ひたいに当てた手を離したとき、外から声がした。
「どうぞ。入って」
 扉の布が細く上げられ、滑り込むように男が天幕に入る。

「容態は?」
「いま眠ったところ。
 熱も少し下がったわ」

 フォスターは足音を忍ばせて歩み寄り、少女の隣に立つ。
「少し休んだほうがいい」
「もう少しで終わるわ」

「シルヴィア」
「なに?」
「クラウスは、もう一度立ち上がれるか?」
 シルヴィアは青年を見上げた。
 薄暗くて表情がよく見えない。
 視線は多分、聖女の騎士から動いていない。

「わからないわ。
 こればかりは……」
「…………」

「なぜ?」
「立てなければ、騎士でいられなくなる」
「剥奪されるの?」
 いや、とフォスターは首を振る。
 少し考えるように沈黙した。

「聖女の騎士でいられなくなる」
「騎士でないと、姫様のそばにいられないの? そんなのおかしいわ」
 いや、とフォスターはまた首を振る。

「マリーナを全面的に信頼し、守る人間がいなくなる。
 聖女のためにと戦う者はいるが、マリーナという一人の人間にどれだけが集まるかわからない。

 今ここで、マリーナが王族の一人であることが知れれば、少なからず動揺するものが出る。
 王族として残っているのかと、一枚壁を隔てられてしまう。
 それは聖女と言うものを神聖化するためには必要かもしれないが、マリーナにはほしくないものだろう。
 常に隔たりを持って接されると、精神的にも疲労が溜まる。

 そこで実際、戦場で聖女マリーナを身を呈して守るものが必要になる。
 たとえ聖女が何であろうと、彼女を担ぎ上げられるだけの強い存在、手本となるものが必要なんだ。
 マリーナが聖女であり…………わからないなら、いいけど」

「戦争って、やっぱりよくわからないわ」
 シルヴィアはため息をついた。

「知る必要はない。
 知らなくても生きていける」
「でもあなたは知っているんでしょ?
 嫌だって思ったことはないの?
 死んでしまうかもしれないのに」
 言葉は少しずつ強くなる。

 自分で頼んでおきながらいうことではないと、シルヴィアにだってわかる。
 けれどどうしてもわからない。
 戦わなければならないことなど、本当にあるのだろうか。

「理由は人様々だと思う」
「…………たとえば、フォスターは?」
「俺は、たぶん……たぶんそのとき、自分の命の重さよりも、戦って得られるもののほうが大きかったんだ」

「……命、よりも?」
 彼はうなずいた。

「命よりも大切なものが一生に一度現れると、誰かが言った。
 俺はそれを戦場で見つけた。
 多くの仲間を失っても、多くの憎しみを向けられても、それでも守りたいものがあったんだ」

「何を見つけたの?」
 尋ねると、青年は薄暗闇の中でもわかるくらい大きく顔を背けた。

「何? そこまで言っておいて、気になるじゃない!」
「声が大きい」
「気になるのっ」
 小さな声で抗議するが教えてはくれないだろう。

「ほら、もう休んだほうがいい」
「むぅー……」
 子どものように頬を膨らませながらもシルヴィアは立ち上がった。
 重症人の看護も大切だが、その前に体を壊すわけにはいかない。

「いつか聞き出してやる」
 シルヴィアは捨て台詞をはいて、天幕を出た。



 ふぅ、とため息。
「どこから聞いていた?」
 どきりとする。

「ウソ寝野郎」
「お、まえ、が……勝手、に、話、して、た」
 クラウスは観念して目を開けた。

 さきほどまで少女が座っていたらしい椅子に腰掛けるフォスターは、見覚えのある甲冑を着ていた。
「……?」
「しばらく俺が、おまえの身代わりになって境の見張り役を務めている」

 聖女の騎士のことは敵にも情報が伝わっている。
 クラウスの甲冑を着て兜をかぶれば、敵は聖女の騎士直々に出向いていると思うだろう。

「その間のことは、起き上がれるようになってから、モーガン将軍に説明してもらう。

 それから、ポルターの父親……なんだったっけ。
 あぁ、ロイズ子爵か。
 あれは死んだそうだ。
 逃亡中に国王に置いてきぼりくらってな、気落ちして憤死だそうだ。
 長男は途中で獣に追われて死亡。
 ポルター以外は遠縁を頼ってまたどこかに行ったそうだ」

 裏切りに腹を立てたが、力んだところで背中が痛んだ。
 踏んだり蹴ったりだ。

「おまえはもうしばらく、医者の言うとおり休んでいろ。
 あと七日で立ち上がれるようにしろ」
「立て、るの、か?」
「立つ気だろう? 止めないから安心していい」
 見抜かれている。

「あの……少女、は?」
「シルヴィアか。
 マリーいわくお友だちだ」
「……お、とも、だち」
 いつか主が話してくれた友人だろう。

 いつの間に来てくれたのだろうか。
 クラウスはちっとも知らなかった。

「じゃ、俺は行くからな。
 おとなしく養生しろよ」

 立ち上がろうとしたフォスターをクラウスは呼び止めた。
 どうしても聞きたいことがあった。
 座り直したフォスターの視線を感じながらもなんとか唾を飲み込む。

「……せん、じょ、で……なに、を、見、けた?」
 盛大なため息が返ってくる。

 これはまたはぐらかされるだろうと、クラウスは思った。
 基本的にフォスターはマリーナ以外には厳しい。
 態度も悪い。
 口論では勝てたためしがないというのが、クラウス最大の屈辱だ。

 だが、予想外なことが起こった。
「理解できるかわからないけど、まぁ、簡単なことだ」
「…………」

「えー…………」
「………………………………」
「……………………………………人肌だ」
「っ……」

 傷も忘れて起き上がろうとしたクラウスは、ぴくりと震えただけで全身苦痛に襲われた。
 歯を食いしばって悲鳴を堪えたが、うめき声が歯の隙間からこぼれ、天敵に聞こえてしまった。

「動くなって」
「な……なん……こ、の、へん、たいっ!」
「誰が変態だ、誰が」

 フォスターは笑い声さえ上げて天幕を出て行った。
 それ以上怒る体力はまだなく、クラウスは自分を宥めながら目を閉じた。



 次に目が覚めたのは、鼻に何かが触れているのに気づいたからだ。
 目を開けると、白い指先が視界を覆っていた。

「クラウス?」
「……ひ、め…………」
 あぁ、と深いため息。
「よかった……」

 愛しい主は顔を両手で覆い、その指の隙間から涙が零れた。
 初めて出会ったときのように声もなく、肩を震わせる。

「ひめ……」
 慰めたい。
 抱きしめて、心配させたことを詫びたいのに、クラウスの体は起き上がろうとしなかった。

 蝋燭の明かりにつやつやと輝く髪の感触がほしい。
 絹のような頬を伝う涙を拭ってやりたいのに。
 歯噛みして、口の中に血の味が広がる。

 右手を握りしめ、ぐっと力を込める。
 まるで床に吸い取られるように力が抜けていく。
 それでもクラウスは諦めず、腕を突っ張って体を横向きにしようとした。
 背中と首が痛んだ。

 衣擦れの音に気づいたマリーナが顔を上げる。
 クラウスが動こうとしているのに驚いて、両手を差し出し、分厚い肩と汗に濡れた頭に手を添えた。
 クラウスはそのままマリーナの腕を取った。

 腕を伝って肩に触れ、背中に滑らせ引き寄せる。
「……ひ、め」
 耳元で囁くと、少女の肩がぴくりと震えた。

「……い……して、いま、す」
 あ、と声がした。

 見つめてくる青い瞳。
 天帝の、青。

「ずっと……あなたを……見、きました。
 ずっと、あなたの……そばに、たい、と……願っ、て……。
 あなた、を…………姫……わたしの……」

 出会って初めてその言葉を口にした。

 幼い頃、他人に向ける「愛」というものがわからなかった。
 それがどんなもので、どれを意味するのかも知らなくて。
 いつそれをいえば良いのかわからなくて。

 身内への「愛」はそれこそ物心がつくように理解していったのに、友人に向けるものと同じものかと漠然と思っていた。



 幼い頃、愛しているといって、伝わっただろうか。
 今だからこそ伝わるのでないだろうか。

 母を知らず、父に捨てられ、乳母さえ失って。
 今彼女を愛してやれるのは、これからも愛し続けられるのはクラウスだけだろう。

 自惚れでもいいからそう思う。

 彼女の微笑みを守りたい。
 その心を独り占めにしたいと思いながら、どんな相手でさえ思いやるその心根が羨ましい。



 愛しい、と───最初に思ったのはいつだろう。

 親兄弟に向けるものより熱く、友人へ向けるものよりも甘いものが心の中にあるのを知ったのは、もう思い出せないほど昔のことなのかもしれない。

 出会ったとき。
 振り向いた彼女の瞳に捕らわれ、落ちた先がどこなのか知らずにいた。

 今のその場所にいる。
 その場所にいて、この想いに気づくことができた。
 引きずりこんだ天帝に感謝したい。

 この想いを教えてくれたことに。
 人の生きている温もりがこれほど嬉しいものだと教えてくれたことに。

(あぁ……。
 そうだな、フォスター)
 口の悪い軍師の言葉を理解した。
 確かに、この人肌は守りたいものだ。

「わたしの、マリーナ……」

 天帝の空が揺れ、一粒の雨が降った。
 絹の小山を滑り降り、空を彷徨ってクラウスの頬に落ちる。
 まるで恵の雨だとクラウスは思った。

「愛しています」

 心からそう思った。