師匠はとても厳しい。
 導師の中でも一番といわれるほど厳しい。

 ごま塩頭に白いひげ。
 ふさふさの眉に鋭い眼光。
 年齢を感じさせない鋼の肉体。

 ただそこに立って、稽古に励む弟子たちの姿を見ているだけなのに、とても威圧的で緊張する。
 名前を呼ばれただけで首を掴まれたような錯覚さえする。

「イサ」
「はっ、はい!」

 すっぽーん

 驚いて、木刀が手から飛んでいった。
 木刀は見事な円を描き、演習場の端で休憩していた兄弟子の後頭部を直撃した。

「……あ」
「イサ、拾って来い」
「はい!」

 兄弟子に謝り(気絶していたが……)、木刀を片手に師匠のもとへ駆け寄る。

 師匠の前では緊張する。
 どんなときでも師匠の前では緊張せずにはいられない。
 緊張せずに師匠の前に立つなど、どんな業を使っても無理だろう。
 いや無理だ。

「イサ」
「はい、師匠!」
「中位試験を受けるか?」
「は?」
「受けるか?」
「はい、師匠!」
「そうか。特別に計画を組むぞ」
「はい、師匠!」

 勢いと反射で答えたが、彼が師匠の言葉を理解したのは、師匠の前から去ってしばらくしてからだった。
「……ちゅういしけん?」
「なんだイサ、試験受けるのか?」
 聞きとがめた兄弟弟子がいた。

「試験?」
「中位試験かぁ。おまえ、死ぬなよ」
「しぬ……?」
「師匠の特別計画って言ったら、きっびしいからなぁ……」
 そうか、自分は師匠のスペシャルメニューで中位試験に臨むのかと、彼はやっと理解した。

 理解した途端、冷や汗が出た。

 死ぬ。

 確実に死ぬ!

 今すぐ回れ右して前言撤回したかったが、背後には世界で一番厳しい師匠が立ちふさがっている。
 俺を超えて見せろ青二才! と彼を睨みつけているかもしれない。
 いや視線が合えば視線で殺される。

「がんばれよ」
「……う………………あ、あぁ」
 兄弟は慰めに肩を叩いてくれたが、なんの気休めにもならなかった。



 それから彼は地獄を見た。
 地獄とは地上にあるのだと、彼は同室の兄弟たちに毎晩漏らした。
 兄弟たちの聞いたなかで例をあげると、一番近い海岸まで走り、そのまま海を泳いで領地の端から端まで泳いだそうだ。

 領地といっても、大魔導師の治める土地は一国に匹敵する。
 迷子確実の森を走ってすぐさま海の端から地平線彼方の端まで泳ぐなど、自殺行為だった。

 だが師匠は、やれといった。
 師匠がやれといったからには、弟子はやるしかない。

 なぜなら師匠は、世界で一番厳しい師匠だから。



 彼は毎日、森を走り、海を泳いだ。
 まるで、ウサギになって魚になっているみたいだと泣いた。
 何があったが知らないがかわいそうにと兄弟は慰めてくれたが、彼はけっして理由は話さなかった。

 話せなかった。

 師匠の娘さんとお見合いをした挙げ句、付き合っているなんて。
 そして師匠は、意外と子煩悩だということを。
 身の安全を考えれば、言えるはずもなかった。





 若くして高位魔導士となった男がいる。
 美しい妻、かわいい子ども、三代の大魔導師に仕えた義父。そして彼は多くの兄弟と弟子に囲まれていた。

 弟子たちは、優しい師匠の師匠がとても厳しい人なので驚いていたが、実は師匠にはもっと驚く事実がある。
 それは、とても泳ぎが達者なのだ。
 魚も驚くほど器用に泳ぐので、弟子たちは師匠のことを『魚のイサ』と呼んでいた。

 だが、それを聞き咎めた師匠は、それだけはやめてくれと言った。
 ウサギも魚も嫌だと言って、師匠はしくしく泣き出した。
 弟子たちは驚いて謝罪した。

 美しい妻と可愛い子どもと素晴らしい義父を持つ師匠の身に、一体何があったというのか……。

 どういう理由かわからないが、優しい師匠を悲しませまいと、弟子たちの間ではウサギと魚の話は禁句となったという。





 将来、弟子の前でしくしく泣くことになる彼の帰宅を、兄弟たちが迎えた。
「おぉ、イサ。今日も無事だったか」
「……ぶっ…………」
「あー。しゃべりもできんなぁ」
 泳ぎすぎて顔を白くし、唇まで青くした姿を無事とはいえないが、生きて帰ったことに兄弟たちは喜んでくれた。

 そして彼は今夜もまた、涙ながらに厳しい訓練のあらましを語るのだった。

 聖女の騎士を見舞ってその天幕から出てきたところで、青年軍師に声をかけられた。
 話があるからと誘われ、陣営から少しだけ離れた場所まで二人は無言で歩いた。

「ロイズ家とのかかわりは何だ?」
「遠慮のないやつだ」
 時間がない、と青年軍師は切り捨てる。

「わたしは……聖女どののお母上の侍従をしていた」
 モーガンは正直に話した。

 あれはまだ一人前とはいえない成り立て騎士の頃。
 おまえの主が決まったぞ、と。
 突然、父より命を伝えられ、他国へ赴いた。



「グロバー国に?」
「そうだ。
 主家のロイズ子爵からの命で、姫から遅れること数年、グロバー国に入った」

「ウィリアム卿か……」
 青年軍師の呟きに、モーガンは驚きつつも苦笑した。
 一体、どこまで見通されているのだろう。

「目的は……」
「……そう、お子だ」
 二人は同時にため息をついたことに気づいて苦笑した。

「当時、グロバー国は大戦の最中だった。
 南北の国と小競り合いを繰り返し、兵力は徐々に南へ降りてきた。
 シュワルド国はまだそのとき平穏そのものだった。

 王は戦争などしたくなかった。
 ロイズ子爵は王に取り入りたかった───それが、姫のご婚約に繋がったのだ。
 婚姻によるつながりでもって友好関係を保ちたかったのだろう。

 しかし、先の大戦が終結し、グロバー国との友好条約の調印式でも、お子はまったく取り扱われなかった。
 わたしもそれは不思議に思ったのだが、何かまだわたしの知らない企みがあるのかと……」

「マリーナを連れて帰ったのはいつだ?」
「ちょうどシャーディ国が没した年だ。
 混乱に紛れて南下し、帰還してすぐにお子をロイズ子爵にお渡しした。
 あとは……お子がどうなったのか、わたしにはわからなかった。
 すぐに追い出されてな」

「あの指輪は?」
「指輪?」
「焼け跡から見つかったとかいう」
「……軍師どのは、目がいくつもおありのようだ。

 あれは、姫のお子にお渡しするはずのものだった。
 紐に通して首にかけておいたのだが、お子が嫌がるものだから、わたしがお預かりしていたのだ。
 お届けしたら急いで追い出され、その後の数年は辺境に飛ばされていて、ずっと渡しそびれていてな」

「ポルターとの接触はいつだ?」
「ひと月、ほど前だ」
「早いな」
 ふっと、モーガン将軍は笑った。
 これはさすがの軍師も気づいていなかったようだ。

「ポルター様から密通を持ちかけられ、主家の方に逆らうわけにもいかず、かといって聖女どのを裏切ることはできなかった。
 警告になればよいと思い、煤で汚し、クラウス殿にお渡しした」

「臆病者め」
 さくりと言い切られ、モーガン将軍は苦笑した。

 怒れるはずもなかった。
 主家も聖女も裏切れず、まさしく自分は臆病者だ。



「モーガン将軍。
 調印式のとき、マリーナが取り上げられなかった理由は、気づいているんじゃないのか?」
 モーガン将軍は目を丸くして青年軍師を見下ろした。

 彼は答えを聞かず背を向け、最後に一言投げて去った。
「それは評価する」

「…………」

 頭の切れる青年だとは理解していた。
 なかなか態度と口調が改まらないのが難点だが、軍師を務めるに充分な男だ。

 さらに、聖女の騎士を切り伏せようとしたポルターの剣を矢でもって阻み、間をおかずその首を射た腕前といい、戦力としても充分なものを持っているようだ。

 それでいて彼は特別な待遇は求めていない。
 惜しげもなく知識を使い、無駄なく兵士を動かし、草の上で休み、椀に口をつけて食事をする。

 なぜそこまで聖女に尽くすのかわからない。

 なぜたったあれだけの会話のなかから、幼かった聖女が政治の種に使われなかった理由がわかるというのか。

 たったひとつ。

 持たせなかっただけだ。

 聖女の父が誰であるのかの証拠を持たせなかっただけなのだ。
 紐を通して自分の首に掛け、誰の目にも触れぬようにと隠し続けた───家紋指輪。
 それがなかったがために、幼い赤子は庶子として扱われたのだ。



 去っていく背に、勇将と呼ばれた男は瞑目した。

 その少女は、唐突に現れた。

 兵士から報告を受けていたモーガンは、遠くから騒ぎの声が近づいてくるのに気づいた。

「何事だ?」
 周囲の部下よりも早く誰かが言った。
「馬が来ます!」

 見ると、人の声をかき分けて馬蹄の音が駆けて来るのがわかった。
 暴れ馬か。
 しかし目を凝らしても人垣で姿は見えず、騒ぐ声しか届かない。
 部下たちが右往左往する姿が映るばかり。

「誰か、網を……」
「お逃げください!」

 大きな黒い影が近づいてくるのが見えた。
 兵士たちが将軍を守ろうと背中を押す。
 さすがのモーガンも、六人もの男に押されては動かざるを得なかった。

 それでも止めなければと、網を掛けて馬を抑えるように指示を出そうとした。
「誰か乗っているぞ!」

「何? 乗っているのは誰だ?」
 目を凝らしてみれば確かに、暴れ馬はその背に人間を乗せていた。
 首に両腕を回してしがみついているが、今にも放り出されそうな細い腕。

「馬を止めろ!
 子どもが乗っている!」
 モーガンの叫びに六人の兵士たちも気づいた。
 だがこれまで何人もの味方を蹴飛ばしてきた暴れ馬に、六人だけで敵うはずがない。

「盾を持って取り囲め!」
「盾だ!」
「火を近づけるな!」
「迂闊に近づくな!」
「誰か盾を!」

 兵士たちが盾を持って右往左往している中に誰かが入り込んだ。
 モーガンは止めようと口を開いたが、その人物を見て声が出なかった。

 あろうことかその男は走る勢いを緩めもせず馬に接近し、その足の付け根を蹴って飛び乗った。
 子供の背後に腰を下ろす間もなく手綱を握り、力いっぱい手綱を引く。
「どう!」

 馬はその場で嘶きをあげ、二本足で立ち上がり抵抗した。
 男は子供の背に自分の体を押し付け、馬の背と挟み込んだ。

 ふんっ
 ぶふふんっ

 四本足を着けた馬は荒い鼻息とともに鼻水を飛ばし、足踏みした。
 ゆらゆらと揺れる尻尾が兵士の構える盾にあたる。

「…………」
「…………」
 ごとん、と盾の落ちる音がした。

 盾から顔を覗かせた兵士たちは同じように口を開け、同じように彼らを見ていた。
 モーガンは盾こそ持っていなかったが、兵士たちと同じ顔をしていた。

「良い子だ」
 男は馬の首を軽く叩いた。
 モーガンは彼を呼んだ。
「………………ぐんし、どの…………」

「モーガン将軍、ケガは?」
「ない、が」
「が?」
「そちらに、ケガ、は、ないのか?」
「ヴィア、ケガは?」
「うっ、うぅ、うむむう馬なんて!」
 馬にしがみついたまま子供───少女が叫んだ。

「だ、だ、だから馬はイヤだって言ったのに!」
「犬に乗ってく」
「イヤー!!」
 青年軍師の言葉を遮り少女が叫んだ。
 驚いて腰を抜かし、地面に座り込んだ兵士が三名。

「……ぐ、軍師どの、お知り合いか?」
「応援だ。
 ヴィア、掴まってろ」
「え? いやー!!」
 少女の叫び声だけを残して、青年軍師たちを乗せた馬は走り去った。

 慌ててモーガンは彼らを追って走った。



 追いついたとき、青年軍師のそばに少女はいなかった。
 聖女の騎士が運ばれた天幕の前で、おとなしくなった馬の手綱を兵士に渡す彼は一人だった。

「軍師どの、あの少女は誰だ?」
「応援だ。
 薬の調合ならできる」
「子どもだぞ?」
「腕は保証する。

 それより、何か変化はあったのか?」
「…………。
 静かなものだ」
「何よりだ。
 マリーは?」

「さきほどお目覚めになった。
 クラウス殿に会いたいと言われたのだが、今は無理だとわかると、ご自分の天幕で、人払いされてお一人だ」
「しばらくそっとしておこう」

「あの少女で大丈夫なのか?」
 モーガンは重ねて尋ねた。

 大切な騎士だ。
 聖女の支えなのだ。
 失うわけにはいかない。

 軍師は長い前髪をかき分けた。
 ひたいの左側から左耳に向かってうっすらと傷が見える。
 髪をかき分ける左手には大きな刺し傷。

「俺の顔をつなげ、手を蘇えらせた」

 そして彼はうなずいた。





 青年軍師の保証は成された。
 医師が騎士の背から矢尻を取り出し、少女が解毒剤を調合した。
 医師は少女の腕を褒め称えた。

 少女は笑いもせず、これからが長期戦だと厳しい声で言った。
 医師が傷の具合を話すあいだも少女は手を休めなかった。
 聖女の騎士の具合を確かめ、薬を調合し、汗を拭いた。



「名前は?」
 モーガンが隣に座って尋ねると、少女は隣に誰かが座ったことにも気づかなかったのか、驚いた顔で振り返った。

「名前? わたしはシルヴィア。
 ごめんなさい。
 まだ言ってなかったかしら」
 名乗る余裕もないほど聖女の騎士の容態は悪いのだろうか。

「わたしはモーガンだ」
「モーガン様ね」

「彼は助かるだろうか?」
「騎士様はまだは息をしているわ。
 息をしているってことは、生きたいって思ってるってことなの。
 だからわたし、諦めないわ」

 少女はモーガンを仰ぎ見た。
「あなたも、応援してあげてね」
 モーガンの腹までも背丈のない少女だ。
 けれどその瞳は頼もしい光を放っていた。



 そして。
 神のご加護か、医師と少女のおかげか定かではないが。
 聖女の騎士は命を取り留めた。