揺り起こされて、目を覚ました。

 視界はほんのりと赤い色をしていた。
 それでも光はまぶしくて、手で遮らなければならなかった。

 暮れかけた庭。

 どれだけうたた寝していたのか。
 ここに座ったのは確か午後のお茶を済ませてすぐだったから、そんなには経っていないはずだ。
 庭といっても森と見まごうばかりだから、陽が暮れるのも早い。

「風邪を引くぞ、こんなところで」
「……にぃ、さま」
 久しぶりに見る兄の顔は記憶よりも痩せていた。
 温室育ちの丸みは取れ、嶮が立っている。

 大きな肩幅をまだ甲冑が覆っている。
 還ってきたばかりなのだろう。
 着替えもせずに会いに来てくれたのだとわかると、うれしくて、兄に抱きついた。

「おい、マリー」
「おかえりなさいませ、兄様」
 うろたえる兄の顔は見なくても想像できた。
 この二番目の兄は明るく快活な反面、女性を前にすると一回り小さくなるのだ。

「中に入ろう」
 手を引かれて立ち上がると、足にかけてあった肩掛けが落ちた。
 拾おうとして、マリーはそれに見覚えがないことに気づく。

「どうした?」
 マリーは肩掛けを見せた。
 それは厚みがあってとても暖かそうだが、使い込んでくたびれている。
 こんなものは侍女たちが許さない。

「友人と話していたの。
 途中で寝てしまったのね、わたし」



 昨夜、月が消えた。

 夜空を司る帝母神に祈りを捧げていると、月はみるみるうちに欠け、マリーの記憶を蘇えらせてくれた。
 幼い頃に出会い、彼女と約束したことを。

 嘘かもしれない。
 けれど、本当に嘘かどうかはわからない。

 不安と興奮に後押しされ、マリーは森の庭へ一人で向かった。
 あの約束は内緒の約束だから、誰か供をつけて行くわけには行かなかった。
 見つかってもごまかせるように本を持って出た。

 果たして、彼女はそこにいた。

「こんにちは」

 あれから何年経っていると思ったのだろう。
 夢のような存在の彼女は、あのときの姿のままでマリーに微笑みかけた。
 まるで時が戻ったかのようだ。

 唯一変わったといえば、肩を少し越すくらいだった髪は背の半ばまで伸び、鮮やかな若草色の紐で結わえられている。
 その色は煌く金色の髪に映えた。

「さぁ、続きを話すわね」
 彼女は当たり前のように崩れかけの家の側に腰を下ろし、呆然とするマリーのためにお話を続けた。

 最初は驚きのあまり言葉もなかったマリーだが、彼女の紡ぐ物語に引き込まれて夢中になり、いつかし眠ってしまっていた。
 多分、聖女の騎士の部分までは聞き終えたと思う。

 また、名前を聞くのを忘れた。
 さらに今度は続きを聞かせてもらう約束すらできなかった。



「どうした、マリー?」
 崩れかけた小屋を見上げるマリーに、兄は心配げな表情で声をかけた。
「何でもないわ。
 今度会ったら、謝らないといけないわね」
 会えるかどうかはわからないけれど。

 しばらくどちらも無言で歩いていたが、兄がマリーを呼んだ。
「兄上が亡くなって、もう三年だ」
「…………」

 一番上の兄は王太子となって五年後、病死した。
 前年のうちに王太子妃となった姫は悲しみのあまりあとを追うように亡くなった。
 二人には子がなかったため、喪が明けた翌年、第二王子であるこの兄が冊立された。

 一時は悲しみに暮れた人々も、三年も経つと、故人を惜しむことはあっても悲しみに涙するほどではなくなった。
 一部を除いて。

「そろそろ、結婚を考えないか」
「兄様……」

「急かしているわけじゃない。
 ただ、家庭を持ってみると……いや、兄上たちのような結果になってほしくないんだ。
 おまえは当時の姫よりも年上で、しっかりしている。
 もしやということはないだろうが、それでも……」

 この兄も長兄のことを忘れているわけではない。
 忘れられないからこそ、妹の寂しさをどうにか埋めてやりたいと思っているのだ。
 マリーにもそれはわかっている。

 婚約してもう六年が経つ。
 幼い自分たちは結婚式ごっこをして楽しんだが、今ではそれは冗談ではすまなくなっていた。
 相手は兄と同じ歳で、学友なのだ。
 両方のことを案じているのだろう。

「陛下の具合も良くないそうだな」
「…………」
「わたしは王子だ。
 陛下が望まれれば、明日にでも即位するだろう」

 兄の声は珍しく堅かった。
 いや、久しぶりに聞くからそう思うのかも知れない。
 思い出すのは上の兄ばかりで、双子といっても兄たちは、背を向けたように似たところが少なかったのだ。

 だが……、と兄は歯切れ悪く言い継いだ。
 頭の上のほうで歯軋りの音がした。

「王にはなりたくない」

「……!」
 踏み出しかけた足が空をかいた。
 兄の大きな手がマリーの背中を支え、力強い腕に引き戻される。
「大丈夫か?」

「に、さま、い、……今、なんて、おっしゃいました?」
 広い胸にしがみつくようにして見上げた兄は、マリーをじっと見下ろした。
 いつからこんな苦しげな表情をするようになったのか、マリーは知らなかった。

「わたしは、王になりたくはない」
「ど……」
 どうして、いまさらなにを、と問い詰めたいのに声が出なかった。
 喉のどこかに絡んで出てこない。

 マリーの細い肩を兄が掴んだ。
「おまえに、王になってもらいたいんだ、マリー」
「!」

 突然振り出した雨に打たれた。
 いや、それはただの錯覚で、冷たいものに突き刺されたような気がしただけだ。
 それはマリーを傷つけはしなかったが、体の芯まで冷やすほど冷たいものだった。

 呆然とするマリーに、兄は苦々しく話した。
「おまえも耳にしていると思う。
 ここ数年、天候が大きく荒れ、作物の生産が大幅に落ちた。
 日照が続いたかと思えば、嵐が立て続けに来た。
 南の海岸沿いでは疫病まで流行って、漁業は一切禁止されたままだ」

 弟国から救済の嘆願書がいくつも来ているのはマリーも知っている。
 選任された使者が東の森から採れる食料を送ったが、帰ってくると付け焼き刃だったと肩を落としていたという。
 もともと弟国は漁業を得意とし、農業技術はあまり進んでいなかったのだ。

「わたしが出征しているわけも聞いているだろう。
 わたしが相手をしているのは敵ではない。
 ……民だ」
 無理やりこじ開けた口から出された言葉は苦しさを凝縮したかのように重く、兄の苦悩が手に取れるようだった。

 飢饉に見舞われた人々は近隣の村や町から食糧を強奪し、旅の一行を襲って金を奪った。
 教われた村や町の人々は、今度は襲う側となって被害を広めた。

 重く受け止めたのは国王だけではなかった。
 王太子自らが出向くことによって相手の戦意を欠き、またできることなら直接嘆願を受けている。
 話し合いの場が取れないときには、兵士は民に向かって剣を抜かなければならない。

「わたしは、守るべき民を追い払い、時には剣を向けている。
 これからは血を流すことになるかもしれん。

 行く先で何が起こるかもわからない。
 陛下のお体のこともある。
 ……わたしは、わたしが二人いればよかったと思う。
 一人が内政を、一人が外交を。

 ……兄上が、生きていてくだされば…………」

「兄様……」
 肩を掴む手に力がこもる。

 マリーは恐る恐る手を差し上げ、兄の首に添えて引き寄せた。
 背の高い兄はマリーの肩にひたいを乗せ、苦悩に震えた。

 彼の世界は今、どれだけ揺さぶられているのだろう。



「……わたしは……兄様、わたしは、政事はわかりません。
 今、国が、どれほど荒れているのかはわかるわ。
 でも、それを動かす方法を、知らないの」

 兄は顔を上げ、鼻の先がつかえるほど近くでマリーを見た。
「おまえは旗頭であってくれれば良い。
 かつて、シュワルドの聖女が戦場で民を鼓舞したように、おまえは、人々を励ましてくれるだけで良い。
 内政の実務は、ウォリーに任せる」
「ウォリアン様に……」
 それはマリーの婚約者だ。

「今度ヤツは宰相次官に着くことになった。
 ウォーレン宰相殿にも話は通してある。
 おまえが承諾してくれるのなら、陛下に進言申し上げる」

 マリーは動揺した。
 話が性急過ぎて着いて行けなかったのだ。
 兄もそれに気づいたのだろう、苦笑して、すまない、と謝罪した。

「少し、考えてくれないか?」


 五日後、驚くほどの回復力を見せ、クラウスは立ち上がった。
「うん、いいみたいね。
 でもまだ無理はしないで。
 体の中もちょっと傷がついていたから、また開いちゃうかも」
「あぁ。礼を言う」
「どういたしまして」

 シルヴィアという少女はとても小柄で、クラウスの胸まで背がない。
 腹のあたりでふわふわとした髪がなびいている。

 人は見かけによらないというが、医者も驚くほど薬の知識に長け、クラウスの快復に貢献してくれた。
 友人との再会に喜ぶマリーナの笑顔も輝かんばかりで、クラウスには少々妬けた。

「フォスターは今日には戻るのよね」
「ただいま」
「ひっ……!」
 少女の背後からのっそりとフォスターが現れた。

「もう、フォスター! 急に現れないで! びっくりしたわ」
 台詞を取られたクラウスは非難の眼差しを送るだけにした。
 まだ一応、養生中だ。

「ごめん。
 クラウス、どうだ?」
「は?」
 大きな態度と無礼な口調で有名な青年軍師の謝罪の言葉に驚き、クラウスは呆然とした。

 聞き違いだろうかと自分の頬をつねってみる。
 ……痛い。
 本当だった。

「ヴィア、あいつ頭打ってたっけ?」
「うぅん。
 そんなはずないんだけど……」
 二人に訝しげな顔をされ、クラウスは我に返った。

「向こうはどうだった?」
「帰りしな、早めに席を持ちたいと伝言があった。
 こちら側からはおまえを代表に出したいんだけど……」

「わかっている。
 その心積もりはしておいた」
「容態は?」
「うー……ん。そうね。
 表を歩いてもいいけど、乗馬の振動はまだよくないわ」
 馬に乗れないからといって相乗りしていくのも体面が悪い。
 騎士であるなら馬車もいけない。

「予定通り二十日後でなければ席は持たないと言うか。
 どうせ答えは一緒だ。
 あと十日あればどうだ、ヴィア?」
「そうね。
 歩かせるくらいならいいわ」



 医師殿の許可を貰い、クラウスは七日ぶりに天幕を出て表を歩いた。
 すぐに仲間の騎士が集まり、見舞いの言葉を貰う。
 散歩ついでに陣営を見回すと、兵士や民兵もクラウスの姿に安堵の笑みを浮かべた。

「クラウス殿、もう良いのですか?」
「モーガン将軍」
 表に出たクラウスのことを聞きつけたのか、軽く息を弾ませてやってきた。
 クラウスよりも頭ひとつ高い。

「ご心配をおかけしました」
「いや、こちらこそ、聖女どのを守るのに手一杯で」
「いいえ。
 やはりお礼を言うのはこちらです。
 姫をお守りくださり、感謝します」

 クラウスが寝込んでいる間、盗賊の頭によって将軍は無実の裏づけがされた。
 詳細までは聞かなかったが、あの場面を見てはもう疑う気はない。

「次の使者にはクラウス殿が赴かれるのでしたな」
 二人で並んで歩きながらモーガン将軍が尋ねた。
「はい。軍の第二位同士の対面ということなので。
 本来ならば、将軍かローイング卿が適任なのですが……」

 まさか、と勇将が笑う。
「常に大将のそばに控える者こそ適任です。
 クラウス殿以外におりません。
 陣営のことは我々にお任せください」
「ありがとうございます」

 そういえば、とクラウスは思った。
「つかぬことをお聞きしますが……」
「何か?」
「将軍はいつまでお独り身なのですか?」

 四十歳近いはずのモーガン将軍はまだ独り身だ。
 武のロイズ家を主家とする将軍ならば花嫁候補は山といただろうに。

「む……ん。
 これは参りましたな」
 勇将は頭をかいた。

「いえ、実は、初恋の君に手ひどく振られましてな。
 いまだ傷心中の身なのですよ。
 この齢になりますと、身を固めるのも難しくてですな。
 ……今はもう、彼女のお子の結婚に期待しております」

 遠い目をする勇将の脳裏には何が映っているのだろう。
 その視線の先に目を向けたとき、クラウスの視界には、駆けてくる愛しい主の姿があった。

 ひたいに当てた手を離したとき、外から声がした。
「どうぞ。入って」
 扉の布が細く上げられ、滑り込むように男が天幕に入る。

「容態は?」
「いま眠ったところ。
 熱も少し下がったわ」

 フォスターは足音を忍ばせて歩み寄り、少女の隣に立つ。
「少し休んだほうがいい」
「もう少しで終わるわ」

「シルヴィア」
「なに?」
「クラウスは、もう一度立ち上がれるか?」
 シルヴィアは青年を見上げた。
 薄暗くて表情がよく見えない。
 視線は多分、聖女の騎士から動いていない。

「わからないわ。
 こればかりは……」
「…………」

「なぜ?」
「立てなければ、騎士でいられなくなる」
「剥奪されるの?」
 いや、とフォスターは首を振る。
 少し考えるように沈黙した。

「聖女の騎士でいられなくなる」
「騎士でないと、姫様のそばにいられないの? そんなのおかしいわ」
 いや、とフォスターはまた首を振る。

「マリーナを全面的に信頼し、守る人間がいなくなる。
 聖女のためにと戦う者はいるが、マリーナという一人の人間にどれだけが集まるかわからない。

 今ここで、マリーナが王族の一人であることが知れれば、少なからず動揺するものが出る。
 王族として残っているのかと、一枚壁を隔てられてしまう。
 それは聖女と言うものを神聖化するためには必要かもしれないが、マリーナにはほしくないものだろう。
 常に隔たりを持って接されると、精神的にも疲労が溜まる。

 そこで実際、戦場で聖女マリーナを身を呈して守るものが必要になる。
 たとえ聖女が何であろうと、彼女を担ぎ上げられるだけの強い存在、手本となるものが必要なんだ。
 マリーナが聖女であり…………わからないなら、いいけど」

「戦争って、やっぱりよくわからないわ」
 シルヴィアはため息をついた。

「知る必要はない。
 知らなくても生きていける」
「でもあなたは知っているんでしょ?
 嫌だって思ったことはないの?
 死んでしまうかもしれないのに」
 言葉は少しずつ強くなる。

 自分で頼んでおきながらいうことではないと、シルヴィアにだってわかる。
 けれどどうしてもわからない。
 戦わなければならないことなど、本当にあるのだろうか。

「理由は人様々だと思う」
「…………たとえば、フォスターは?」
「俺は、たぶん……たぶんそのとき、自分の命の重さよりも、戦って得られるもののほうが大きかったんだ」

「……命、よりも?」
 彼はうなずいた。

「命よりも大切なものが一生に一度現れると、誰かが言った。
 俺はそれを戦場で見つけた。
 多くの仲間を失っても、多くの憎しみを向けられても、それでも守りたいものがあったんだ」

「何を見つけたの?」
 尋ねると、青年は薄暗闇の中でもわかるくらい大きく顔を背けた。

「何? そこまで言っておいて、気になるじゃない!」
「声が大きい」
「気になるのっ」
 小さな声で抗議するが教えてはくれないだろう。

「ほら、もう休んだほうがいい」
「むぅー……」
 子どものように頬を膨らませながらもシルヴィアは立ち上がった。
 重症人の看護も大切だが、その前に体を壊すわけにはいかない。

「いつか聞き出してやる」
 シルヴィアは捨て台詞をはいて、天幕を出た。



 ふぅ、とため息。
「どこから聞いていた?」
 どきりとする。

「ウソ寝野郎」
「お、まえ、が……勝手、に、話、して、た」
 クラウスは観念して目を開けた。

 さきほどまで少女が座っていたらしい椅子に腰掛けるフォスターは、見覚えのある甲冑を着ていた。
「……?」
「しばらく俺が、おまえの身代わりになって境の見張り役を務めている」

 聖女の騎士のことは敵にも情報が伝わっている。
 クラウスの甲冑を着て兜をかぶれば、敵は聖女の騎士直々に出向いていると思うだろう。

「その間のことは、起き上がれるようになってから、モーガン将軍に説明してもらう。

 それから、ポルターの父親……なんだったっけ。
 あぁ、ロイズ子爵か。
 あれは死んだそうだ。
 逃亡中に国王に置いてきぼりくらってな、気落ちして憤死だそうだ。
 長男は途中で獣に追われて死亡。
 ポルター以外は遠縁を頼ってまたどこかに行ったそうだ」

 裏切りに腹を立てたが、力んだところで背中が痛んだ。
 踏んだり蹴ったりだ。

「おまえはもうしばらく、医者の言うとおり休んでいろ。
 あと七日で立ち上がれるようにしろ」
「立て、るの、か?」
「立つ気だろう? 止めないから安心していい」
 見抜かれている。

「あの……少女、は?」
「シルヴィアか。
 マリーいわくお友だちだ」
「……お、とも、だち」
 いつか主が話してくれた友人だろう。

 いつの間に来てくれたのだろうか。
 クラウスはちっとも知らなかった。

「じゃ、俺は行くからな。
 おとなしく養生しろよ」

 立ち上がろうとしたフォスターをクラウスは呼び止めた。
 どうしても聞きたいことがあった。
 座り直したフォスターの視線を感じながらもなんとか唾を飲み込む。

「……せん、じょ、で……なに、を、見、けた?」
 盛大なため息が返ってくる。

 これはまたはぐらかされるだろうと、クラウスは思った。
 基本的にフォスターはマリーナ以外には厳しい。
 態度も悪い。
 口論では勝てたためしがないというのが、クラウス最大の屈辱だ。

 だが、予想外なことが起こった。
「理解できるかわからないけど、まぁ、簡単なことだ」
「…………」

「えー…………」
「………………………………」
「……………………………………人肌だ」
「っ……」

 傷も忘れて起き上がろうとしたクラウスは、ぴくりと震えただけで全身苦痛に襲われた。
 歯を食いしばって悲鳴を堪えたが、うめき声が歯の隙間からこぼれ、天敵に聞こえてしまった。

「動くなって」
「な……なん……こ、の、へん、たいっ!」
「誰が変態だ、誰が」

 フォスターは笑い声さえ上げて天幕を出て行った。
 それ以上怒る体力はまだなく、クラウスは自分を宥めながら目を閉じた。



 次に目が覚めたのは、鼻に何かが触れているのに気づいたからだ。
 目を開けると、白い指先が視界を覆っていた。

「クラウス?」
「……ひ、め…………」
 あぁ、と深いため息。
「よかった……」

 愛しい主は顔を両手で覆い、その指の隙間から涙が零れた。
 初めて出会ったときのように声もなく、肩を震わせる。

「ひめ……」
 慰めたい。
 抱きしめて、心配させたことを詫びたいのに、クラウスの体は起き上がろうとしなかった。

 蝋燭の明かりにつやつやと輝く髪の感触がほしい。
 絹のような頬を伝う涙を拭ってやりたいのに。
 歯噛みして、口の中に血の味が広がる。

 右手を握りしめ、ぐっと力を込める。
 まるで床に吸い取られるように力が抜けていく。
 それでもクラウスは諦めず、腕を突っ張って体を横向きにしようとした。
 背中と首が痛んだ。

 衣擦れの音に気づいたマリーナが顔を上げる。
 クラウスが動こうとしているのに驚いて、両手を差し出し、分厚い肩と汗に濡れた頭に手を添えた。
 クラウスはそのままマリーナの腕を取った。

 腕を伝って肩に触れ、背中に滑らせ引き寄せる。
「……ひ、め」
 耳元で囁くと、少女の肩がぴくりと震えた。

「……い……して、いま、す」
 あ、と声がした。

 見つめてくる青い瞳。
 天帝の、青。

「ずっと……あなたを……見、きました。
 ずっと、あなたの……そばに、たい、と……願っ、て……。
 あなた、を…………姫……わたしの……」

 出会って初めてその言葉を口にした。

 幼い頃、他人に向ける「愛」というものがわからなかった。
 それがどんなもので、どれを意味するのかも知らなくて。
 いつそれをいえば良いのかわからなくて。

 身内への「愛」はそれこそ物心がつくように理解していったのに、友人に向けるものと同じものかと漠然と思っていた。



 幼い頃、愛しているといって、伝わっただろうか。
 今だからこそ伝わるのでないだろうか。

 母を知らず、父に捨てられ、乳母さえ失って。
 今彼女を愛してやれるのは、これからも愛し続けられるのはクラウスだけだろう。

 自惚れでもいいからそう思う。

 彼女の微笑みを守りたい。
 その心を独り占めにしたいと思いながら、どんな相手でさえ思いやるその心根が羨ましい。



 愛しい、と───最初に思ったのはいつだろう。

 親兄弟に向けるものより熱く、友人へ向けるものよりも甘いものが心の中にあるのを知ったのは、もう思い出せないほど昔のことなのかもしれない。

 出会ったとき。
 振り向いた彼女の瞳に捕らわれ、落ちた先がどこなのか知らずにいた。

 今のその場所にいる。
 その場所にいて、この想いに気づくことができた。
 引きずりこんだ天帝に感謝したい。

 この想いを教えてくれたことに。
 人の生きている温もりがこれほど嬉しいものだと教えてくれたことに。

(あぁ……。
 そうだな、フォスター)
 口の悪い軍師の言葉を理解した。
 確かに、この人肌は守りたいものだ。

「わたしの、マリーナ……」

 天帝の空が揺れ、一粒の雨が降った。
 絹の小山を滑り降り、空を彷徨ってクラウスの頬に落ちる。
 まるで恵の雨だとクラウスは思った。

「愛しています」

 心からそう思った。