深い湖のような星が瞬いた。

 マリーははっとして現実に戻った。
 まだ遠くから聖女を称える声が聞こえてくるようだ。

「あなた、お話が上手なのね。
 わたしの話し相手になってくれたらいいのに」
「お話する人はいないの?」
「いっぱいいるわ。
 でもつまんないの。
 みーんなあなたみたいなお話ししないわ」

 女の人は首をかしげた。
「どう違うのかしら? お話、どこか違った?」
「うぅん。
 そうじゃなくてね、みんな『さりとて』とか、『そのような』とかね、ヘンな言い方をするからね、そのお話はすきなのに、おもしろくないの。
 みんなの話し方がイヤなの」

 ふーん、と女の人はうなずいた。
 細い金髪がふわりと揺れ、マリーはうっとりと見惚れた。
 遠くから歓声の嵐が聞こえてくるようだ。

「あ」
 本当に声が聞こえた。
「ばあやの声だわ」
「お迎えがきたのね。
 ここまでにしましょうか」
 マリーはぷっと頬を膨らませた。
 お話はこれからが本番だったのに。

「ね、また続きを聞かせて」
「いいわ。
 でも……そうね。
 月の満ち欠けは読める?」
「ばあやと一緒なら読めるわ」
「それじゃ、満月が消えた夜の次の日に会いましょう」

「満月が消えた夜? 月って消えるものなの?」
「ときどきね」
 マリーはがっかりした。
 それまで後どれくらいあるのだろう。
 早く聞きたくてたまらないのに、きっと月は意地悪をして、ちょっとずつしか欠けてくれないのだ。

「月が消えた夜の、次の日ね。
 ……わかったわ」
 しぶしぶ承諾したマリーを急かし、女の人は手を振って別れた。

 声のするように歩いていくと、突然柔らかな壁にぶつかった。
 それは婆やの大きなお腹だった。
「まぁ姫様! どこに行っておいでで!?」
「きのこ採りよ。
 まだひとつも採れていないの。
 もう少し待って」

 マリーは籠をあげて見せた。
 婆やはしわしわの顔をいっそうしわだらけにして笑うと、茸採りによいという場所に案内してくれた。

 初めて、婆やに内緒事をした。
 兄たちとどんなに約束しても婆やにだけは話したのに、なぜかあの女の人のことは言いたくなかった。
 月が消える晩を教えてもらうときも、ちょっと嘘をつかないといけないだろうとマリーは思った。

「あ」
 急に立ち止まったマリーに驚いて、婆やは目をまん丸にした。
 なんでもない、といって婆やを追い越していく。

(名前を聞かなかった)
 とても失礼なことをしてしまった。
 マリーも名乗らなかったし、名前を聞くことなんてすっかり忘れていた。

(次に会ったら、ぜったい聞かないと)
 胸がワクワクして、マリーは小さな笑い声を上げた。
 聞きとがめた婆やにまた、なんでもないと言って。



 満月を三回ほど見たが、それは消える気配を見せなかった。
(ウソだったのかしら……)
 ちょっと悲しくなった。
 初めて会った人に嘘をつかれるなんて。
 マリーが何か悪いことをしたのだろうかと考えたが、ちっとも思い出せない。

 扉を叩く音がした。
「マリー、ミルクを飲むかい?」
 上の兄だった。
 お礼を言って受け取り、温められたミルクが立てる湯気を顔に当てた。

「最近、元気がないな」
「そうお?」
「ため息も多い。
 悩みがあるの?」
 白い肌の兄はやさしく微笑んだ。

「おまえの婆やが、姫様は毎晩空ばかり見て、ため息をついていると言うんだ。
 恋でもした?」
「ま、まさか!」
 驚いて、ミルクを零すところだった。

 確かにマリーはもう七歳で、来年には貴族子弟の中から許婚を選ぶことになっている。
 でも実と言うとマリーは、彼らの中にいいと思う人がいないのだ。

 せっかくならこの兄の妻になりたいが、兄妹は結婚できないと言われたし、兄にはもう婚約者がいる。
 相手が成人したら結婚する予定にまでなっているのだ。
 マリーがはいる隙間がない。

「あ、お、お、お、お友だちと、会えないの。
 それで、ちょっと寂しいだけよ」
「フォーレン卿の姫と?」
「ち、違うわ」
「わたしの知らない人か。
 どうして会えないんだ?」
「……と、遠くに住んでいるの。
 また来てくれるって約束したけど、いつになるのか、わからなくて……」

 言っていると悲しくなった。
 約束したのに、本当に会えるのかわからなくなった。

「……っ」
 急に兄が咳き込んだ。
 マリーは驚いたがすぐにその背中を撫でた。

 咳はすぐに止まって、兄も大丈夫だとマリーの頭をなでてくれたが、マリーは怖くてしかたがなかった。
 兄が咳き込むたび、胸のずっと奥が抉られたように痛くなる。

「兄さま、フォス兄さま……ごめんなさい。
 マリーがわがまま言うからね。
 ごめんなさい……」

 色の薄い唇を微笑ませ、兄が違うよ、と呟く。
「おまえの、せいじゃない。
 わたしの体は、昔から、こうなんだ」
 兄と同じ色の髪を撫でられ、マリーは胸が絞め詰められたように苦しくなる。

 マリーは好きなだけ庭を駆けられるのに、兄は途中で止められてしまう。
 雨の日は絶対に窓を締め切った部屋に閉じ込められる。
 マリーよりも肌の色は白く、一緒に産まれたはずの二番目の兄よりもほっそりとした体をしている。

 もっと一緒に遊びたいのに。

 好きなだけ川の魚を捕まえて、たくさん茸を採って。
 ひな鳥がいつ飛び立つのかずっと眺めて。
 雨が運んでくる濃厚な空気を吸い込んで。
 雨上がりの雫を陽の下で見たい。

 ───ただそれだけのことができない。

「誰のせいでもないんだよ」
 兄はいつもそういうけれど、マリーは悲しい。
 この悲しさが晴れることはないと、なぜか知っているから。

 ずっと一緒にいたいのに。

 叶わないなんて、誰が教えたのだろう。