少女の笑い声。
 青い空に吸い込まれる。

 広い草原の一面に咲く白色と桃色の花、三つ子の葉。

 白い無数の花びらが球を作るのは玉に似て、王の錫状の名で呼ばれるのにうなずける。
 濃い桃色の細い花びらがめしべに向かって弧を描く様は冠に似て、女王の冠の名で呼ばれるのにもまたうなずける。

 少女の髪を飾るのは桃色の花。
 女王の冠で作られた花冠は少女の栗毛に乗り、誇らしげに揺れてる。
 そしてもうひとつの冠を白い花で、幼い指が懸命に作るのを少年は熱心に見つめていた。

 まってね、と少女が微笑む。
 もうすぐ、できるから。

 桃色の花冠のお礼に、今度は少女が白い花の花冠をあげたいのだ。
 だが少女の手元はなかなか進まず、栗毛の髪に乗る桃色の花冠より綻びが多い。
 しかも冠というより首飾りほどに長くなっていることに気づかない。

 わたしがお作りいたしましょうかと、少年が心配そうに尋ねる。
 少女は首を横に振り、指先に神経を集中させる。

 果実の桃のようにほんのりと染まる頬を膨らませる姿を見て、少年は微笑む。
 少女の優しさが嬉しかった。

 少女ははじめての友人の誕生日に贈り物をあげたいと思った。
 何日も前から考えて、最近乳母から教わった花冠を上げたいからと、お守り役にわがままを言ってこの小さな花園まで連れてきてもらった。
 言ったものの、一緒に作りはじめると少年のほうが先に作り上げてしまった。

 まって、まってね、と少女。

 待っていますよ、と少年。

 離れたところから様子を見ているお守り役の心配など気にも止めず、少女は花冠作りに励み、少年はこのひと時をかみ締めていた。



 今このときが、

 もっと、

 もっと続けばいいのに……───





 気づいたとき、そばに少女がいた。
 いや、視界に移るものが少女であると理解したとき、目が覚めたのだと気づいた。

 少女もクラウスが目覚めたことに気づいたのだろう。
 安堵の笑みをして、顔を寄せて囁いた。

「まだ動かないでね。
 傷が開くわ」
「……いめ……あ?」
「……姫様? 大丈夫よ。
 昨日目が覚めて、食事もしたわ。
 さっきまでここにいたんだけど、もう休ませないとね」

 もう夜なのだろう。
 周囲の闇はずっしりと重く、蝋燭の明かりが頼りなげに立ち尽くしている。

 体はぽかぽかと暖かいが、指先が取れてしまったかのように感じられない。
 少女はその冷たい指先を摩っているようだ。
 ときおり温かい息がかかって、まだ指があるのだとわかる。

 うつ伏せのままでは少女の顔はよく見えない。
 背中が突っ張って首が動かなかったが、天幕の中はクラウスと少女だけのようだ。

「……っまえ、は……?」
「わたし? わたしはシルヴィア。
 ほら、まだしゃべっちゃダメ。
 もう休んで」

「に、いが……」
「え? あぁ、匂いね。
 薬草を付けているのよ。
 温まるようにね。
 明日になったらもう少し話させてあげるから」

 少女はそう言って、子守唄代わりか、謳い始めた。



 遠き深き 緑の庭の
 称え敬え 庭の人の

 心映す水 湧き出る泉
 ひと掬いに飲み干して

 胸の願いよ湧き……


「…………ねが、を……」
 歌が消える。
 クラウスの呟きに少女が顔を近づける。

「い……つ、で、いい……ひめ…………わ……って、いい」
 声がうまく出ないのがもどかしい。
 巧く言葉をつづろうと力むと喉が痛んで、口の中で血の味がした。

「い、め……に…………」
「しゃべらないで。
 あなたはまだ生きられるわ。
 生きられる可能性があるなら、それに賭けてみるべきよ。
 今は無理をしないで」
 髪を撫でられる。

 なんということだろうか。
 大の大人になってまで子守唄を謳ってもらい、髪を撫でて慰められるとは思いもしなかった。
 しかも相手は少女だ。

 恥ずかしさのあまり逃げ出したくなったが動けず、顔を隠そうにも首に力が入らない。
 あまりに滑稽で笑えてきた。
 主を助ける身が指一本動かせず、まともな言葉すら話せないとは。

「な、ぜ……」
 どうしてこんなにももどかしいのだろう。
 ただ主のそばにいて、その笑みを守りたいだけなのに、起き上がることすらできない。

 情けない。

「泣かないで。
 涙はまだ早いわ」
 その言葉で、クラウスは自分が涙を流していることに気づいた。
 そういえば鼻のあたりを何かが伝い、落ちていく。

「泣かないで。
 眠りなさい。
 今はそばにいるから」


 ……月の夜の 緑の庭の
 彼方の闇の 庭の人よ

 優しき風 早々運ばる
 慈愛の種よいざ芽吹き

 祈りの言葉を伝え給え

 祈り 届けと

 願い 叶えと───


 その歌はクラウスには馴染みのない歌だった。
 どこか別の国の歌だろうか。

 眠気を誘う声だ。
 まぶたが下りる。

 主のそばに、いたいのに。

 なんだと、と男は言った。

 そのときクラウスは十一歳だった。
 来月には十二歳になる。

(ご息女の侍従に、お執り成しください)
 クラウスはもう一度、今度はゆっくりと言った。

 とても緊張している上に、慣れない格好をしていて声が震えそうだった。
 ひざまずくことがこんなに大変だとは、父も教えてくれなかった。

 男は丸い目をギラギラさせて目の前の少年を睨み、ツンと尖った髭を震わせていた。
 その向こうに、口元に締まりのない笑みを浮かべた青年が立っている。

(酔狂なヤツだ)
 長い沈黙のあと、男はため息とともに吐き出した。

(いいだろう。
 侍従に執りたててやる。
 だが、アレのことは口外してはならん。
 もし誰かに知れるようなことがあれば、おまえの父も牢獄に入れてやる)

 言われるまでもなかった。
 たとえ親子の縁を切られても、父にも言わない。

 これは、あの人への誓い。
 あの人への、精一杯の贈り物。
 まだ幼い自分がしてあげられる、最高のもの。

(酔狂なやつめ)

 頭を下げて礼を言うクラウスに、ロイズ子爵は嘲るような笑みを落とした。



(これからは、ずっと一緒です)

 幼い主は最初意味がわからずポカンとして、それから破顔した。
 クラウスの手をとって走り出し、家の前にいた乳母に大声で報告した。

(わたしのお友だちよ。
 ずっといっしょなのよ!)

 青い瞳をキラキラと輝かせ、広い庭を駆ける。

 生い茂った茂みで隠れんぼをし、葉っぱで作った舟を川の水に浮かべてみる。
 木の実を袋一杯詰め込んだのに、転んでばら撒いてしまって。
 雛鳥を見ようと木の枝に作られた巣を木の下からずっと眺めていて、眠ってしまった。



 十二歳の誕生日には花の首飾りを貰い、花の冠を贈った。

 十三歳の誕生日には木の実と葉っぱでできた飾り止めを貰い、木の実と葉っぱでできた髪飾りを贈った。

 十四歳の誕生日には名前が刺繍されたハンカチを貰い、名前の刺繍されたリボンを贈った。

 十五歳の誕生日は査察隊として遠征していた。
 遠くから手紙を送った。
 還って来たとき笑顔と抱擁を貰った。

 胸が鳴った。

 酔狂ではない。
 酔狂であるはずがない。
 そうでなければ、この胸の高鳴りの説明がつかない。



 別宅に花を届けた初日、誰もいないことを知っていたから、濃縮した琥珀石のような髪に触れ、耳元に囁いた。
 絹のような頬を愛した。

 主は王子の身代わりとして出征する必要がなくなって、まだそばにいられるのだと安堵した。

 酔狂であるはずがない。
 そうでなければ、主が王子の影に成り、王子そのものになってもそばにいたいと思う気持ちが消えないのはおかしい。

(クラウス、わたし……)

 指先に触れる頬が緊張していた。
 短剣を差し出す準備はできていたのに、主の強張った表情に言い出すきっかけができなくなった。

(わたしは、クーラ……わたし、は…………影で、なくなるんだそうだ)
 何のことだろうかと、首を傾げたクラウスに、主は泣き出しそうな顔で告白した。

(わたしは、王子に、なるんだ)
 王子?
(……わたし、は、お、お……じ、に……)


 王子として死ね


 それが王の言葉。

 簡単に理解できることでもない。
 けれどそんなおかしな冗談を深刻な表情で言う人ではない。

 信じなければならない。
 自分だけでも信じてあげなければ、あの人はまた一人になる。
 暗い庭の茂みの向こうで、肩を震わせて泣かなければならない。

(クーラ、わたし、王子さまになるの)
 少女たちが夢見るはずの王子そのものになるなんて、彼女は思ってもいなかっただろう。

 主は泣きそうな顔で言った。
 しばらく会えなくなるほうが嫌だといって、駄々をこねる。

(ずっと姫のおそばにおります)
(ずっと?)
(はい。ずっとです)

 もう二度と、独りにはしないと、誓った。

 あの人が泣かないように、寂しくないように。
 あの人がいつも笑っていられるように。

 酔狂ではない。
 酔狂であるはずがない。

 酔狂ではなく、陶酔したのだ。
 あの出会いに感謝した。

 あの時自分は、落ちたのだ。

 あの瞳に。
 潤んで輝く、天帝のおわす空色に。

 吸い込まれるように。



 恋に、落ちたのだ───


 ───ポツリ、と





(……あめ…………)
 ぬるい雨。

(……ちがう…………)

 ひどく体が重い。
 うつ伏せのせいか胸が苦しい。
 熱があるのか、重いはずの全身がふわりと浮くようだ。
 それでいて億劫で、首を動かすこともできない。

 何か背中がちくちくとする。
 そこは特に熱い。
 焼けた石でも当てられているようだ。

(ここは、どこだ……?)
 周囲には明かりが点けられているらしいが、蝋燭なのか焚き火なのかわからない。
 その明かりはどこかで遮られているらしく、周囲は壁があるようだ。

 ずっと背中でゴソゴソと動くものがある以外、気配はない。
 自分の呼吸の音が耳元で聞こえるようだ。

 それにしても、息苦しい。
 水の中にいるようだ。

「気づいたの?」
 若い女の声がした。
 少女のような。
 驚いた。

「じっとしていてね」
「…………」
 誰何しようとしたが、声どころか息も出せなかった。
 喉が詰まっているのだろうか。

「ぜったい助かるから」
 少女の声は力強かった。
 大きな声ではないのかもしれないが、戦場の勇将が張り上げる声のようだ。
 モーガン将軍のような。

(……そうだ)
 大切なことを忘れていた。
 疑わしい一面を見せたあのモーガン将軍は傷を負っていたはずだ。
 そして主はその人に庇われていた。

 クラウスは首を持ち上げようとしたが、石のように硬くぴくりとも動かなかった。
 指先がかすかに痙攣した。

「痛いの?」
 少女が顔を近づけて尋ねた。
「もう少しだけ我慢して。
 もうちょっとで終わるから」

「……………………っ……………………」
「え?」
 少女の耳が近づく。
 クラウスはなんとか声を出そうとしたが、詰まるような息が出ただけだった。

「もしかして、姫様のこと? 大丈夫よ。
 安心して。
 姫様には傷ひとつないから」

 それを聞いてクラウスは安心した。
 気が抜けたのか、まぶたが重くなった。
 聖女の護衛を交代して、少年は好きなだけ足音を立てていた。

 ひょろっとした体系には不釣り合いな大きな足は、もともと忍び足が苦手なのだ。
 それなのに盗賊の頭は、こっそり静かに護衛につけと注文をつけてきた。
 しかも先輩に身軽だからと木の上に押しやられて、散々だ。

 こんなカリカリした気分の時には狩りに限る。
 大きなウサギでもしとめて彼女に持っていこうと、少年は思った。

 適当な木の下に座り込んで、短弓の調整をする。

 建物や森の中でこの短弓は活躍する。
 通常の弓よりも短いために力と射程距離は小さくなるが、そこは盗賊として鍛えたすばしこい脚と機敏性で補えばいい。
 小さいので持ち運びも楽なうえ、熟練者は矢がなくなれば適当な小枝を矢にしてしまう。

 少年もいつか、この短弓の使い手と呼ばれることを夢見ていた。
 先輩は意地悪で弓の師匠は厳しいが、きっと成れると信じている。

 調整が済むと、前々から目をつけていたウサギの巣穴の周囲に罠を仕掛けた。
 あとは巣穴から飛び出すように煙を仕掛ければよいのだが、こんなところで火を起こして敵と思われてはいけない。

 少し離れたところから、石を巣穴目掛けて投げてみる。
 ひとつ、二つ、三つ……反応はない。
 いるのは確かなのだが、これくらいでは様子を見に出てくる気もしないらしい。

 いくつか巣穴のなかに石が入り込んだ。
 それが十を越した頃だろうか。
 巣穴のなかから何かが覗いた。

 出てきた! と踊りだしたい気分を抑え、少年は短弓を握りなおす。
 ほんの数メートル先で獲物が鼻を出してヒクヒクさせている。
 風下にいる少年には気づかなかったのか、頭部を巣穴から出して周囲を見回した。

 少年は短弓に矢を番えた。
 糸がキリキリと鳴る音が耳元で小さくなった。

 ウサギはしきりに横顔を見せ、周囲の匂いをかいだ。
 なかなか出てこないが、引っ込みもしない。
 何か嗅ぎつけてしまったのだろうか。

 不安になった少年は力を抜き、短弓を下ろした。
 何を見ているのだろうと、首を伸ばして左手を見る。

「…………。
 あ!」

 がさっと音がして、見るとウサギの頭部が消えている。
 少年はそれ以上に驚いた。

 獲物に背を向けて走り出す。
 先輩たちへと向けて叫んだ。

「火事だー!」

 その背後で、我が子の首を加えたウサギが巣穴から飛び出した。



 陣営は騒然となった。

 今朝の火事跡を片付けていた民兵が驚きの声をあげ、手に持っていた道具を放り出した。
 彼らもすぐさま声のほうに走り出す。

「火事だー!」

 大きな声が陣営を貫いた。
 夕飯の支度をしていた女たちはありったけの入れ物を抱えて走り出す。
 少女たちは小さい子どもたちの手を引いて一箇所に集めだした。

「火事はどこだい?」
「うちの子も頼むよ!」
「ばあさんは子どもといな!」
「北だよ!」
「村にひとっ走り行ってありったけの入れ物借りておいで!」

 シュワルド国は人口の四分の一が猟師の家である。
 男たちが海に出ている間、家の切り盛りはすべて女たちに任される。
 自分たちの住む町や村に異変があれば駆けつけるのも女たちの役目だ。

 そんなわけで、最初に水をかけたのは女だった。

 声につられて手ぶらで様子を見に来た兵士を押しやり、昨夜覚えた川から火事場に一列に並ぶ方法で水を運んでいく。
 男たちも慌ててその列に加わり、流れ作業を始めた。

 だが今回は、そう簡単にはいかなかった。
 昨夜は独立した小屋という、燃えるものが周囲にない個所の火事だった。
 小屋が燃え尽きるか火を消し止めてしまえば終わりである。
 今、火は森についてしまった。
 燃え尽きようにも消し止めようにも規模が大きすぎる。

 くすぶり程度だったらまだよかったのかも知れない。
 残念なことに火は枯れた草を舐め、火の粉は木の枝に飛び移り侵略を広げていった。

 人々は徐々に押しやられた。



 クラウスが駆けつけたとき、火は一番端の天幕に燃え移ろうかとしていた。
 兵士たちの共同天幕だ。

 陣営は聖女と将軍たちの天幕を中心に、下士官たちの天幕、兵士・平民の天幕と重要人物を取り囲むようにしてやや楕円に広がっていた。
 物置代わりの天幕は下士官たちの天幕に紛れ込んである。

 火が飛び出したのは北西の森からだった。
 昨夜の火事とは陣営を挟んで反対側になり、調理場になっており西側にいた女たちが先頭になって消火にあたっていた。

「天幕をたため!」
 クラウスは叫んだ。

 兵士・民兵の天幕は森の外にある。
 これに火が燃え移るのを防げば火は弱まるはずだ。

 聖女の騎士の言葉に兵士たちが大慌てで天幕をたたみかかる。
 力自慢のものは天幕だけを引きずっていき、残りの荷物を敷物に包んで抱えていく。
 特に一番火元に近い武器を最優先で運ばせた。

「無理はするな!」
「やたら近づくんじゃねぇ!」
 クラウスの声に割れ鐘のような声が重なった。

「おう、クラウス。
 お姫さんはどうした?」
 水瓶を両手に抱えた盗賊の頭がクラウスに近づいて足を止めた。
「天幕だ」
「ここは俺らに任せて、そばに張り付いてろ。
 いま敵には絶好の機会だぜ」

「…………。わかった。
 任せるぞ、スライ」
「あいよ」
 両手のふさがった盗賊は、敬礼の変わりに肩をすくめて見せた。

「クラウス殿! 火元はどうですか?」
 天幕を中心近くに運び込む兵士たちを指揮するのはブルゲス伯だった。
 社交界では宴会の幹事として有名な彼の指示で、邪魔にならないように手際よく片付けられていく。

「一番外の天幕にいくつか火が移りましたが、今は草木が燃えているだけのようでした。
 風向きが変わる前に移動の必要があるかもしれません」

「それがいいでしょうな。
 どちらを目指しますか?」
「森は東側に向かっていますので、我々は西に移動しましょう。
 このあたりに火はこないと思いますので、子どもたちに荷造りの手伝いをしてもらいましょう」
「わかりました」

 ブルゲス伯が兵士に指示を出す間、クラウスは周囲を見回した。
「ブルゲス卿。
 モーガン将軍はどちらに?」
「は。
 モーガン将軍でしたら、クラウス殿と入れ替わりに、聖女どのの天幕に行かれましたぞ」
「……ここはお願いいたします」

 冷静を装って言うと、クラウスは足早に天幕へ向かった。
 その後ろ姿を見つめていたブルゲス伯が一通りの指示を出し終え、後を追い出したのには気づかなかった。

 陣営の中心へ向かうと周囲の人影は薄くなり、騒ぎも遠い国のことのように小さくなっていった。
 クラウスは静けさに追い立てられるようにいつのまにか走り出していた。

 声がした。

 主の天幕が開けられたままになっている。

「やめろ!」
 耳の奥に突き刺さるような声は主のものだ。
 クラウスは駆けた。

 天幕に飛び込んだとき、目の前には男の後ろ姿があった。
 モーガン将軍はその向こうにいた。

「クラウス!」
 男が振り返った。

 返り血を付けた顔に見覚えが合った。
 クラウスが思い出すより先に、男は唇をゆがめて薄ら寒い笑みを作った。
「エメール卿のぼんくらか」

「……ポルターさま」
 数度、会ったことがある。
 一度目はマリーナの側付きになるとき許可をえようと出向いて、子爵の側に立っていた。
 あと何度かは王宮の廊下ですれ違った。

 ロイズ子爵家の次男。
 マリーナの異母兄。

 信じられない、とクラウスは首を振った。
 彼は父ロイズ子爵とともにシュワルド国王と逃亡したはずだ。

「久しぶりだな。
 まだいたのか。
 相変わらず酔狂なやつだ」

 ポルターはその父と同じ台詞を吐いた。



 騎士に成りたいのだろう?

 だがあれの侍従になったところで、それが叶うわけではないぞ。

 酔狂なヤツだ。

 妾腹の侍従になりたいなどと言った子どもは、その後何度も同じことを言われ続けたが何も言い返しはしなかった。
 ただ黙って頭を下げ、彼らが去っていくのを待っていた。
 王の外戚に軽々しく言い返せるはずもない。

 騎士に成りたいがために選んだ主ではないことを、クラウスは自身に父にさえ言わなかった。
 言えなかった。



「モーガン将軍!」

 昔に気を取られていたクラウスを呼び戻したのは、視界に入った赤色だった。
 マリーナの前に立ちふさがる将軍の肩が血で染まっている。

 飛び出したクラウスは迫った刃を屈んで避け、その切っ先の主を睨んだ。
 薄笑いの崩れないポルターは二度三度とクラウスを斬りつけながら、避けられることすら楽しんでいるようだった。

 六度目の攻撃を避けたとき、クラウスは天幕から飛び出しざまに剣を抜いた。
 キン、キンと高い音が響く。

「騎士殿!」
「クラウス様!」
 剣戟の音を聞きつけた兵士が集まる。
 聖女の騎士に向かい合う者が仲間でないことを察した彼らは、騎士に加勢しようとしてか剣を抜いた。
 だが二人の剣劇の合間に入れる者はいない。

「クラウス!」
 ポルターの背後でマリーナが天幕から飛び出した。
 その肩をモーガン将軍が掴んで引きとめようとするが、負傷しているため片腕しか使えない。
 仕方なく彼は片腕で聖女の腰を抱いた。

「やめろっ! クラウス!」
 クラウスは焦った。
 剣の腕には自信があるつもりだったが、武官の息子はさらに上をいくものだった。
 クラウスには攻撃の隙を与えず、パンを千切って食べるように少しずつ追い詰めていく。

 幾度か髪が切れ、甲冑にあたった。
 腰の革紐が斬られ、鞘が落ちた。
 息が上がった。

 ポルターの剣劇が止んだ。
 細い唇が三日月のようにしなる。



 トッ───


 衝撃が、背後から来た。
 クラウスの敵は目の前にいるはずなのに……。

 驚いたのはそれだけではなく、主の頬を何かが掠めたことだった。
 左腕の上がらないモーガン将軍が抱え込むようにしてマリーナを隠してしまう。

 息が詰まった。
 それでも、主に何かが飛んでいく心配がなくなったことに安堵した。
 彼女に傷がつくなど許されない。

 視界に何かが迫った。
 ぶれる黒いものだ。

 光が走った。

 遠くで男たちの叫ぶ声がする。
 何を言っているのかわからなかったが、近づく光が危険なものだと体が先に反応した。

 ガキン、と剣が鳴る。

「よく止めた」
 あれだけぶれていた黒いものはポルターとなってクラウスに近づいていた。
 目の前に銀色の刃が迫り、それをクラウスは剣で受け止めていた。
 長年培った剣術が無心で働いた結果だった。

 ポルターは強引に押した。
 クラウスは驚くほど力がはいらず、押されるままに膝をついた。

 一度離れた剣が迫る。

「クラウス!」
 主の叫び声。

 いけない、とクラウスは思った。
 あの人はもう泣いてはいけないのだ。

 悲しみに暮れることも、寂しさに震えることもあってはならない。
 そうさせないために侍従になり、騎士となったのだ。
 生涯側にあることを、誓ったのだ。



 酔狂なヤツだ。



(いいや。違う)

 クラウスは息を吸い込もうとしてできないことをいぶかしんだ。
 次の攻撃を防ぐには力を溜める暇もない。
 瞬間的に抵抗するためにこちらからも打って出るべきなのに、力が入らない。

 もうすぐそこに刃が迫っている。

(酔狂であるはずがない!)

 歯を食いしばったクラウスは愛しい主の笑顔を求めたが、敵の体に阻まれて叶わなかった。



「クラウス!」

 視界を切り裂くように光が走った。