なんだと、と男は言った。
そのときクラウスは十一歳だった。
来月には十二歳になる。
(ご息女の侍従に、お執り成しください)
クラウスはもう一度、今度はゆっくりと言った。
とても緊張している上に、慣れない格好をしていて声が震えそうだった。
ひざまずくことがこんなに大変だとは、父も教えてくれなかった。
男は丸い目をギラギラさせて目の前の少年を睨み、ツンと尖った髭を震わせていた。
その向こうに、口元に締まりのない笑みを浮かべた青年が立っている。
(酔狂なヤツだ)
長い沈黙のあと、男はため息とともに吐き出した。
(いいだろう。
侍従に執りたててやる。
だが、アレのことは口外してはならん。
もし誰かに知れるようなことがあれば、おまえの父も牢獄に入れてやる)
言われるまでもなかった。
たとえ親子の縁を切られても、父にも言わない。
これは、あの人への誓い。
あの人への、精一杯の贈り物。
まだ幼い自分がしてあげられる、最高のもの。
(酔狂なやつめ)
頭を下げて礼を言うクラウスに、ロイズ子爵は嘲るような笑みを落とした。
(これからは、ずっと一緒です)
幼い主は最初意味がわからずポカンとして、それから破顔した。
クラウスの手をとって走り出し、家の前にいた乳母に大声で報告した。
(わたしのお友だちよ。
ずっといっしょなのよ!)
青い瞳をキラキラと輝かせ、広い庭を駆ける。
生い茂った茂みで隠れんぼをし、葉っぱで作った舟を川の水に浮かべてみる。
木の実を袋一杯詰め込んだのに、転んでばら撒いてしまって。
雛鳥を見ようと木の枝に作られた巣を木の下からずっと眺めていて、眠ってしまった。
十二歳の誕生日には花の首飾りを貰い、花の冠を贈った。
十三歳の誕生日には木の実と葉っぱでできた飾り止めを貰い、木の実と葉っぱでできた髪飾りを贈った。
十四歳の誕生日には名前が刺繍されたハンカチを貰い、名前の刺繍されたリボンを贈った。
十五歳の誕生日は査察隊として遠征していた。
遠くから手紙を送った。
還って来たとき笑顔と抱擁を貰った。
胸が鳴った。
酔狂ではない。
酔狂であるはずがない。
そうでなければ、この胸の高鳴りの説明がつかない。
別宅に花を届けた初日、誰もいないことを知っていたから、濃縮した琥珀石のような髪に触れ、耳元に囁いた。
絹のような頬を愛した。
主は王子の身代わりとして出征する必要がなくなって、まだそばにいられるのだと安堵した。
酔狂であるはずがない。
そうでなければ、主が王子の影に成り、王子そのものになってもそばにいたいと思う気持ちが消えないのはおかしい。
(クラウス、わたし……)
指先に触れる頬が緊張していた。
短剣を差し出す準備はできていたのに、主の強張った表情に言い出すきっかけができなくなった。
(わたしは、クーラ……わたし、は…………影で、なくなるんだそうだ)
何のことだろうかと、首を傾げたクラウスに、主は泣き出しそうな顔で告白した。
(わたしは、王子に、なるんだ)
王子?
(……わたし、は、お、お……じ、に……)
王子として死ね
それが王の言葉。
簡単に理解できることでもない。
けれどそんなおかしな冗談を深刻な表情で言う人ではない。
信じなければならない。
自分だけでも信じてあげなければ、あの人はまた一人になる。
暗い庭の茂みの向こうで、肩を震わせて泣かなければならない。
(クーラ、わたし、王子さまになるの)
少女たちが夢見るはずの王子そのものになるなんて、彼女は思ってもいなかっただろう。
主は泣きそうな顔で言った。
しばらく会えなくなるほうが嫌だといって、駄々をこねる。
(ずっと姫のおそばにおります)
(ずっと?)
(はい。ずっとです)
もう二度と、独りにはしないと、誓った。
あの人が泣かないように、寂しくないように。
あの人がいつも笑っていられるように。
酔狂ではない。
酔狂であるはずがない。
酔狂ではなく、陶酔したのだ。
あの出会いに感謝した。
あの時自分は、落ちたのだ。
あの瞳に。
潤んで輝く、天帝のおわす空色に。
吸い込まれるように。
恋に、落ちたのだ───
───ポツリ、と
(……あめ…………)
ぬるい雨。
(……ちがう…………)
ひどく体が重い。
うつ伏せのせいか胸が苦しい。
熱があるのか、重いはずの全身がふわりと浮くようだ。
それでいて億劫で、首を動かすこともできない。
何か背中がちくちくとする。
そこは特に熱い。
焼けた石でも当てられているようだ。
(ここは、どこだ……?)
周囲には明かりが点けられているらしいが、蝋燭なのか焚き火なのかわからない。
その明かりはどこかで遮られているらしく、周囲は壁があるようだ。
ずっと背中でゴソゴソと動くものがある以外、気配はない。
自分の呼吸の音が耳元で聞こえるようだ。
それにしても、息苦しい。
水の中にいるようだ。
「気づいたの?」
若い女の声がした。
少女のような。
驚いた。
「じっとしていてね」
「…………」
誰何しようとしたが、声どころか息も出せなかった。
喉が詰まっているのだろうか。
「ぜったい助かるから」
少女の声は力強かった。
大きな声ではないのかもしれないが、戦場の勇将が張り上げる声のようだ。
モーガン将軍のような。
(……そうだ)
大切なことを忘れていた。
疑わしい一面を見せたあのモーガン将軍は傷を負っていたはずだ。
そして主はその人に庇われていた。
クラウスは首を持ち上げようとしたが、石のように硬くぴくりとも動かなかった。
指先がかすかに痙攣した。
「痛いの?」
少女が顔を近づけて尋ねた。
「もう少しだけ我慢して。
もうちょっとで終わるから」
「……………………っ……………………」
「え?」
少女の耳が近づく。
クラウスはなんとか声を出そうとしたが、詰まるような息が出ただけだった。
「もしかして、姫様のこと? 大丈夫よ。
安心して。
姫様には傷ひとつないから」
それを聞いてクラウスは安心した。
気が抜けたのか、まぶたが重くなった。
そのときクラウスは十一歳だった。
来月には十二歳になる。
(ご息女の侍従に、お執り成しください)
クラウスはもう一度、今度はゆっくりと言った。
とても緊張している上に、慣れない格好をしていて声が震えそうだった。
ひざまずくことがこんなに大変だとは、父も教えてくれなかった。
男は丸い目をギラギラさせて目の前の少年を睨み、ツンと尖った髭を震わせていた。
その向こうに、口元に締まりのない笑みを浮かべた青年が立っている。
(酔狂なヤツだ)
長い沈黙のあと、男はため息とともに吐き出した。
(いいだろう。
侍従に執りたててやる。
だが、アレのことは口外してはならん。
もし誰かに知れるようなことがあれば、おまえの父も牢獄に入れてやる)
言われるまでもなかった。
たとえ親子の縁を切られても、父にも言わない。
これは、あの人への誓い。
あの人への、精一杯の贈り物。
まだ幼い自分がしてあげられる、最高のもの。
(酔狂なやつめ)
頭を下げて礼を言うクラウスに、ロイズ子爵は嘲るような笑みを落とした。
(これからは、ずっと一緒です)
幼い主は最初意味がわからずポカンとして、それから破顔した。
クラウスの手をとって走り出し、家の前にいた乳母に大声で報告した。
(わたしのお友だちよ。
ずっといっしょなのよ!)
青い瞳をキラキラと輝かせ、広い庭を駆ける。
生い茂った茂みで隠れんぼをし、葉っぱで作った舟を川の水に浮かべてみる。
木の実を袋一杯詰め込んだのに、転んでばら撒いてしまって。
雛鳥を見ようと木の枝に作られた巣を木の下からずっと眺めていて、眠ってしまった。
十二歳の誕生日には花の首飾りを貰い、花の冠を贈った。
十三歳の誕生日には木の実と葉っぱでできた飾り止めを貰い、木の実と葉っぱでできた髪飾りを贈った。
十四歳の誕生日には名前が刺繍されたハンカチを貰い、名前の刺繍されたリボンを贈った。
十五歳の誕生日は査察隊として遠征していた。
遠くから手紙を送った。
還って来たとき笑顔と抱擁を貰った。
胸が鳴った。
酔狂ではない。
酔狂であるはずがない。
そうでなければ、この胸の高鳴りの説明がつかない。
別宅に花を届けた初日、誰もいないことを知っていたから、濃縮した琥珀石のような髪に触れ、耳元に囁いた。
絹のような頬を愛した。
主は王子の身代わりとして出征する必要がなくなって、まだそばにいられるのだと安堵した。
酔狂であるはずがない。
そうでなければ、主が王子の影に成り、王子そのものになってもそばにいたいと思う気持ちが消えないのはおかしい。
(クラウス、わたし……)
指先に触れる頬が緊張していた。
短剣を差し出す準備はできていたのに、主の強張った表情に言い出すきっかけができなくなった。
(わたしは、クーラ……わたし、は…………影で、なくなるんだそうだ)
何のことだろうかと、首を傾げたクラウスに、主は泣き出しそうな顔で告白した。
(わたしは、王子に、なるんだ)
王子?
(……わたし、は、お、お……じ、に……)
王子として死ね
それが王の言葉。
簡単に理解できることでもない。
けれどそんなおかしな冗談を深刻な表情で言う人ではない。
信じなければならない。
自分だけでも信じてあげなければ、あの人はまた一人になる。
暗い庭の茂みの向こうで、肩を震わせて泣かなければならない。
(クーラ、わたし、王子さまになるの)
少女たちが夢見るはずの王子そのものになるなんて、彼女は思ってもいなかっただろう。
主は泣きそうな顔で言った。
しばらく会えなくなるほうが嫌だといって、駄々をこねる。
(ずっと姫のおそばにおります)
(ずっと?)
(はい。ずっとです)
もう二度と、独りにはしないと、誓った。
あの人が泣かないように、寂しくないように。
あの人がいつも笑っていられるように。
酔狂ではない。
酔狂であるはずがない。
酔狂ではなく、陶酔したのだ。
あの出会いに感謝した。
あの時自分は、落ちたのだ。
あの瞳に。
潤んで輝く、天帝のおわす空色に。
吸い込まれるように。
恋に、落ちたのだ───
───ポツリ、と
(……あめ…………)
ぬるい雨。
(……ちがう…………)
ひどく体が重い。
うつ伏せのせいか胸が苦しい。
熱があるのか、重いはずの全身がふわりと浮くようだ。
それでいて億劫で、首を動かすこともできない。
何か背中がちくちくとする。
そこは特に熱い。
焼けた石でも当てられているようだ。
(ここは、どこだ……?)
周囲には明かりが点けられているらしいが、蝋燭なのか焚き火なのかわからない。
その明かりはどこかで遮られているらしく、周囲は壁があるようだ。
ずっと背中でゴソゴソと動くものがある以外、気配はない。
自分の呼吸の音が耳元で聞こえるようだ。
それにしても、息苦しい。
水の中にいるようだ。
「気づいたの?」
若い女の声がした。
少女のような。
驚いた。
「じっとしていてね」
「…………」
誰何しようとしたが、声どころか息も出せなかった。
喉が詰まっているのだろうか。
「ぜったい助かるから」
少女の声は力強かった。
大きな声ではないのかもしれないが、戦場の勇将が張り上げる声のようだ。
モーガン将軍のような。
(……そうだ)
大切なことを忘れていた。
疑わしい一面を見せたあのモーガン将軍は傷を負っていたはずだ。
そして主はその人に庇われていた。
クラウスは首を持ち上げようとしたが、石のように硬くぴくりとも動かなかった。
指先がかすかに痙攣した。
「痛いの?」
少女が顔を近づけて尋ねた。
「もう少しだけ我慢して。
もうちょっとで終わるから」
「……………………っ……………………」
「え?」
少女の耳が近づく。
クラウスはなんとか声を出そうとしたが、詰まるような息が出ただけだった。
「もしかして、姫様のこと? 大丈夫よ。
安心して。
姫様には傷ひとつないから」
それを聞いてクラウスは安心した。
気が抜けたのか、まぶたが重くなった。