いつのまにか、甲冑を着けることに慣れていた。
 膝あてつきの長靴を履くのも一人でできるようになった。

 熱いお湯に入ることはできなくなった。
 川から汲んできてもらった水で汚れを落とすだけだ。
 ゆったりとした寝台ではなく、木箱の上に藁を敷きつめ、敷布を一枚敷いただけの上で寝る。
 柔らかな生地の寝間着もない。
 厚手の上着とズボンに、重い装備をつけるのだ。

 それらは苦痛ではなかった。
 たしかに温かいお湯は恋しいと思うし、背の痛まない寝台や風に揺れるショールも懐かしいが、これはこれでよかった。
 気持ちは枕に詰める羽根よりも軽い。

「姫」
 原因が、天幕の外から声をかけた。
「準備は済まれましたか?」
「もう少しだ」
 長い靴紐を結びながらマリーナは応えた。

 布戸を開けてはいってきた騎士クラウスは、あたりまえのように主のそばにひざまずき、まだ結ばれていないほうの靴紐を結びだす。
 まだ彼ほど早くは結べない。
「今日中にフォスターがもどってくるようです」

 シルヴィアに頼まれたからとマリーナに協力してくれるようになった青年は、フォスターと名乗った。

 真昼の明かりのしたでは明るい茶色の髪に、なんとも深い緑色の瞳をしていた。
 美しい顔は美しいまま。
 ……口の利き方はともかく。



 フォスターの一案のおかげで、家で縮こまっていたシュワルド国民を巧みな言葉で集めることができた。
 王宮の北東にある大聖堂を出発点に、北へ北へと仲間を増やしながら進んでいく。

 シュワルド国王に取り残された貴族のうち、ローイング伯が戦場に現れた聖女の噂を聞きつけ、分家の貴族と兵士を率いて駆けつけた。
 領地を失い、戦場を駆け回っていたモーガン将軍が部下とともに合流。
 北上中には、戦地となった領地の主ブルゲス伯が、行く先々で駐屯地や食料の交渉を行った。

 徐々に、徐々に仲間は増えていった。

 聖女はどこに行っても、いつも人々に訴える言葉は変えない。
 それが本心である証しだからだ。
 マリーナがフォスターから言われたことと変わらない。
 国を愛しているなら戦えと、言っただけだ。

「なぜ彼らは、わたしのことを信じてくれたのだろう……?」
 マリーナの疑問に、青年は小さく笑いながら答えた。

「シュワルド国王が出した布令は、『故郷を捨てて逃げろ』だった。
 国王には簡単なことだっただろう。
 国王という肩書きさえあれば、どこででも生きていけると思ったんだろう。

 けれど民にとっては、民という肩書きよりも、故郷という思いのほうが大切だ。
 『戦って負けろ』というのは、『故郷を売り渡すな』と言っているんだ」

 たったそれだけの言葉を、シュワルド国民は待っていたのだ。

 シュワルド国王の出した布令は「負けてしまえ」と言っていた。
 でも本当は負けたくない。
 せめて一矢報いたい。
 奴隷になるより死んでしまいたい。
 だが、死ぬ痛みは怖い……。

 そんなとき、一人の言葉が彼らの目を開かせた。
 聖女の姿に胸を打たれた。

 手にするのは桑で、銛で、斧だ。
 だが心には鋼の甲冑をつけている。
 それが何よりもの戦力だとフォスターは言った。

「戦って死んだとしても、肉体は動かなくなったとしても、心は故郷に残っている。
 望郷の思いは侵略者よりも強いという、かたくなな思いを残せる。

 鋼の鎧を着るためには、神を信じるための神像のようなものが必要だった。
 おまえはその象徴だ。
 一人ではただ思うしかできない民が、互いを励ましあいがなら戦うための、王家の、いや、故郷の紋章……想いの象徴だ」

 それが、聖女マリーナの誕生だった。



「……そうか」
 少し緊張した。

 もう少し戦況をよくするために、北の大国グロバー国に協力を求めに行ったフォスター。
 彼は、どんな結果を持ってくるのだろう。

 何があってもめげまいとは思う。
 だが怖いという気持ちは払いきれない。
 何度戦いに出ても戦場の恐ろしさはまったく薄れない。
 人を励ましながら、自分も励まさなければ逃げ出してしまいそうになる。

 硬く靴紐を結ぶ。

「ここに着くのはどれくらいになる?」
「陽が頂点に昇るまえには」
「遅い」
「申し訳ありません」
「え……?」
「……は?」
 首をかしげたのはマリーナとクラウスだった。

「朝寝好きな貴族じゃないんだ。
 朝一で出発すればこの時間には来れる」
 クラウスの背後に、いつのまにかフォスターがいた。
「……!」
 不覚にも背後を取られ、騎士クラウスは傷ついたようだ。

 そんなことは気にしないフォスターは椅子に座るや否や、大きなため息をついた。
「あー眠い」
「寝ていないのか?」
「一杯、付き合わされた」
「……グ、グロバー王に?」
 大国の王と酒の席に着くなんてありえないと思いながらも尋ねてみる。
「いいや。薔薇園の主に」
 二人は首を傾げたが、フォスターはそれ以上答えそうにない。

 フォスターは勝手に卓上の水差しから水をコップに注ぐ。
 グロバー国から一休みもせず馬を飛ばしてきたらしい。
 一杯の水をさも美味そうに飲み干す。

「そ、それで、どうなったんだ、応援は?」
「そうだな。
 今ごろなら、第一団が出発しているだろう。
 背後の準備は問題ない」

「本当に大丈夫なんだろうな?」
 クラウスが心配げな声をあげた。

 グロバー国からの援助は、兵力ではなく兵数であることは聞いている。
 シュワルド国にはグロバー王がついているという事実を裏付けるためだ。

 シュワルド国軍は、賢明王との約束により、アインス国軍によるグロバー国侵入を防いでいる───という事になっている。

 そんな約束を大国の王が取り交わしてくれるはずもない。
 それ以前に、死にかけた国を気にかけてくれるはずもない。

 それでもいいと、フォスターは噂を流し、当のグロバー国へ向かった。

 最初はただの噂でしかなかったものが事実だった───それはアインス国軍には大きな衝撃になるだろう。
 シュワルド国への援助を絶った賢明王が、聖女のために再び立ち上がったように見えるのだから。

 すでに首都は取っている。
 だが国王は逃げ、王族の一人も捕らえることはできていない。
 世継ぎの子は殺してしまった。
 最後の一人は逃げたまま。
 これでは確実な勝利を得られないのだ。

 どんなに領土を占領したとしても、治めているものを討ち取らなければ敗国民であるとは納得しない。
 留守の家にはいった空き巣のようなものだ。

 シュワルド国領を三分の一まで取り、勝利まで半ばとなった。
 だがここで聖女と呼ばれる女が民の軍勢を持って現れ、さらにその背後にあの賢明王がいるとなると、アインス国軍は大きな壁に阻まれたも同然。
 ここまできて勝利に手が伸ばせない。

 ここまでは、フォスターが練った作戦どおりだ。
 ここからは話し合いに持ち込まれる。

 なんといっても、シュワルド国の戦士というのは、ほとんどが一般人である。
 剣や槍ではなく鍬や銛を得意とする、一般人なのだ。

 聖女が現れて半年が経つ。
 せっかく立ち上がった勇気が萎えてしまう前に、これ以上の戦闘は避けてやらなければならない。

 一番の目的は彼らの命で、故郷なのだから。



 フォスターは、クラウスのその質問には答えなかった。

「マリー、頼んでおいたものは?」
 マリーナは言われていたとおり、休戦案を告げる書状を書いていた。
 フォスターはざっと目を通してうなずく。
 素性は知れないが字は読めるらしい。

「使者はどうする? アインス人の言葉はわかるのか?」
「訛りがあるのはお互い様だ。
 聞き間違わないかぎり意志は通じる」

 シュワルド国、アインス国とも、どうやら同語を使用しているらしい。
 ただ、シュワルド人は空気を切るように鋭く話すが、アインス人は下を絡ませて話す部分が多い。
 酔っ払いのように聞こえるとか。

「使者には俺が行く」
「待て。
 またおまえが行くのか?」
「おまえ、いきなり行って脅せるか?」
「脅す?」

「こっちは休戦してやろうっていう気持ちを、叩きつけるように言わないとならないんだ。
 敵中で威張り腐っていえるか、クラウス?」
 クラウスは言葉に詰まった。
 たとえ騎士といえど、敵中に一人と言うのは心細い。

「だが…………」
「おまえは聖女の騎士だろう? 聖女のそばにいるのがあたりまえじゃないか」
「もちろんだ。だがな……」
「失敗は許されない」
「わかっている」
「失敗すれば、俺はシルヴィアから散々な目に合わされるんだ」
「……………………」
「……………………」

 フォスターにとって国の勝敗よりも何よりも、そちらのほうが重要らしい。
 よほど酷い目に合わされたことがあるのだろうか。
 マリーナはシルヴィアを改めて見直し、クラウスは豪傑の婦人を思い描いた。

「とにかく使者には俺が行く。
 護衛はきっちり二十人、書記官はロイビーとあと一人つけてくれ。
 選別は任せる」
「…………。
 わかった」
「俺が戻るまで、胸を張って、きっちり並んでいろよ」

 そうして再び使者となり、アインス国軍に向かっていったフォスターは、果たして……。