雑音だろうか、というのがクラウスの最初の感想だった。

 アインス国軍の参謀長だという男は、同語を使っているはと思えないくらいひどい言葉で話した。

 休戦条約の詳細を読んでいるフォスターの声は唯一の安らぎだ。
 この男で安心できるとは思いもよらなかったが、その朗々とした声は草原中に広がるほど良い音だった。

 フォスターを連れてきてよかったと、しぶしぶ思う。



 敵の参謀長はしかめっ面で聞いているようだが、目はフォスターから離れず、声を言葉として理解しているのかわからない。
 彼は呆然としているようだ。
 しかめっ面は地顔なのだろう。

 確かにフォスターはきれいな顔をしているとは思うが、中身を知っているクラウスはわざわざ観賞しようとは思わない。
 あれもこれも思い出して腹が立つだけだ。

 見られているのに気づいていないのか、慣れたことなのか、青年軍師は淡々と読み進める。
 一語一句はっきりと、大きな声で。



 敵の参謀長の背後には敵陣が広がっている。
 二二名の味方では抵抗する間もない戦力差だ。
 もちろん、せめて両陣営の中心にするべきだとクラウスは反対したが、決定事項だといって聞かなかった。

 確かに敵の参謀長の背後には敵陣があるが、ここは丘の上で、さらに敵の参謀長は通訳一人しか連れてきていない。
 クラウスたちのすぐ後ろには二十名の護衛がいることを思えば、妥当と言ってやらなくもない。

 心地良い風が後ろからそよいだ。
 もうそんな季節かとクラウスは時の経つのを感じた。
 敵陣ではどんな顔で風に運ばれる言葉に耳を傾けているのだろう。



「クラウス。
 参謀長殿がいくつか質問をしたいそうだ」

「あぁ、かまわない。
 どんなご質問でしょうか、と」

 舌を噛みそうな口調で青年軍師が伝えると、敵の参謀長は鷹揚にうなずいて何か言った。
 やはり同語とは思えない。

「『得た土地に住まうシュワルド人は、戦利品としていただいて良いのでしょうか』と」

 クラウスは舌打ちしたい気分だった。
 この会合が行われる前に散々青年軍師と話し合った問題だ。
 同じ言葉を使っているらしいが習慣は異なる。

「それは戦において必定のこと。
 ただし、奴隷制度の導入によって、シュワルド人が反乱を起こしたとしても、こちらとしましては対処しようもありません。
 逃亡者は同国人として迎え入れるだけです」

「『失礼ながら、シュワルドの騎士殿。
 そうは言われましても、領土が三分の一となった貴国へ、すべての逃亡者を受け入れる余地はあるのでしょうか?』と」

「ご心配には及びません。
 我が友グロバー国より、援助の申し入れをいただいております。
 休戦後、ただちに使者が参られる手はずにまで整っておりますので」

 青年軍師が約した言葉を聞いて敵の参謀長の眉毛が動いた。
 顔に飼っている毛虫が落ちかけそうになったのだといわれれば信じただろう。
 心なしか、赤黒い顔に汗が滲み出ている。

「『グロバー国との締結はお済みで?』と」

「おかしなことをおっしゃられます。
 両国は紙一枚のつながりなど必要とはしておりません。
 我らには聖女がおりますゆえ」

「『聖女どのはグロバー国の方なのですかな?』と」

 答えるのに一拍置いた。

 演技ではない。
 本音だ。
 こんなことは信じられない。

「我らシュワルドの聖女は、先王弟、ウィンストン王公爵の姫君にあらせられる」





 王家の血の効力がこれほどのものとは思わなかった。
 クラウスにとって、身近な王族はあの逃亡した人間どもなのだ。
 ありがたみもない。

 行きは緊張に強張っていた肩が、帰りは肩当てがずれそうなくらい落ちていた。
 護衛として同行してくれた仲間の騎士たちの心配げな視線を感じるが、空元気に笑ってやることもできない。

 グロバー国王公爵ウィンストン家。

 広大なグロバー国の南東一帯を領地とする、王族に連なる大貴族だ。
 “王”とつくのがその証拠で、主筋である王家は公子の結婚相手をまずここから選ぶという。



 クラウスの主マリーナの父は、ウィンストン王公ウィリアム。
 先のグロバー国王の末弟で、現在のグロバー国王の伯父にあたり、つい先年、亡くなったという。

 彼には表向き子どもがなかった。
 マリーナが彼の実子だという証拠がなされれば、王公爵家はマリーナを主として迎えに来るだろう。
 王族の血筋を守るために、ウィンストン王公爵家があるのだから。

 その証拠が今、クラウスの手の中にある。

 握りしめれば隠れてしまうくらい小さなものだ。
 放り投げればあっという間に見失って、探し出すのに苦労するだろう。

 小さな、指輪。

 ウィンストン王公爵家の紋章の柵と、ロイズ子爵家の紋章の朝顔の蔓がひとつの家紋として施されている。
 宝石のひとつもない家紋指輪だ。

「教えるかどうかは自由だ」
 いつのまにかフォスターの馬がクラウスの馬に並んでいた。
 下がらせたのか、護衛たちとの距離がある気がする。

「俺は預かっただけで、教える義務もない。
 もちろん、おまえにも」
「ではなぜ利用した?」

 フォスターは少しだけ沈黙した。
「義理、かな。
 ……賢明王の姉の願いだったんだ。
 ウィリアム卿の子が見たい、と」

「<風見鶏の姫>が……?」
 現グロバー国王の姉は、風を読む風見鶏のように、勝利を読む姫として知られている。
 その異名が<風見鶏の姫>だ。

「王姉は子を産めない。
 代わりに、慕っていた伯父の子が見たいと言っていたそうだ」
「……………………」
 あまりにあっさりと言われたので、クラウスは抗議もできなかった。



 姫とはいっても、賢明王とその姉は双子で、子がいてもよい歳である。
 だが王姉は結婚すらしていない。
 石女であるとか、愛人遊びをしているのだとか言われている。

 跡取りを産めない姫君など用無しだというのは、たいていの国では同じ。
 それがあの賢明王の姉だというのは悲劇だ。

 いや、返って良かったのかもしれない。
 大国の王姉の婚姻など争いの種を生みかねない。



「賢明王が多妻なのは、占領した国を抑えるためだということもある。
 けど、本当は、姉のためなんだ」

「……〈風見鶏の姫〉、の?」
「彼女はたくさんの子どもに囲まれて暮らし、死ぬときは大家族に看取られて逝きたかったそうだ。

 賢明王の親類は“先の大戦”中にほとんどが死亡し、近親者は賢明王とその姉と、弟の三人しか残っていない。
 即位前後、頼れるのは姉弟のみ。
 外戚も臣下も、戦で手柄を立てて名声と金を欲しがるばかりだったそうだ」

「だがなぜ、姉君の願いを王が叶えようとする?」
「十歳にもならない子どもが、首が折れそうに重い王冠をかぶっていたのに気づいたのは、姉だけだった」

 金細工に大きな宝石を埋め込んだきらびやかな宝冠、王の象徴。
 それは金と石の重み以上に重いものだっただろう。

「王ではなく一人の弟して思ってくれた姉の願いを、叶えたかったそうだ」
「………………」



 賢明王は王となるとき、どんな気持ちだっただろう。

 王座の座り心地は良かっただろうか。
 豪華な革張りの椅子も沈みそうに厚い絨毯も。
 昼間の太陽のように輝く蝋燭たちも。
 磨きこまれた廊下も。
 かしずく召し使いも満足のいくものだったのだろうか。

 どんなに上等な生地の服だろうと、どんなにきれいな王冠や錫状だろうと、クラウスだったから家族か友人のそばが居心地良かったはずだ。
 貴重な少年時代を、余計な重みで潰したくない。



「マリーには話さなくてもいい。
 いらなければ、その指輪は王姉に渡そう。
 せめて形見のひとつはほしいだろうから」

 どうする、と濃い緑色の瞳が尋ねた。

 すぐには返答しかねた。
 これはクラウスのことではなく、結局マリーナの問題なのだ。
 本人は今ここにはいないし、とてもよいことだと素直に喜べない。

 わたしは、誰なんだろう───……

 涙目が訴えかけた問いが耳の奥にこびり付いていて、何度も繰り返される。

 王公爵家が迎えにくればマリーナはどうするのだろうか。
 血の繋がったものたちを求めて行ってしまうのではないだろうか。
 やっと安心できる場所が見つかったと言って。

 迂闊に近寄ることもできなかった王子の身代わり時代がまた再現されるのだ。
 クラウスは恐ろしくなって震えた。

「姫は……今、お辛いだろうか?
 天幕での生活や、戦場が嫌だと思われることはないんだろうか?
 きれいなドレスを着て、良いものを食べて、侍女たちにかしずかれたいと思われるだろうか?」

「それはまぁ、戦場が嫌だとは思っただろうな」
「…………」
 青年軍師は少しも慰めてくれないようだ。
 クラウスは落ち込んだ。

「でも、この道を選んだのはマリーだろう?」
「それは、そうだが……」

「安全な戦場なんてないんだから、おまえが守ってやれば良いじゃないか。
 進む道に壁が立ちふさがるのは当然だ。
 避けて通ったって、結局同じところに戻って来てしまう。
 要は、いかにしてその壁を乗り越えるかなんだ。

 乗り越えられる高さの壁なら、おまえが踏み台になるなりして登れば良いし。
 延々と続くようなら壊してでも通ればいい。

 やり方はたくさんある。
 どんなに厚い壁だからって、越えられないことはないんだ。
 その壁は結局、自分で造ったものなんだから」

「……自分で?」
 何だそれは、とクラウスは聞こうとした。
 それを青年軍師が手で制して止めた。

「なぁ、クラウス。
 大切なもののためには、犠牲にだってなれるかもしれない。
 自分を誰かが求め、頼ってくれるっていうのは嬉しいよな。
 それは俺も、わかるよ。

 でもな、生きていてこそできることのほうが多いんだ。
 生きていなければ、守りたいものも守れない」

 青年軍師は口元に笑みを浮かべて俯いた。
 何が楽しいのかクラウスにはわからないが、視界の隅で何かが動いているのには気づいた。

「賢明王には姉弟だけだった。
 そしてマリーナには、おまえが必要だ」

 わかるな、と青年軍師が聞いた。
 クラウスはうなずいた。

「おまえは、マリーナの騎士だ、クラウス」

 はっとして声をあげようとするのと、背後でバチンと叩かれる音がしたのは同時だった。
 青年軍師の右手はクラウスの乗る馬の尻を叩いて、片方の手で剣を抜いた。

 驚いた馬が走り出した。
 馬を止めた青年軍師との差が一気に開く。

 馬は止まってくれない。
 馬上から飛び降りそうになるクラウスを止めるかのように、同行して走る護衛たちが塞がった。
 フォスターと数名の護衛たちとの差はどんどん開いていく。

 激しく揺れる馬上から最後に見たものは、周囲を何者かに囲まれる仲間たちの姿だった。

「フォスター!」

 いつも世話を焼かれてばかりのマリーナは、その日だけは心配で手が落ち着かなかった。
 何か忘れものがないか、持っていたほうが良いものはないのか……。
 考えられるだけ考えても不安で、最後までそわそわとしていた。

 クラウスは主を安心させようと笑顔のまま、多くの仲間に見守られて出立した。
 護衛に騎士五人と兵士十五人、補佐に軍師をつけたたった二二名が何百という敵陣に向かった。

 生きて帰ってほしい───マリーナの心にはそれしかなかった。

 和平がどうということは二の次だったが、それを口にするほど愚か者でもない。
 ただただ彼らの無事を心の中で祈った。

「聖女どの、中にはいりましょう」
 使者たちが見えなくなってもマリーナは動こうとしなかった。
 見かねてモーガン将軍が声をかけた。

 はい、とマリーナはうなずいた。
 自分の立場はよくわかっていたから。

 天幕に下がると、モーガン将軍が自らお茶を淹れてくれた。
 マリーナは驚いて彼をまじまじと見つめてしまった。
「どうかなさいましたか?」
「あ……あの…………」

 机に置かれた茶器から良い香りがした。
「落ち着きますよ。
 お飲みください」

 そう言われて飲まないのは失礼だったので、マリーナは素直にお茶を口にした。
 細かく砕いた豆と乾燥させた葉っぱのお茶は香ばしく、口の中でほろ苦く広がった。
「おいしい」

「それは良かった。
 わたしはお茶をいれる以外、おもてなしができないものですから」
「いいえ、お上手です、本当に。
 クラウスが淹れてくれるよりも美味しいです」

 賛辞にモーガン将軍は頬を染めた。
「ありがとうございます。
 しかし、クラウス殿より上手いというのは秘密にしておきましょう。
 妬かれますからな」
 今度はマリーナが頬を赤くした。

「ク……クラウスたちは、いつごろ戻る予定でしたでしょうか?」
 話題を変えようと口にしたものさえ彼のことだった。
 マリーナの顔はますます赤くなるが、モーガン将軍はそれ以上からかったりしない。

「明日の夕方ごろになります。
 きっと良い返事ですよ」



 青年軍師の和平条件に賛同したのは、マリーナとクラウスの次にモーガン将軍だった。
 彼はまずローイング伯を説得して彼に頭脳派の貴族を、自分は騎士たちを説得した。

 マリーナたちがあれほど苦労したことを、モーガン将軍はあっさりとやってのけてくれた。
 あまりの速さにマリーナは、彼らの心変わりについていけなかったぐらいだ。

 高位指揮官としてローイング伯とモーガン将軍が上げられるが、モーガン将軍は領地すら失った子爵だ。
 それでも貴族への影響力は大きい。
 頭脳派のローイング伯、武力派のモーガン将軍と誰もが仰ぐ。

 どうしても、あの青年軍師は若すぎる。
 これまでの策が見事なのは認められても、若い者への反発があるのだろう。
 青年軍師の場合、口が災いするのも確かだ。
 それを補うのに、ローイング伯の老成した落ち着きと、モーガン将軍の成熟した逞しさがある。

 三人が並んでいると、似ていない親子三代がいるようだ。
 経験と、力と、若さと。
 まるで国一つを現しているかのようだ。



「モーガン将軍。
 将軍は、どうして武官に進まれたのですか?」
「わたしは武家の出身ですよ」
「クラウスは文家の出身です」
 なるほど、と将軍は苦笑する。

「わたしが生まれた当時は、戦の最中でした。
 聖女どのがお小さいころに終結した、“先の大戦”です。

 父は息子たち全員を戦場に送り出してでも国を守りたいと考えたのです。
 わたしには選択の余地はありませんでした」

 選択の余地はなかった───マリーナの胸にその言葉は響いた。

 遊び疲れて寝るだけの日々は終わり、口さがない侍女やその主について回らなければならなかった、王子の身代わり時代。
 それ以外、父という絶対的な人は許さなかった。

 右を選ぶも左を向くも、父の意向で決められた。
 最後にはその主である王に死を選択された。
 ほかに選択があることすら気づかせてはもらえなかった。

 誰が、教えてくれただろう。

 少女が───シルヴィアという迷子が、この命を惜しむといってくれた。
 あのときの気持ちは未だ胸の中を温めてくれる。



「戦場は怖くありませんか?
 ほかに何か、選びたいと思ったことはないのですか?」
「ありますよ」
「なぜお選びにならなかったのです?」

 ふふ、と将軍は笑った。
「出会ってしまったからです」
「……出会った?」

 将軍は大切なものをそっと見せるように言った。
「愛しいと思う人と出会ってしまったのです。

 彼女を守りたい、彼女を幸せにしたい。
 そのためには強い騎士にならなければならない、と……。
 結局、父の望む道を重なった。
 けれどわたしは、わたしの意思で剣の道を選んだのですよ、聖女どの」

 それはどんなに困難な道だったのだろう。

 守りたいと思い、そのために立ち上がるだけの勇気がどれほど必要かマリーナは知っていた。
 振り絞るためにクラウスに掴まり、彼に支えられてやっと立つことができたのだ。



「その人は、今……?」
 その言葉を口にしてマリーナは後悔した。
 モーガン将軍は悲しそうに苦笑した。

「今も変わらず、お慕いしております」

 将軍は遠い目をして言い継いだ。



 たとえ叶わぬ想いであろうと───





 ……湧き出る泉

 ひと掬いに飲み干して


 胸の願いよ湧き出でよ

 唱え賜え 心の……


「姫様?」
 歌声が途切れ、かわりに同じ声でマリーナは呼ばれた。

 再会してからというもの、そばにいる時間が長いのがクラウスの次に彼女だった。
 意識が戻らず蝋のように青ざめたクラウスにしがみついて離れないときは、いつも彼女が引き剥がしてくれた。

「どうしたの? ボーっとして。
 騎士様のこと、思ってたんでしょ」

 シルヴィアのからかいの言葉に、マリーナは真っ赤な顔で、誰も聞きはしなかっただろうかと見渡した。
 後ろに控える護衛は視線を逸らした。

「……な、何を、しているんだ?」
「薬草を練っているのよ。
 湿布にするの」

 周囲には薬草の苦い香りが漂っている。
 地面には焚き火といくつもの薬草、皮袋が置かれていた。
 医師の弟子が皮袋を箱に詰め込んでいる。

 医師はこの少女の腕前をいたく気に入り、知識を交換しあっていた。
 少女も新しい薬や調合に熱心になり、過ぎてスープが冷め切ったくらいだ。
 見かねたフォスターが食事のときは薬の話を禁止にした。

「手伝うことはある?」
「もうこれで終わり」

 鈍いてかりをもった練り薬を皮袋につめ、口を堅く縛ってしまう。
 これで五日は持つのだそうだ。



「すごいな、シルヴィアは。
 料理も薬も作れて」
「姫様は作ってくれる人がいるでしょ。
 姫様のために作ってあげたいって思う人がいるなら、ありがたく貰うべきよ」

「そうか? わたしは何も返してあげられない。
 貰うだけなんて、不公平じゃないか?」

 シルヴィアはクスクスと笑った。
 医師の弟子は目をまん丸にしていて、マリーナと目があうと慌てて逸らした。

「それ、本気で言ってるのよね、姫様」
「も、もちろんだ。
 ……おかしい?」

「おかしいわ。
 だって、誰だって、大切なもののためには労力なんて惜しまないもの。
 姫様だって、騎士様が起きるまで毎日お見舞いに来てたでしょ?」
「え、だって、あ、あれは……」
「同じよ」

 焚き火の上に吊るされた鍋にはお湯がぐつぐつと煮えていた。
 シルヴィアはお湯の中に使い終わった道具を入れていく。

「気持ちが繋がるとね、自分が大切な人を思うように、大切な人は自分を思ってくれるの。
 姫様が好きって。

 わたしも好きよ、姫様のこと。
 大切な友だちだもの」

 突然、耳にクラウスの声が蘇えった。
 顔が真っ赤になるのがわかる。
 胸のところまで赤く染まるのが不思議なくらいわかった。



 遠き深き 緑の庭の
 称え敬え 庭の人の

 心映す水 湧き出る泉
 ひと掬いに飲み干して
 胸の願いよ湧き出でよ

 唱え賜え 心の奥の
 祈り賜え ひとつの願いを……


「……それは何の歌?」
「『庭の佳人に願い給う』って言ってね、牢獄に閉じ込められた樵が、森の精霊に祈る歌なの。

 森は生き物だから、勝手に木を切られたり、汚されたりすれば怒ってしまうの。
 だからね、森の精霊に、人が入り込んで悪さをしようとしたら、森が怒り出さないうちに人を追い出してほしいって言うの」

「樵の歌? 庭師じゃなくて?」
「そうよ。
 『庭』っていうけど、『森』を意味しているのよ。

 ほら、よく自分の庭のように歩くって言うじゃない?
 樵にとって森は、知り尽くした庭のようなものなのね」

「シルヴィアは、なんでも知っているんだな」
「あら。
 こんなことはフォスターのほうが得意よ」

 あのフォスターが歌?

「そうよ。
 とってもキレイな歌声なの」
 驚いたマリーナ初め周囲の人間をよそに、美しい声音が再び響いた。


 唱え賜え 心の奥の
 祈り賜え ひとつの願いを

 月の夜の 緑の庭の
 彼方の闇の 庭の人よ

 優しき風……


 ずっと、一緒です。

 僕はあなたのそばにいます。

 だから姫。
 どうぞ、泣かないでください。



 優しい彼はあの時、選んだのだろう。

 マリーナのそばにいることを。

 文家の出でありながらひとり騎士を目指し、生涯を主のそばで過ごすことを。
 たった十一歳の少年が、この先何十年という歳月の道を選んだ。

 それはどれだけの勇気が必要だっただろう。

(クラウスは、誰かに、支えてもらえたのだろうか……?)

 自国のためにと、支えられてやっと立ち上がったマリーナ。
 歩き出してもまだしばらくは足が震えて、力が入らなかった。



 祈り 届けと

 願い 叶えと───


 そばにいてほしいと何度も願った。

 それはマリーナ一人のわがままではなかっただろうか。
 そばにいてほしいとマリーナが思う前に、クラウスはそばにいたいと思ってくれているのだろうか。

「シルヴィア」
「なぁに?」
「好きな人はいるか?」
 ボトッ、と皮袋が落ちた。

 落としたのは医師の弟子だ。
 聞かれたシルヴィアは平然としている。

「どういう好きな人?」
「こ………………」
 ものすごい質問をしたことに気づいた。
 せめて人目を気にするべきだった。

 医師の弟子たちだけでなく、マリーナの護衛たちの視線が痛い。

「こ……心から、大切だと思うひと」
「……そうね。いるわ」
「その人に、そばにいてほしいか?」
「んー……。思わないわね」
「どうして?」

 やはりマリーナはわがままなのだろうか。

「うー……んっとね。
 上手くいえないけど、たとえば、その人が海が好きだとするわ。
 朝も夜もなく海にいるのが好きな人だったら、それでそばにいてほしいなんて言えないの。
 きっとわたし、海が好きなその人が好きだから。

 好きな人を想うことが恋なのよ」
 言ってから、シルヴィアは顔を赤くした。

 マリーナとかわらない歳だから恋のひとつもあるだろう。
 きっとマリーナとは違う恋の仕方をするのだ。
 マリーナならそばにいてほしいと思ってしまう。

「わたしはわがままだろうか?」
「好きな人のわがままって、かわいいものらしいわよ。
 騎士様は好きでわがままを聞いていると思うわ」
「そ、そうなのか?」

「聞いてみるのが一番よ。
 考えたってかからないものはわからないんだから」
 ね、とシルヴィアは笑った。



「シルヴィアはどんな人が好き?」
「そうねー。
 仕事熱心で、やさしい人がいいなぁ」

 なんとなくフォスターを思った。
 彼は態度と口は悪いが軍師として申し分ない頭脳を持ち、シルヴィアには無意識にか優しい。
 口調も柔らかいし、張り切る彼女を心配していた。

(好きなのかな、二人とも、お互いを……)
 気づいているのだろうか、それは。

 教えたい。
「シ、シルヴィア」
「なぁに?」

 マリーナはシルヴィアに近づき、耳元で囁いた。
「フォスターのこと、どう思っている? 好きか?」
 シルヴィアはきょとんとした。

「そりゃ、まぁ、好きよ。
 ……うん、好きね。
 それがどうかしたの?」

 マリーナのことが好き、と言った口調と同じだった。
 やはり気づいていないのだろうか、彼女は。

 教えたほうが良いのか考えあぐねていると、シルヴィアは何事もなかったかのように道具を片付けだす。
 洗って水気を拭き、薬箱に入れ直した。
 医師の弟子が礼を言って道具を持っていく。

「ね、姫様。
 家族って好きな人ばっかりじゃないのよね?」
「……そ、そう、だな」

 マリーナにとって唯一見覚えのある父は近寄りがたい人だった。
 クラウスとモーガン将軍にケガを負わせた男がマリーナの異母兄だと言われたが、はっきり言って初対面だったので恐ろしい暗殺者としか思えない。

「だったら姫様は、これから好きな人と家族になるかもしれないんだから、もっと甘えて良いんじゃない?
 血が繋がらないからこそ、別のところで繋がるべきよ」
「繋がる……?」

「見えるところで言ったら、手とか。
 見えないところだと心よね。

 姫様は、離れてても騎士様のこと好きでしょ?
 でもそばにいるなら、好きなだけじゃ物足りないものね。
 手をつないだりして安心したい気持ち、わたしもわかるわ。

 独りって、本当に寂しいもの。
 わたし、今の家族がなくなったら、きっと二度と立ち上がれないわ。
 ケンカだって、仲直りできるってわかってるからできるもの」

 海のそこのような濃い青色の瞳がマリーナをじっと見つめる。
 まるでそこに父なる海神が住まうような深さだった。

「だからわたし、フォスターが好きよ」

 聖女の騎士が天幕から出たのはそれから七日後のことだった。

「クラウス殿。
 もう良いのですか?」
「モーガン将軍」

 聞きつけて急いでいくと、聖女の騎士は前より白い顔をしていながらもしっかりと立っていた。
 神とシルヴィアに感謝した。

「ご心配をおかけしました」
「いや、こちらこそ、聖女どのを守るのに手一杯で」

 モーガン自身は左肩に少し傷を負ったくらいで、先日から習慣の素振りを開始していた。
 聖女に傷ひとつなかったとはいえその騎士を重傷人にしてしまったのだ。
 ここ数日は緊張に張り詰めていた。

「いいえ。
 やはりお礼を言うのはこちらです。
 姫をお守りくださり、感謝いたします」

 聖女の騎士と呼ばれ持て囃されているが、この青年はいつでも礼儀正しい。
 どこかの青年に見習わせたいとモーガン将軍は思っている。



「次の使者にはクラウス殿が赴かれるのでしたな」
「はい。
 軍の第二位同士の対面ということなので」
 聖女の騎士は恐縮して言った。
「本来ならば、将軍かローイング卿が適任なのですが……」

「いやいや。
 常に大将のそばに控えるものこそ適任です。
 クラウス殿以外おりません。
 陣営のことは我々にお任せください」

「ありがとうございます」
 若々しく精気に満ちた笑顔だった。
 エメール男爵家では唯一の武官だが、彼は選択を誤ってはいないようだ。

 文官などに収まる青年ではないし、第一もったいない。
 剣術はまだ上達の可能性もあり、なにより聖女が大きな信頼を……いや、好意を寄せている。



「つかぬ事をお聞きしますが……」
「何か?」
「将軍は、いつまでお独り身なのですか?」

 意表をつかれ、さすがの勇将も唸ざるをえなかった。

 幼い聖女を主家に渡した後、そうそうに遠い地に追いやられ、女性との縁がなかったのは確か。
 だが辺境に飛ばされ男所帯だったからというのは、大した言い訳にはならなかった。
 将軍職に就いて一体、いくつの見合いを勧められたことか。

 だが、それ以上に。

 美しい女性の絵姿を見て感心したことはあるが、今は亡き主を超えることはなかった。

 亡き主は美しい栗毛に黒々とした瞳、色気のない白い肌は真夏の雲のようだった。
 微笑むとふんわりと花が咲いたような気がしたものだ。

「む……ん。
 これは参りましたな」
 モーガンは頭をかいた。

「いえ、実は、初恋の君に手ひどく振られましてな。
 いまだ傷心中の身なのですよ。
 この齢になりますと、身を固めるのも難しくてですな……」

 なんてありきたりないい訳だろうか。
 自分の口下手さに嫌気が差した。



 きゃはは、と幼い笑い声がした。

 モーガンは周囲を見回し子どもの姿が見えないのを確認すると、それが幻聴だと知った。

 いや、古い記憶が蘇えったのだ。
 主の子を恐る恐る抱き上げた従士の必死な顔を見て、今にも咲き零れるような笑顔を見せた、青眼の赤子が。



「今はもう、彼女のお子の結婚に期待しております」