いつも世話を焼かれてばかりのマリーナは、その日だけは心配で手が落ち着かなかった。
 何か忘れものがないか、持っていたほうが良いものはないのか……。
 考えられるだけ考えても不安で、最後までそわそわとしていた。

 クラウスは主を安心させようと笑顔のまま、多くの仲間に見守られて出立した。
 護衛に騎士五人と兵士十五人、補佐に軍師をつけたたった二二名が何百という敵陣に向かった。

 生きて帰ってほしい───マリーナの心にはそれしかなかった。

 和平がどうということは二の次だったが、それを口にするほど愚か者でもない。
 ただただ彼らの無事を心の中で祈った。

「聖女どの、中にはいりましょう」
 使者たちが見えなくなってもマリーナは動こうとしなかった。
 見かねてモーガン将軍が声をかけた。

 はい、とマリーナはうなずいた。
 自分の立場はよくわかっていたから。

 天幕に下がると、モーガン将軍が自らお茶を淹れてくれた。
 マリーナは驚いて彼をまじまじと見つめてしまった。
「どうかなさいましたか?」
「あ……あの…………」

 机に置かれた茶器から良い香りがした。
「落ち着きますよ。
 お飲みください」

 そう言われて飲まないのは失礼だったので、マリーナは素直にお茶を口にした。
 細かく砕いた豆と乾燥させた葉っぱのお茶は香ばしく、口の中でほろ苦く広がった。
「おいしい」

「それは良かった。
 わたしはお茶をいれる以外、おもてなしができないものですから」
「いいえ、お上手です、本当に。
 クラウスが淹れてくれるよりも美味しいです」

 賛辞にモーガン将軍は頬を染めた。
「ありがとうございます。
 しかし、クラウス殿より上手いというのは秘密にしておきましょう。
 妬かれますからな」
 今度はマリーナが頬を赤くした。

「ク……クラウスたちは、いつごろ戻る予定でしたでしょうか?」
 話題を変えようと口にしたものさえ彼のことだった。
 マリーナの顔はますます赤くなるが、モーガン将軍はそれ以上からかったりしない。

「明日の夕方ごろになります。
 きっと良い返事ですよ」



 青年軍師の和平条件に賛同したのは、マリーナとクラウスの次にモーガン将軍だった。
 彼はまずローイング伯を説得して彼に頭脳派の貴族を、自分は騎士たちを説得した。

 マリーナたちがあれほど苦労したことを、モーガン将軍はあっさりとやってのけてくれた。
 あまりの速さにマリーナは、彼らの心変わりについていけなかったぐらいだ。

 高位指揮官としてローイング伯とモーガン将軍が上げられるが、モーガン将軍は領地すら失った子爵だ。
 それでも貴族への影響力は大きい。
 頭脳派のローイング伯、武力派のモーガン将軍と誰もが仰ぐ。

 どうしても、あの青年軍師は若すぎる。
 これまでの策が見事なのは認められても、若い者への反発があるのだろう。
 青年軍師の場合、口が災いするのも確かだ。
 それを補うのに、ローイング伯の老成した落ち着きと、モーガン将軍の成熟した逞しさがある。

 三人が並んでいると、似ていない親子三代がいるようだ。
 経験と、力と、若さと。
 まるで国一つを現しているかのようだ。



「モーガン将軍。
 将軍は、どうして武官に進まれたのですか?」
「わたしは武家の出身ですよ」
「クラウスは文家の出身です」
 なるほど、と将軍は苦笑する。

「わたしが生まれた当時は、戦の最中でした。
 聖女どのがお小さいころに終結した、“先の大戦”です。

 父は息子たち全員を戦場に送り出してでも国を守りたいと考えたのです。
 わたしには選択の余地はありませんでした」

 選択の余地はなかった───マリーナの胸にその言葉は響いた。

 遊び疲れて寝るだけの日々は終わり、口さがない侍女やその主について回らなければならなかった、王子の身代わり時代。
 それ以外、父という絶対的な人は許さなかった。

 右を選ぶも左を向くも、父の意向で決められた。
 最後にはその主である王に死を選択された。
 ほかに選択があることすら気づかせてはもらえなかった。

 誰が、教えてくれただろう。

 少女が───シルヴィアという迷子が、この命を惜しむといってくれた。
 あのときの気持ちは未だ胸の中を温めてくれる。



「戦場は怖くありませんか?
 ほかに何か、選びたいと思ったことはないのですか?」
「ありますよ」
「なぜお選びにならなかったのです?」

 ふふ、と将軍は笑った。
「出会ってしまったからです」
「……出会った?」

 将軍は大切なものをそっと見せるように言った。
「愛しいと思う人と出会ってしまったのです。

 彼女を守りたい、彼女を幸せにしたい。
 そのためには強い騎士にならなければならない、と……。
 結局、父の望む道を重なった。
 けれどわたしは、わたしの意思で剣の道を選んだのですよ、聖女どの」

 それはどんなに困難な道だったのだろう。

 守りたいと思い、そのために立ち上がるだけの勇気がどれほど必要かマリーナは知っていた。
 振り絞るためにクラウスに掴まり、彼に支えられてやっと立つことができたのだ。



「その人は、今……?」
 その言葉を口にしてマリーナは後悔した。
 モーガン将軍は悲しそうに苦笑した。

「今も変わらず、お慕いしております」

 将軍は遠い目をして言い継いだ。



 たとえ叶わぬ想いであろうと───





 ……湧き出る泉

 ひと掬いに飲み干して


 胸の願いよ湧き出でよ

 唱え賜え 心の……


「姫様?」
 歌声が途切れ、かわりに同じ声でマリーナは呼ばれた。

 再会してからというもの、そばにいる時間が長いのがクラウスの次に彼女だった。
 意識が戻らず蝋のように青ざめたクラウスにしがみついて離れないときは、いつも彼女が引き剥がしてくれた。

「どうしたの? ボーっとして。
 騎士様のこと、思ってたんでしょ」

 シルヴィアのからかいの言葉に、マリーナは真っ赤な顔で、誰も聞きはしなかっただろうかと見渡した。
 後ろに控える護衛は視線を逸らした。

「……な、何を、しているんだ?」
「薬草を練っているのよ。
 湿布にするの」

 周囲には薬草の苦い香りが漂っている。
 地面には焚き火といくつもの薬草、皮袋が置かれていた。
 医師の弟子が皮袋を箱に詰め込んでいる。

 医師はこの少女の腕前をいたく気に入り、知識を交換しあっていた。
 少女も新しい薬や調合に熱心になり、過ぎてスープが冷め切ったくらいだ。
 見かねたフォスターが食事のときは薬の話を禁止にした。

「手伝うことはある?」
「もうこれで終わり」

 鈍いてかりをもった練り薬を皮袋につめ、口を堅く縛ってしまう。
 これで五日は持つのだそうだ。



「すごいな、シルヴィアは。
 料理も薬も作れて」
「姫様は作ってくれる人がいるでしょ。
 姫様のために作ってあげたいって思う人がいるなら、ありがたく貰うべきよ」

「そうか? わたしは何も返してあげられない。
 貰うだけなんて、不公平じゃないか?」

 シルヴィアはクスクスと笑った。
 医師の弟子は目をまん丸にしていて、マリーナと目があうと慌てて逸らした。

「それ、本気で言ってるのよね、姫様」
「も、もちろんだ。
 ……おかしい?」

「おかしいわ。
 だって、誰だって、大切なもののためには労力なんて惜しまないもの。
 姫様だって、騎士様が起きるまで毎日お見舞いに来てたでしょ?」
「え、だって、あ、あれは……」
「同じよ」

 焚き火の上に吊るされた鍋にはお湯がぐつぐつと煮えていた。
 シルヴィアはお湯の中に使い終わった道具を入れていく。

「気持ちが繋がるとね、自分が大切な人を思うように、大切な人は自分を思ってくれるの。
 姫様が好きって。

 わたしも好きよ、姫様のこと。
 大切な友だちだもの」

 突然、耳にクラウスの声が蘇えった。
 顔が真っ赤になるのがわかる。
 胸のところまで赤く染まるのが不思議なくらいわかった。



 遠き深き 緑の庭の
 称え敬え 庭の人の

 心映す水 湧き出る泉
 ひと掬いに飲み干して
 胸の願いよ湧き出でよ

 唱え賜え 心の奥の
 祈り賜え ひとつの願いを……


「……それは何の歌?」
「『庭の佳人に願い給う』って言ってね、牢獄に閉じ込められた樵が、森の精霊に祈る歌なの。

 森は生き物だから、勝手に木を切られたり、汚されたりすれば怒ってしまうの。
 だからね、森の精霊に、人が入り込んで悪さをしようとしたら、森が怒り出さないうちに人を追い出してほしいって言うの」

「樵の歌? 庭師じゃなくて?」
「そうよ。
 『庭』っていうけど、『森』を意味しているのよ。

 ほら、よく自分の庭のように歩くって言うじゃない?
 樵にとって森は、知り尽くした庭のようなものなのね」

「シルヴィアは、なんでも知っているんだな」
「あら。
 こんなことはフォスターのほうが得意よ」

 あのフォスターが歌?

「そうよ。
 とってもキレイな歌声なの」
 驚いたマリーナ初め周囲の人間をよそに、美しい声音が再び響いた。


 唱え賜え 心の奥の
 祈り賜え ひとつの願いを

 月の夜の 緑の庭の
 彼方の闇の 庭の人よ

 優しき風……


 ずっと、一緒です。

 僕はあなたのそばにいます。

 だから姫。
 どうぞ、泣かないでください。



 優しい彼はあの時、選んだのだろう。

 マリーナのそばにいることを。

 文家の出でありながらひとり騎士を目指し、生涯を主のそばで過ごすことを。
 たった十一歳の少年が、この先何十年という歳月の道を選んだ。

 それはどれだけの勇気が必要だっただろう。

(クラウスは、誰かに、支えてもらえたのだろうか……?)

 自国のためにと、支えられてやっと立ち上がったマリーナ。
 歩き出してもまだしばらくは足が震えて、力が入らなかった。



 祈り 届けと

 願い 叶えと───


 そばにいてほしいと何度も願った。

 それはマリーナ一人のわがままではなかっただろうか。
 そばにいてほしいとマリーナが思う前に、クラウスはそばにいたいと思ってくれているのだろうか。

「シルヴィア」
「なぁに?」
「好きな人はいるか?」
 ボトッ、と皮袋が落ちた。

 落としたのは医師の弟子だ。
 聞かれたシルヴィアは平然としている。

「どういう好きな人?」
「こ………………」
 ものすごい質問をしたことに気づいた。
 せめて人目を気にするべきだった。

 医師の弟子たちだけでなく、マリーナの護衛たちの視線が痛い。

「こ……心から、大切だと思うひと」
「……そうね。いるわ」
「その人に、そばにいてほしいか?」
「んー……。思わないわね」
「どうして?」

 やはりマリーナはわがままなのだろうか。

「うー……んっとね。
 上手くいえないけど、たとえば、その人が海が好きだとするわ。
 朝も夜もなく海にいるのが好きな人だったら、それでそばにいてほしいなんて言えないの。
 きっとわたし、海が好きなその人が好きだから。

 好きな人を想うことが恋なのよ」
 言ってから、シルヴィアは顔を赤くした。

 マリーナとかわらない歳だから恋のひとつもあるだろう。
 きっとマリーナとは違う恋の仕方をするのだ。
 マリーナならそばにいてほしいと思ってしまう。

「わたしはわがままだろうか?」
「好きな人のわがままって、かわいいものらしいわよ。
 騎士様は好きでわがままを聞いていると思うわ」
「そ、そうなのか?」

「聞いてみるのが一番よ。
 考えたってかからないものはわからないんだから」
 ね、とシルヴィアは笑った。



「シルヴィアはどんな人が好き?」
「そうねー。
 仕事熱心で、やさしい人がいいなぁ」

 なんとなくフォスターを思った。
 彼は態度と口は悪いが軍師として申し分ない頭脳を持ち、シルヴィアには無意識にか優しい。
 口調も柔らかいし、張り切る彼女を心配していた。

(好きなのかな、二人とも、お互いを……)
 気づいているのだろうか、それは。

 教えたい。
「シ、シルヴィア」
「なぁに?」

 マリーナはシルヴィアに近づき、耳元で囁いた。
「フォスターのこと、どう思っている? 好きか?」
 シルヴィアはきょとんとした。

「そりゃ、まぁ、好きよ。
 ……うん、好きね。
 それがどうかしたの?」

 マリーナのことが好き、と言った口調と同じだった。
 やはり気づいていないのだろうか、彼女は。

 教えたほうが良いのか考えあぐねていると、シルヴィアは何事もなかったかのように道具を片付けだす。
 洗って水気を拭き、薬箱に入れ直した。
 医師の弟子が礼を言って道具を持っていく。

「ね、姫様。
 家族って好きな人ばっかりじゃないのよね?」
「……そ、そう、だな」

 マリーナにとって唯一見覚えのある父は近寄りがたい人だった。
 クラウスとモーガン将軍にケガを負わせた男がマリーナの異母兄だと言われたが、はっきり言って初対面だったので恐ろしい暗殺者としか思えない。

「だったら姫様は、これから好きな人と家族になるかもしれないんだから、もっと甘えて良いんじゃない?
 血が繋がらないからこそ、別のところで繋がるべきよ」
「繋がる……?」

「見えるところで言ったら、手とか。
 見えないところだと心よね。

 姫様は、離れてても騎士様のこと好きでしょ?
 でもそばにいるなら、好きなだけじゃ物足りないものね。
 手をつないだりして安心したい気持ち、わたしもわかるわ。

 独りって、本当に寂しいもの。
 わたし、今の家族がなくなったら、きっと二度と立ち上がれないわ。
 ケンカだって、仲直りできるってわかってるからできるもの」

 海のそこのような濃い青色の瞳がマリーナをじっと見つめる。
 まるでそこに父なる海神が住まうような深さだった。

「だからわたし、フォスターが好きよ」