるのに力がいるようになる。
 するとマリーナは懐かしい少女を思い出した。
 金色の髪の少女。
 マリーナを必死で助けようとしてくれた人。
 一緒に料理をした人。

 どうしているだろうか。
 家族と再会できただろうか。
 元気でいるだろうか……。

 マリーナがもの思いに浸っていると、遠くから呼ぶ声がした。
 少女たちも何事だろうかと同じ方向を見ている。

「……めー!」
 騎士が一人、駆けて来る。
 ものすごい速さで。

「ひぃーめぇー!」
 それは、聖女の騎士だった。

 少女たちから小さな悲鳴が上がる。
 彼女たちの中では人気があるらしい。

 少女たちの憧れの人が必死の形相で駆けて来る。
 あまりの足の速さに砂埃を蹴立てていた。
 真っ赤な顔は汗まみれだが、夢見る乙女たちにはなんの障害もなかったらしい。

「姫っ!」
 遅れて女たちが到着したのは、ちょうどそのときだった。

 大声に誰もが聖女の騎士を注目した。
 何事か、と。

「な…………」
 急停止したクラウスは、主の手にあるものを見て眉を寄せた。
 荒い息のまま、厳しい口調で訊ねる。
「何を、なさって、いるのですか?」

 周囲がざわっと音を立てた。
 聖女の騎士が話しかけているのは、まさか騎士の主では。
 いやまさか。
 けれど。
 けれどなぜ、聖女さまが鍋のそばに……。

「朝食の用意だ」
 それがどうしたと言わんばかりの表情でマリーナは答えた。
 ほら、と木杓子を振って見せる。
 周囲のざわめきなど聞こえていない。

「こ、ここには、あなたが成されるべき、こと、は、ありません」
「でも、早く作り上げないといけないだろう? 火事騒ぎで、さっき作り始めたばかりなんだ」

「だからといって、あなたがこんな、ことを、なされる必要はないのです」
「でも、人手が必要だ」

 確かに。
 火事の後片付けをしている男たちは朝食の用意ができたなら真っ先に来るだろう。
 昨夜はほとんど眠らないまま働き詰めで、いいかげんお腹も減っただろうから。

 しかし、とクラウスは言おうとしたが、次の言葉を並べる前に主の眼差しに口止めされた。
 明るい空色のつぶらな瞳がじっと見つめてくる。

「……………………」
「なぁ、クラウス」
「……………………」
「朝食、作っても良いだろう?」
「……………………はい」
 結局クラウスも忠実なる騎士なのだった。

 その日の朝食が大賑わいの中でたちまち平らげられたことは言うまでもない。



 遅い朝食を終えるとマリーナは、クラウスとともに昨夜の火事騒ぎの報告を受けた。

 火が上がったのは全部で十棟、小火で済んだのは二棟。
 全焼三棟、半焼四棟。
 簡単な修理で済むのは一棟だけで、たまたまその小屋は煉瓦造りだったのだ。

「見張りをしておりました兵士は、横から声をかけられて振り向いたとたん、殴られたような気がして、気づいたら火事騒ぎが起きていたと言っております。
 頭の後ろにケガを負っていましたので、後ろから殴られて気絶したのでしょう」

 気絶させられたあと、見張りの兵士は近くの茂みに隠されたらしく、見張りの交代にきた兵士によって最初の火が見つけられた。

「見張りは二人のはずだ。
 もう一人はどうした?」
「……それが…………」
 報告にきた兵士は聖女をちらりと見て口篭もる。

「どうした?」
「はい……その…………」
「はっきりと言え」
「よ……用を足しに行っていた、と……」
 足しているときに、こちらも同じように後ろから殴られて気絶させられたらしい。

 クラウスは眉間にしわを寄せた。
 それを見て兵士は背筋を伸ばし、次に来るであろう罵倒の声に覚悟を決めた。
 だが騎士よりも早く聖女が口を開く。

「ケガの具合はどうなんだ?」
「…………は」
「ひどいのか?」
 何を聞かれたのかわからないという顔で兵士は聖女の顔をまじまじと見る。

 聖女の騎士の眉間のしわが深くなったのに気づいて、慌てて視線を逸らした。
「い、いえ。
 た、大したことはありません!」
 よかった、と微笑む聖女。
 それを見た兵士は手を胸に当てて感動した。
 あぁ、お優しい聖女さま、と。

「何か怪しいものは見かけなかったのか?」
「はい。
 それが、発生から発見までの時間が空いていたため、昨夜の段階ではそれらしい人物は特定できませんでした。
 今朝になって、兵士たち一人一人の昨夜の行動を確認させたのですが、こちらも問題なく行動していたようです」

「住民のなかには?」
「そちらも聞き込みましたが、怪しいものはおりませんでした。
 小屋といっても、共同の刈り入れ道具を置くだけで、ふだんは住民も近づかないそうです。

 ほかのすべての小屋を見ましても、母屋に隣接するようなものはありませんでした。
 火をつけようと思えば、夜陰に紛れて簡単につけられるでしょう。
 そのぶん、母屋に被害が及ぶことはないでしょうが」

 両腕を組んだクラウスはむぅと唸った。
 怪しい人物も目撃者もいないとは。
 当夜は火事の発見が遅くなったせいで消火を優先させ、犯人を探すどころではなかったのだ。

「大したことにならなくてよかった」
「ですが犯人が見つからない以上、安心はできません」
 そうだな、と聖女はうなずく。

「人数を割いて、周辺の捜索を続けるように。
 わたしたちがここを動かない以上、相手はまた隙を狙ってくるだろう。
 死者が出ないうちに突き止めたい」
「はい、聖女さま」

 いつのまにか、甲冑を着けることに慣れていた。
 膝あてつきの長靴を履くのも一人でできるようになった。

 熱いお湯に入ることはできなくなった。
 川から汲んできてもらった水で汚れを落とすだけだ。
 ゆったりとした寝台ではなく、木箱の上に藁を敷きつめ、敷布を一枚敷いただけの上で寝る。
 柔らかな生地の寝間着もない。
 厚手の上着とズボンに、重い装備をつけるのだ。

 それらは苦痛ではなかった。
 たしかに温かいお湯は恋しいと思うし、背の痛まない寝台や風に揺れるショールも懐かしいが、これはこれでよかった。
 気持ちは枕に詰める羽根よりも軽い。

「姫」
 原因が、天幕の外から声をかけた。
「準備は済まれましたか?」
「もう少しだ」
 長い靴紐を結びながらマリーナは応えた。

 布戸を開けてはいってきた騎士クラウスは、あたりまえのように主のそばにひざまずき、まだ結ばれていないほうの靴紐を結びだす。
 まだ彼ほど早くは結べない。
「今日中にフォスターがもどってくるようです」

 シルヴィアに頼まれたからとマリーナに協力してくれるようになった青年は、フォスターと名乗った。

 真昼の明かりのしたでは明るい茶色の髪に、なんとも深い緑色の瞳をしていた。
 美しい顔は美しいまま。
 ……口の利き方はともかく。



 フォスターの一案のおかげで、家で縮こまっていたシュワルド国民を巧みな言葉で集めることができた。
 王宮の北東にある大聖堂を出発点に、北へ北へと仲間を増やしながら進んでいく。

 シュワルド国王に取り残された貴族のうち、ローイング伯が戦場に現れた聖女の噂を聞きつけ、分家の貴族と兵士を率いて駆けつけた。
 領地を失い、戦場を駆け回っていたモーガン将軍が部下とともに合流。
 北上中には、戦地となった領地の主ブルゲス伯が、行く先々で駐屯地や食料の交渉を行った。

 徐々に、徐々に仲間は増えていった。

 聖女はどこに行っても、いつも人々に訴える言葉は変えない。
 それが本心である証しだからだ。
 マリーナがフォスターから言われたことと変わらない。
 国を愛しているなら戦えと、言っただけだ。

「なぜ彼らは、わたしのことを信じてくれたのだろう……?」
 マリーナの疑問に、青年は小さく笑いながら答えた。

「シュワルド国王が出した布令は、『故郷を捨てて逃げろ』だった。
 国王には簡単なことだっただろう。
 国王という肩書きさえあれば、どこででも生きていけると思ったんだろう。

 けれど民にとっては、民という肩書きよりも、故郷という思いのほうが大切だ。
 『戦って負けろ』というのは、『故郷を売り渡すな』と言っているんだ」

 たったそれだけの言葉を、シュワルド国民は待っていたのだ。

 シュワルド国王の出した布令は「負けてしまえ」と言っていた。
 でも本当は負けたくない。
 せめて一矢報いたい。
 奴隷になるより死んでしまいたい。
 だが、死ぬ痛みは怖い……。

 そんなとき、一人の言葉が彼らの目を開かせた。
 聖女の姿に胸を打たれた。

 手にするのは桑で、銛で、斧だ。
 だが心には鋼の甲冑をつけている。
 それが何よりもの戦力だとフォスターは言った。

「戦って死んだとしても、肉体は動かなくなったとしても、心は故郷に残っている。
 望郷の思いは侵略者よりも強いという、かたくなな思いを残せる。

 鋼の鎧を着るためには、神を信じるための神像のようなものが必要だった。
 おまえはその象徴だ。
 一人ではただ思うしかできない民が、互いを励ましあいがなら戦うための、王家の、いや、故郷の紋章……想いの象徴だ」

 それが、聖女マリーナの誕生だった。



「……そうか」
 少し緊張した。

 もう少し戦況をよくするために、北の大国グロバー国に協力を求めに行ったフォスター。
 彼は、どんな結果を持ってくるのだろう。

 何があってもめげまいとは思う。
 だが怖いという気持ちは払いきれない。
 何度戦いに出ても戦場の恐ろしさはまったく薄れない。
 人を励ましながら、自分も励まさなければ逃げ出してしまいそうになる。

 硬く靴紐を結ぶ。

「ここに着くのはどれくらいになる?」
「陽が頂点に昇るまえには」
「遅い」
「申し訳ありません」
「え……?」
「……は?」
 首をかしげたのはマリーナとクラウスだった。

「朝寝好きな貴族じゃないんだ。
 朝一で出発すればこの時間には来れる」
 クラウスの背後に、いつのまにかフォスターがいた。
「……!」
 不覚にも背後を取られ、騎士クラウスは傷ついたようだ。

 そんなことは気にしないフォスターは椅子に座るや否や、大きなため息をついた。
「あー眠い」
「寝ていないのか?」
「一杯、付き合わされた」
「……グ、グロバー王に?」
 大国の王と酒の席に着くなんてありえないと思いながらも尋ねてみる。
「いいや。薔薇園の主に」
 二人は首を傾げたが、フォスターはそれ以上答えそうにない。

 フォスターは勝手に卓上の水差しから水をコップに注ぐ。
 グロバー国から一休みもせず馬を飛ばしてきたらしい。
 一杯の水をさも美味そうに飲み干す。

「そ、それで、どうなったんだ、応援は?」
「そうだな。
 今ごろなら、第一団が出発しているだろう。
 背後の準備は問題ない」

「本当に大丈夫なんだろうな?」
 クラウスが心配げな声をあげた。

 グロバー国からの援助は、兵力ではなく兵数であることは聞いている。
 シュワルド国にはグロバー王がついているという事実を裏付けるためだ。

 シュワルド国軍は、賢明王との約束により、アインス国軍によるグロバー国侵入を防いでいる───という事になっている。

 そんな約束を大国の王が取り交わしてくれるはずもない。
 それ以前に、死にかけた国を気にかけてくれるはずもない。

 それでもいいと、フォスターは噂を流し、当のグロバー国へ向かった。

 最初はただの噂でしかなかったものが事実だった───それはアインス国軍には大きな衝撃になるだろう。
 シュワルド国への援助を絶った賢明王が、聖女のために再び立ち上がったように見えるのだから。

 すでに首都は取っている。
 だが国王は逃げ、王族の一人も捕らえることはできていない。
 世継ぎの子は殺してしまった。
 最後の一人は逃げたまま。
 これでは確実な勝利を得られないのだ。

 どんなに領土を占領したとしても、治めているものを討ち取らなければ敗国民であるとは納得しない。
 留守の家にはいった空き巣のようなものだ。

 シュワルド国領を三分の一まで取り、勝利まで半ばとなった。
 だがここで聖女と呼ばれる女が民の軍勢を持って現れ、さらにその背後にあの賢明王がいるとなると、アインス国軍は大きな壁に阻まれたも同然。
 ここまできて勝利に手が伸ばせない。

 ここまでは、フォスターが練った作戦どおりだ。
 ここからは話し合いに持ち込まれる。

 なんといっても、シュワルド国の戦士というのは、ほとんどが一般人である。
 剣や槍ではなく鍬や銛を得意とする、一般人なのだ。

 聖女が現れて半年が経つ。
 せっかく立ち上がった勇気が萎えてしまう前に、これ以上の戦闘は避けてやらなければならない。

 一番の目的は彼らの命で、故郷なのだから。



 フォスターは、クラウスのその質問には答えなかった。

「マリー、頼んでおいたものは?」
 マリーナは言われていたとおり、休戦案を告げる書状を書いていた。
 フォスターはざっと目を通してうなずく。
 素性は知れないが字は読めるらしい。

「使者はどうする? アインス人の言葉はわかるのか?」
「訛りがあるのはお互い様だ。
 聞き間違わないかぎり意志は通じる」

 シュワルド国、アインス国とも、どうやら同語を使用しているらしい。
 ただ、シュワルド人は空気を切るように鋭く話すが、アインス人は下を絡ませて話す部分が多い。
 酔っ払いのように聞こえるとか。

「使者には俺が行く」
「待て。
 またおまえが行くのか?」
「おまえ、いきなり行って脅せるか?」
「脅す?」

「こっちは休戦してやろうっていう気持ちを、叩きつけるように言わないとならないんだ。
 敵中で威張り腐っていえるか、クラウス?」
 クラウスは言葉に詰まった。
 たとえ騎士といえど、敵中に一人と言うのは心細い。

「だが…………」
「おまえは聖女の騎士だろう? 聖女のそばにいるのがあたりまえじゃないか」
「もちろんだ。だがな……」
「失敗は許されない」
「わかっている」
「失敗すれば、俺はシルヴィアから散々な目に合わされるんだ」
「……………………」
「……………………」

 フォスターにとって国の勝敗よりも何よりも、そちらのほうが重要らしい。
 よほど酷い目に合わされたことがあるのだろうか。
 マリーナはシルヴィアを改めて見直し、クラウスは豪傑の婦人を思い描いた。

「とにかく使者には俺が行く。
 護衛はきっちり二十人、書記官はロイビーとあと一人つけてくれ。
 選別は任せる」
「…………。
 わかった」
「俺が戻るまで、胸を張って、きっちり並んでいろよ」

 そうして再び使者となり、アインス国軍に向かっていったフォスターは、果たして……。