男は静かな町並みを見下ろしていた。

 町外れの低木を生やした貧相な小山。
 婦人のドレスの裾のようにゆるやかな傾斜を広げ、いくつもの丘を作っていた。
 男はそのうちのひとつに立っていた。

 朝一番の市場がひらけていくようすが遠くに見れる。
 黒い種のような人々が広場から散っていく。

 表情までは見えないが、どの黒い種も活発に動いている。
 初めてみるその光景に、男は見入っていた。

 商人の朝は早いと知っていたが、それに興味を抱いて早起きをするほど酔狂ではない。
 まして、供の一人も連れずに人気のない山に登るなど初めてだ。

 それもしかたがなかった。
 連れて行けるような従者がいないのだ。

 現実に戻って、男は苦いため息をつく。
 足元の小さな荷物を手にして、町に背を向けた。


 お話には、一人の騎士が現れます。


 自国の民を鼓舞し、北上し続ける聖女。
 多くの民はその姿に胸を打たれ、涙を流しながら叫びます。
「おぉ! 救世主様!」

 国王に切り捨てられた貴族の心は奮い立ち、聖女の足元にひれ伏しました。
「聖なる乙女、我らが救い主よ。
 どうぞ我らをお導きください」

 いつしか、聖女を求めて集まった人々によって大軍ができあがっていました。

 手にするのは斧で鍬で、銛です。
 戦斧や剣や、槍をもつ者は少数です。
 それでも気持ちは豪傑な兵士でした。

 国の三分の一を完全に掌握したはずの侵略者たちは、足止めを余儀なくされます。
 あれほど簡単だった侵略は非常に手間取り、徐々に北進しているにもかかわらず攻め落とすことはできません。
 決定的な何かが足りず、聖女誕生から半年近く手を拱くことになりました。


 馬に乗り、剣を掲げる聖女。
 熱気を起こす民。


 聖女の傍らには騎士たちがいました。
 一人のときもあれば、十人のときもありました。

 彼らは常に聖女の後ろに控え、危険を察せばすぐさま主を取り囲んで盾となりました。
 聖女はよく、その陰になって隠れてしまうことがありました。

 聖女の傍らに、常に控える騎士がいました。
 いつ如何なるときも主が呼べばたちまち馳せ参じました。

 清爽な顔には漆黒の瞳。
 鍛えられた体を包む甲冑、一振りの剣。
 固い信念と、不器用な優しさを持った青年です。

 聖女が誕生した大聖堂で、そのときすでに彼は聖女の背後に控えていました。
 色付きガラスに照らされた神々しい姿を現した主を、眩しそうに見ていたのです。



「あの人は、いつもそうだ」
 いつからか聖女の騎士と呼ばれるようになった彼は、ポツリとこぼしました。

「人の心配ばかりなさる。
 ご自分がどんな立場にあるのか、ちっともわかってくださらない」

 その人の珍しい弱音に、若い神官は何も言えません。
 人の迷いや悩みを聞き、救いの手を差し伸べるのが役目だとしても、国の命運を背負う人の片腕にこんなことを言われては、なんの言葉も思い浮かばなかったのです。

 たぶん聖女の騎士も救いの手を期待してはいなかったでしょう。
 ただ話したいのです、彼は。
 言葉と言う形にしておきたいのです。

 だから若い神官は口を挟まず、じっと彼の話に耳を傾けました。
 けれど聖女の騎士はそれ以上何も言いませんでした。

 草原と低木の続く中にぽつんと現れた井戸と小さな小屋を中心に、朝食の用意に精を出す女たちを───そのなかに混じる主の姿を眺めていました。
 主の笑い声を耳にして薄く微笑みました。

 初めて会った頃の短いものではなく、膝まである長い外套が風に揺れます。
 聖騎士となったからには下位騎士の姿では格好がつかないと、同僚に言われたようです。

「軍師どのは巧くやっておいででしょうか」
 訊ねた途端、聖女の騎士はむぅ、と口を歪めます。
 まるで子どものようです。

「あの男が言うからには大丈夫だろう」
「外交のお上手な方なのですね」
「口先が巧いだけかもしれん」

 聖女の騎士と軍師の仲は良好とは云い難いものでした。
 それでも巧くやっているのですから、どちらかが耐えてどちらかが乗せているのでしょうか。
 もしかすると、その中心の聖女が取り持っているのかもしれません。

 そんなことを思いながら若い神官は、女たちのほうに視線を移しました。
 ちょうど聖女が振り返って騎士に向かって微笑まれました。
 聖女の騎士も微笑み返してうなずきます。

 そこにいてくれるのね、はい、ここにおります、と音のない会話が聞こえました。

 若い神官は心の中で神に許しを請いました。
 羨ましい、などと思ってしまったのです。
 聖職者にあるまじき感情です。

 けれど若い主従は誰の目から見ても清く、初々しいのです。
 そばで見ていれば恥ずかしさと羨ましさと、幸福を感じられるでしょう。
 それほど愛らしいものだったのです。
 こんなご時世でなければ、二人は今ごろひとつの家を持ったでしょう。

「そういえば、聖女の騎士殿。
 ひとつお尋ねしてもよろしいですか?」
「何か?」
「聖女さまはいったい、どういうお人なのでしょうか?」
 聖女の騎士は困ったように首を傾げました。

「難しい質問でしたか? 無理にお答えいただかなくても……」
 いや、と聖女の騎士が遮る。
「あの人は、そのままです」
「え?」

「あの人は誰の目にも、聖女として映ります。
 シュワルドの聖女です」
 そう言って聖女の騎士は口を閉じました。
 愛しげな眼差しを主に送って。

 ではあなたの目にはどんなふうに映るのですか───若い神官はその質問は口にしませんでした。
 彼の瞳が雄弁に語っていたのです。


 聖女の騎士。
 ───戦後、それはひとつの地位となりました。

 一人の王につき一人の騎士が選ばれます。
 常に王の側にあり、王を守る盾で王の剣で、王の良き理解者であり相談役となります。

 王が女性であった場合、夫か兄弟が選ばれます。
 王が男性であった場合、多くは親友でした。
 共に学び、共に遊んだ幼なじみが選ばれました。

 初代聖女の騎士の名は、クラウス。
 王の最初の友人であり、騎士であり、最愛の人です。

 二人のいつまでも初々しい仲は、純愛物語として多くの作家の手により書き綴られます。
 女性たちは恋人に向かって「わたしのクラウス」と呼びかけるようになり、いつしか恋の守護者として広まります。


 わたしのクラウス。
 女性に言われたら、男性はこう応えるのです。


 はい、わたしの姫君───

 深い湖のような星が瞬いた。

 マリーははっとして現実に戻った。
 まだ遠くから聖女を称える声が聞こえてくるようだ。

「あなた、お話が上手なのね。
 わたしの話し相手になってくれたらいいのに」
「お話する人はいないの?」
「いっぱいいるわ。
 でもつまんないの。
 みーんなあなたみたいなお話ししないわ」

 女の人は首をかしげた。
「どう違うのかしら? お話、どこか違った?」
「うぅん。
 そうじゃなくてね、みんな『さりとて』とか、『そのような』とかね、ヘンな言い方をするからね、そのお話はすきなのに、おもしろくないの。
 みんなの話し方がイヤなの」

 ふーん、と女の人はうなずいた。
 細い金髪がふわりと揺れ、マリーはうっとりと見惚れた。
 遠くから歓声の嵐が聞こえてくるようだ。

「あ」
 本当に声が聞こえた。
「ばあやの声だわ」
「お迎えがきたのね。
 ここまでにしましょうか」
 マリーはぷっと頬を膨らませた。
 お話はこれからが本番だったのに。

「ね、また続きを聞かせて」
「いいわ。
 でも……そうね。
 月の満ち欠けは読める?」
「ばあやと一緒なら読めるわ」
「それじゃ、満月が消えた夜の次の日に会いましょう」

「満月が消えた夜? 月って消えるものなの?」
「ときどきね」
 マリーはがっかりした。
 それまで後どれくらいあるのだろう。
 早く聞きたくてたまらないのに、きっと月は意地悪をして、ちょっとずつしか欠けてくれないのだ。

「月が消えた夜の、次の日ね。
 ……わかったわ」
 しぶしぶ承諾したマリーを急かし、女の人は手を振って別れた。

 声のするように歩いていくと、突然柔らかな壁にぶつかった。
 それは婆やの大きなお腹だった。
「まぁ姫様! どこに行っておいでで!?」
「きのこ採りよ。
 まだひとつも採れていないの。
 もう少し待って」

 マリーは籠をあげて見せた。
 婆やはしわしわの顔をいっそうしわだらけにして笑うと、茸採りによいという場所に案内してくれた。

 初めて、婆やに内緒事をした。
 兄たちとどんなに約束しても婆やにだけは話したのに、なぜかあの女の人のことは言いたくなかった。
 月が消える晩を教えてもらうときも、ちょっと嘘をつかないといけないだろうとマリーは思った。

「あ」
 急に立ち止まったマリーに驚いて、婆やは目をまん丸にした。
 なんでもない、といって婆やを追い越していく。

(名前を聞かなかった)
 とても失礼なことをしてしまった。
 マリーも名乗らなかったし、名前を聞くことなんてすっかり忘れていた。

(次に会ったら、ぜったい聞かないと)
 胸がワクワクして、マリーは小さな笑い声を上げた。
 聞きとがめた婆やにまた、なんでもないと言って。



 満月を三回ほど見たが、それは消える気配を見せなかった。
(ウソだったのかしら……)
 ちょっと悲しくなった。
 初めて会った人に嘘をつかれるなんて。
 マリーが何か悪いことをしたのだろうかと考えたが、ちっとも思い出せない。

 扉を叩く音がした。
「マリー、ミルクを飲むかい?」
 上の兄だった。
 お礼を言って受け取り、温められたミルクが立てる湯気を顔に当てた。

「最近、元気がないな」
「そうお?」
「ため息も多い。
 悩みがあるの?」
 白い肌の兄はやさしく微笑んだ。

「おまえの婆やが、姫様は毎晩空ばかり見て、ため息をついていると言うんだ。
 恋でもした?」
「ま、まさか!」
 驚いて、ミルクを零すところだった。

 確かにマリーはもう七歳で、来年には貴族子弟の中から許婚を選ぶことになっている。
 でも実と言うとマリーは、彼らの中にいいと思う人がいないのだ。

 せっかくならこの兄の妻になりたいが、兄妹は結婚できないと言われたし、兄にはもう婚約者がいる。
 相手が成人したら結婚する予定にまでなっているのだ。
 マリーがはいる隙間がない。

「あ、お、お、お、お友だちと、会えないの。
 それで、ちょっと寂しいだけよ」
「フォーレン卿の姫と?」
「ち、違うわ」
「わたしの知らない人か。
 どうして会えないんだ?」
「……と、遠くに住んでいるの。
 また来てくれるって約束したけど、いつになるのか、わからなくて……」

 言っていると悲しくなった。
 約束したのに、本当に会えるのかわからなくなった。

「……っ」
 急に兄が咳き込んだ。
 マリーは驚いたがすぐにその背中を撫でた。

 咳はすぐに止まって、兄も大丈夫だとマリーの頭をなでてくれたが、マリーは怖くてしかたがなかった。
 兄が咳き込むたび、胸のずっと奥が抉られたように痛くなる。

「兄さま、フォス兄さま……ごめんなさい。
 マリーがわがまま言うからね。
 ごめんなさい……」

 色の薄い唇を微笑ませ、兄が違うよ、と呟く。
「おまえの、せいじゃない。
 わたしの体は、昔から、こうなんだ」
 兄と同じ色の髪を撫でられ、マリーは胸が絞め詰められたように苦しくなる。

 マリーは好きなだけ庭を駆けられるのに、兄は途中で止められてしまう。
 雨の日は絶対に窓を締め切った部屋に閉じ込められる。
 マリーよりも肌の色は白く、一緒に産まれたはずの二番目の兄よりもほっそりとした体をしている。

 もっと一緒に遊びたいのに。

 好きなだけ川の魚を捕まえて、たくさん茸を採って。
 ひな鳥がいつ飛び立つのかずっと眺めて。
 雨が運んでくる濃厚な空気を吸い込んで。
 雨上がりの雫を陽の下で見たい。

 ───ただそれだけのことができない。

「誰のせいでもないんだよ」
 兄はいつもそういうけれど、マリーは悲しい。
 この悲しさが晴れることはないと、なぜか知っているから。

 ずっと一緒にいたいのに。

 叶わないなんて、誰が教えたのだろう。