雑音だろうか、というのがクラウスの最初の感想だった。
アインス国軍の参謀長だという男は、同語を使っているはと思えないくらいひどい言葉で話した。
休戦条約の詳細を読んでいるフォスターの声は唯一の安らぎだ。
この男で安心できるとは思いもよらなかったが、その朗々とした声は草原中に広がるほど良い音だった。
フォスターを連れてきてよかったと、しぶしぶ思う。
敵の参謀長はしかめっ面で聞いているようだが、目はフォスターから離れず、声を言葉として理解しているのかわからない。
彼は呆然としているようだ。
しかめっ面は地顔なのだろう。
確かにフォスターはきれいな顔をしているとは思うが、中身を知っているクラウスはわざわざ観賞しようとは思わない。
あれもこれも思い出して腹が立つだけだ。
見られているのに気づいていないのか、慣れたことなのか、青年軍師は淡々と読み進める。
一語一句はっきりと、大きな声で。
敵の参謀長の背後には敵陣が広がっている。
二二名の味方では抵抗する間もない戦力差だ。
もちろん、せめて両陣営の中心にするべきだとクラウスは反対したが、決定事項だといって聞かなかった。
確かに敵の参謀長の背後には敵陣があるが、ここは丘の上で、さらに敵の参謀長は通訳一人しか連れてきていない。
クラウスたちのすぐ後ろには二十名の護衛がいることを思えば、妥当と言ってやらなくもない。
心地良い風が後ろからそよいだ。
もうそんな季節かとクラウスは時の経つのを感じた。
敵陣ではどんな顔で風に運ばれる言葉に耳を傾けているのだろう。
「クラウス。
参謀長殿がいくつか質問をしたいそうだ」
「あぁ、かまわない。
どんなご質問でしょうか、と」
舌を噛みそうな口調で青年軍師が伝えると、敵の参謀長は鷹揚にうなずいて何か言った。
やはり同語とは思えない。
「『得た土地に住まうシュワルド人は、戦利品としていただいて良いのでしょうか』と」
クラウスは舌打ちしたい気分だった。
この会合が行われる前に散々青年軍師と話し合った問題だ。
同じ言葉を使っているらしいが習慣は異なる。
「それは戦において必定のこと。
ただし、奴隷制度の導入によって、シュワルド人が反乱を起こしたとしても、こちらとしましては対処しようもありません。
逃亡者は同国人として迎え入れるだけです」
「『失礼ながら、シュワルドの騎士殿。
そうは言われましても、領土が三分の一となった貴国へ、すべての逃亡者を受け入れる余地はあるのでしょうか?』と」
「ご心配には及びません。
我が友グロバー国より、援助の申し入れをいただいております。
休戦後、ただちに使者が参られる手はずにまで整っておりますので」
青年軍師が約した言葉を聞いて敵の参謀長の眉毛が動いた。
顔に飼っている毛虫が落ちかけそうになったのだといわれれば信じただろう。
心なしか、赤黒い顔に汗が滲み出ている。
「『グロバー国との締結はお済みで?』と」
「おかしなことをおっしゃられます。
両国は紙一枚のつながりなど必要とはしておりません。
我らには聖女がおりますゆえ」
「『聖女どのはグロバー国の方なのですかな?』と」
答えるのに一拍置いた。
演技ではない。
本音だ。
こんなことは信じられない。
「我らシュワルドの聖女は、先王弟、ウィンストン王公爵の姫君にあらせられる」
王家の血の効力がこれほどのものとは思わなかった。
クラウスにとって、身近な王族はあの逃亡した人間どもなのだ。
ありがたみもない。
行きは緊張に強張っていた肩が、帰りは肩当てがずれそうなくらい落ちていた。
護衛として同行してくれた仲間の騎士たちの心配げな視線を感じるが、空元気に笑ってやることもできない。
グロバー国王公爵ウィンストン家。
広大なグロバー国の南東一帯を領地とする、王族に連なる大貴族だ。
“王”とつくのがその証拠で、主筋である王家は公子の結婚相手をまずここから選ぶという。
クラウスの主マリーナの父は、ウィンストン王公ウィリアム。
先のグロバー国王の末弟で、現在のグロバー国王の伯父にあたり、つい先年、亡くなったという。
彼には表向き子どもがなかった。
マリーナが彼の実子だという証拠がなされれば、王公爵家はマリーナを主として迎えに来るだろう。
王族の血筋を守るために、ウィンストン王公爵家があるのだから。
その証拠が今、クラウスの手の中にある。
握りしめれば隠れてしまうくらい小さなものだ。
放り投げればあっという間に見失って、探し出すのに苦労するだろう。
小さな、指輪。
ウィンストン王公爵家の紋章の柵と、ロイズ子爵家の紋章の朝顔の蔓がひとつの家紋として施されている。
宝石のひとつもない家紋指輪だ。
「教えるかどうかは自由だ」
いつのまにかフォスターの馬がクラウスの馬に並んでいた。
下がらせたのか、護衛たちとの距離がある気がする。
「俺は預かっただけで、教える義務もない。
もちろん、おまえにも」
「ではなぜ利用した?」
フォスターは少しだけ沈黙した。
「義理、かな。
……賢明王の姉の願いだったんだ。
ウィリアム卿の子が見たい、と」
「<風見鶏の姫>が……?」
現グロバー国王の姉は、風を読む風見鶏のように、勝利を読む姫として知られている。
その異名が<風見鶏の姫>だ。
「王姉は子を産めない。
代わりに、慕っていた伯父の子が見たいと言っていたそうだ」
「……………………」
あまりにあっさりと言われたので、クラウスは抗議もできなかった。
姫とはいっても、賢明王とその姉は双子で、子がいてもよい歳である。
だが王姉は結婚すらしていない。
石女であるとか、愛人遊びをしているのだとか言われている。
跡取りを産めない姫君など用無しだというのは、たいていの国では同じ。
それがあの賢明王の姉だというのは悲劇だ。
いや、返って良かったのかもしれない。
大国の王姉の婚姻など争いの種を生みかねない。
「賢明王が多妻なのは、占領した国を抑えるためだということもある。
けど、本当は、姉のためなんだ」
「……〈風見鶏の姫〉、の?」
「彼女はたくさんの子どもに囲まれて暮らし、死ぬときは大家族に看取られて逝きたかったそうだ。
賢明王の親類は“先の大戦”中にほとんどが死亡し、近親者は賢明王とその姉と、弟の三人しか残っていない。
即位前後、頼れるのは姉弟のみ。
外戚も臣下も、戦で手柄を立てて名声と金を欲しがるばかりだったそうだ」
「だがなぜ、姉君の願いを王が叶えようとする?」
「十歳にもならない子どもが、首が折れそうに重い王冠をかぶっていたのに気づいたのは、姉だけだった」
金細工に大きな宝石を埋め込んだきらびやかな宝冠、王の象徴。
それは金と石の重み以上に重いものだっただろう。
「王ではなく一人の弟して思ってくれた姉の願いを、叶えたかったそうだ」
「………………」
賢明王は王となるとき、どんな気持ちだっただろう。
王座の座り心地は良かっただろうか。
豪華な革張りの椅子も沈みそうに厚い絨毯も。
昼間の太陽のように輝く蝋燭たちも。
磨きこまれた廊下も。
かしずく召し使いも満足のいくものだったのだろうか。
どんなに上等な生地の服だろうと、どんなにきれいな王冠や錫状だろうと、クラウスだったから家族か友人のそばが居心地良かったはずだ。
貴重な少年時代を、余計な重みで潰したくない。
「マリーには話さなくてもいい。
いらなければ、その指輪は王姉に渡そう。
せめて形見のひとつはほしいだろうから」
どうする、と濃い緑色の瞳が尋ねた。
すぐには返答しかねた。
これはクラウスのことではなく、結局マリーナの問題なのだ。
本人は今ここにはいないし、とてもよいことだと素直に喜べない。
わたしは、誰なんだろう───……
涙目が訴えかけた問いが耳の奥にこびり付いていて、何度も繰り返される。
王公爵家が迎えにくればマリーナはどうするのだろうか。
血の繋がったものたちを求めて行ってしまうのではないだろうか。
やっと安心できる場所が見つかったと言って。
迂闊に近寄ることもできなかった王子の身代わり時代がまた再現されるのだ。
クラウスは恐ろしくなって震えた。
「姫は……今、お辛いだろうか?
天幕での生活や、戦場が嫌だと思われることはないんだろうか?
きれいなドレスを着て、良いものを食べて、侍女たちにかしずかれたいと思われるだろうか?」
「それはまぁ、戦場が嫌だとは思っただろうな」
「…………」
青年軍師は少しも慰めてくれないようだ。
クラウスは落ち込んだ。
「でも、この道を選んだのはマリーだろう?」
「それは、そうだが……」
「安全な戦場なんてないんだから、おまえが守ってやれば良いじゃないか。
進む道に壁が立ちふさがるのは当然だ。
避けて通ったって、結局同じところに戻って来てしまう。
要は、いかにしてその壁を乗り越えるかなんだ。
乗り越えられる高さの壁なら、おまえが踏み台になるなりして登れば良いし。
延々と続くようなら壊してでも通ればいい。
やり方はたくさんある。
どんなに厚い壁だからって、越えられないことはないんだ。
その壁は結局、自分で造ったものなんだから」
「……自分で?」
何だそれは、とクラウスは聞こうとした。
それを青年軍師が手で制して止めた。
「なぁ、クラウス。
大切なもののためには、犠牲にだってなれるかもしれない。
自分を誰かが求め、頼ってくれるっていうのは嬉しいよな。
それは俺も、わかるよ。
でもな、生きていてこそできることのほうが多いんだ。
生きていなければ、守りたいものも守れない」
青年軍師は口元に笑みを浮かべて俯いた。
何が楽しいのかクラウスにはわからないが、視界の隅で何かが動いているのには気づいた。
「賢明王には姉弟だけだった。
そしてマリーナには、おまえが必要だ」
わかるな、と青年軍師が聞いた。
クラウスはうなずいた。
「おまえは、マリーナの騎士だ、クラウス」
はっとして声をあげようとするのと、背後でバチンと叩かれる音がしたのは同時だった。
青年軍師の右手はクラウスの乗る馬の尻を叩いて、片方の手で剣を抜いた。
驚いた馬が走り出した。
馬を止めた青年軍師との差が一気に開く。
馬は止まってくれない。
馬上から飛び降りそうになるクラウスを止めるかのように、同行して走る護衛たちが塞がった。
フォスターと数名の護衛たちとの差はどんどん開いていく。
激しく揺れる馬上から最後に見たものは、周囲を何者かに囲まれる仲間たちの姿だった。
「フォスター!」
アインス国軍の参謀長だという男は、同語を使っているはと思えないくらいひどい言葉で話した。
休戦条約の詳細を読んでいるフォスターの声は唯一の安らぎだ。
この男で安心できるとは思いもよらなかったが、その朗々とした声は草原中に広がるほど良い音だった。
フォスターを連れてきてよかったと、しぶしぶ思う。
敵の参謀長はしかめっ面で聞いているようだが、目はフォスターから離れず、声を言葉として理解しているのかわからない。
彼は呆然としているようだ。
しかめっ面は地顔なのだろう。
確かにフォスターはきれいな顔をしているとは思うが、中身を知っているクラウスはわざわざ観賞しようとは思わない。
あれもこれも思い出して腹が立つだけだ。
見られているのに気づいていないのか、慣れたことなのか、青年軍師は淡々と読み進める。
一語一句はっきりと、大きな声で。
敵の参謀長の背後には敵陣が広がっている。
二二名の味方では抵抗する間もない戦力差だ。
もちろん、せめて両陣営の中心にするべきだとクラウスは反対したが、決定事項だといって聞かなかった。
確かに敵の参謀長の背後には敵陣があるが、ここは丘の上で、さらに敵の参謀長は通訳一人しか連れてきていない。
クラウスたちのすぐ後ろには二十名の護衛がいることを思えば、妥当と言ってやらなくもない。
心地良い風が後ろからそよいだ。
もうそんな季節かとクラウスは時の経つのを感じた。
敵陣ではどんな顔で風に運ばれる言葉に耳を傾けているのだろう。
「クラウス。
参謀長殿がいくつか質問をしたいそうだ」
「あぁ、かまわない。
どんなご質問でしょうか、と」
舌を噛みそうな口調で青年軍師が伝えると、敵の参謀長は鷹揚にうなずいて何か言った。
やはり同語とは思えない。
「『得た土地に住まうシュワルド人は、戦利品としていただいて良いのでしょうか』と」
クラウスは舌打ちしたい気分だった。
この会合が行われる前に散々青年軍師と話し合った問題だ。
同じ言葉を使っているらしいが習慣は異なる。
「それは戦において必定のこと。
ただし、奴隷制度の導入によって、シュワルド人が反乱を起こしたとしても、こちらとしましては対処しようもありません。
逃亡者は同国人として迎え入れるだけです」
「『失礼ながら、シュワルドの騎士殿。
そうは言われましても、領土が三分の一となった貴国へ、すべての逃亡者を受け入れる余地はあるのでしょうか?』と」
「ご心配には及びません。
我が友グロバー国より、援助の申し入れをいただいております。
休戦後、ただちに使者が参られる手はずにまで整っておりますので」
青年軍師が約した言葉を聞いて敵の参謀長の眉毛が動いた。
顔に飼っている毛虫が落ちかけそうになったのだといわれれば信じただろう。
心なしか、赤黒い顔に汗が滲み出ている。
「『グロバー国との締結はお済みで?』と」
「おかしなことをおっしゃられます。
両国は紙一枚のつながりなど必要とはしておりません。
我らには聖女がおりますゆえ」
「『聖女どのはグロバー国の方なのですかな?』と」
答えるのに一拍置いた。
演技ではない。
本音だ。
こんなことは信じられない。
「我らシュワルドの聖女は、先王弟、ウィンストン王公爵の姫君にあらせられる」
王家の血の効力がこれほどのものとは思わなかった。
クラウスにとって、身近な王族はあの逃亡した人間どもなのだ。
ありがたみもない。
行きは緊張に強張っていた肩が、帰りは肩当てがずれそうなくらい落ちていた。
護衛として同行してくれた仲間の騎士たちの心配げな視線を感じるが、空元気に笑ってやることもできない。
グロバー国王公爵ウィンストン家。
広大なグロバー国の南東一帯を領地とする、王族に連なる大貴族だ。
“王”とつくのがその証拠で、主筋である王家は公子の結婚相手をまずここから選ぶという。
クラウスの主マリーナの父は、ウィンストン王公ウィリアム。
先のグロバー国王の末弟で、現在のグロバー国王の伯父にあたり、つい先年、亡くなったという。
彼には表向き子どもがなかった。
マリーナが彼の実子だという証拠がなされれば、王公爵家はマリーナを主として迎えに来るだろう。
王族の血筋を守るために、ウィンストン王公爵家があるのだから。
その証拠が今、クラウスの手の中にある。
握りしめれば隠れてしまうくらい小さなものだ。
放り投げればあっという間に見失って、探し出すのに苦労するだろう。
小さな、指輪。
ウィンストン王公爵家の紋章の柵と、ロイズ子爵家の紋章の朝顔の蔓がひとつの家紋として施されている。
宝石のひとつもない家紋指輪だ。
「教えるかどうかは自由だ」
いつのまにかフォスターの馬がクラウスの馬に並んでいた。
下がらせたのか、護衛たちとの距離がある気がする。
「俺は預かっただけで、教える義務もない。
もちろん、おまえにも」
「ではなぜ利用した?」
フォスターは少しだけ沈黙した。
「義理、かな。
……賢明王の姉の願いだったんだ。
ウィリアム卿の子が見たい、と」
「<風見鶏の姫>が……?」
現グロバー国王の姉は、風を読む風見鶏のように、勝利を読む姫として知られている。
その異名が<風見鶏の姫>だ。
「王姉は子を産めない。
代わりに、慕っていた伯父の子が見たいと言っていたそうだ」
「……………………」
あまりにあっさりと言われたので、クラウスは抗議もできなかった。
姫とはいっても、賢明王とその姉は双子で、子がいてもよい歳である。
だが王姉は結婚すらしていない。
石女であるとか、愛人遊びをしているのだとか言われている。
跡取りを産めない姫君など用無しだというのは、たいていの国では同じ。
それがあの賢明王の姉だというのは悲劇だ。
いや、返って良かったのかもしれない。
大国の王姉の婚姻など争いの種を生みかねない。
「賢明王が多妻なのは、占領した国を抑えるためだということもある。
けど、本当は、姉のためなんだ」
「……〈風見鶏の姫〉、の?」
「彼女はたくさんの子どもに囲まれて暮らし、死ぬときは大家族に看取られて逝きたかったそうだ。
賢明王の親類は“先の大戦”中にほとんどが死亡し、近親者は賢明王とその姉と、弟の三人しか残っていない。
即位前後、頼れるのは姉弟のみ。
外戚も臣下も、戦で手柄を立てて名声と金を欲しがるばかりだったそうだ」
「だがなぜ、姉君の願いを王が叶えようとする?」
「十歳にもならない子どもが、首が折れそうに重い王冠をかぶっていたのに気づいたのは、姉だけだった」
金細工に大きな宝石を埋め込んだきらびやかな宝冠、王の象徴。
それは金と石の重み以上に重いものだっただろう。
「王ではなく一人の弟して思ってくれた姉の願いを、叶えたかったそうだ」
「………………」
賢明王は王となるとき、どんな気持ちだっただろう。
王座の座り心地は良かっただろうか。
豪華な革張りの椅子も沈みそうに厚い絨毯も。
昼間の太陽のように輝く蝋燭たちも。
磨きこまれた廊下も。
かしずく召し使いも満足のいくものだったのだろうか。
どんなに上等な生地の服だろうと、どんなにきれいな王冠や錫状だろうと、クラウスだったから家族か友人のそばが居心地良かったはずだ。
貴重な少年時代を、余計な重みで潰したくない。
「マリーには話さなくてもいい。
いらなければ、その指輪は王姉に渡そう。
せめて形見のひとつはほしいだろうから」
どうする、と濃い緑色の瞳が尋ねた。
すぐには返答しかねた。
これはクラウスのことではなく、結局マリーナの問題なのだ。
本人は今ここにはいないし、とてもよいことだと素直に喜べない。
わたしは、誰なんだろう───……
涙目が訴えかけた問いが耳の奥にこびり付いていて、何度も繰り返される。
王公爵家が迎えにくればマリーナはどうするのだろうか。
血の繋がったものたちを求めて行ってしまうのではないだろうか。
やっと安心できる場所が見つかったと言って。
迂闊に近寄ることもできなかった王子の身代わり時代がまた再現されるのだ。
クラウスは恐ろしくなって震えた。
「姫は……今、お辛いだろうか?
天幕での生活や、戦場が嫌だと思われることはないんだろうか?
きれいなドレスを着て、良いものを食べて、侍女たちにかしずかれたいと思われるだろうか?」
「それはまぁ、戦場が嫌だとは思っただろうな」
「…………」
青年軍師は少しも慰めてくれないようだ。
クラウスは落ち込んだ。
「でも、この道を選んだのはマリーだろう?」
「それは、そうだが……」
「安全な戦場なんてないんだから、おまえが守ってやれば良いじゃないか。
進む道に壁が立ちふさがるのは当然だ。
避けて通ったって、結局同じところに戻って来てしまう。
要は、いかにしてその壁を乗り越えるかなんだ。
乗り越えられる高さの壁なら、おまえが踏み台になるなりして登れば良いし。
延々と続くようなら壊してでも通ればいい。
やり方はたくさんある。
どんなに厚い壁だからって、越えられないことはないんだ。
その壁は結局、自分で造ったものなんだから」
「……自分で?」
何だそれは、とクラウスは聞こうとした。
それを青年軍師が手で制して止めた。
「なぁ、クラウス。
大切なもののためには、犠牲にだってなれるかもしれない。
自分を誰かが求め、頼ってくれるっていうのは嬉しいよな。
それは俺も、わかるよ。
でもな、生きていてこそできることのほうが多いんだ。
生きていなければ、守りたいものも守れない」
青年軍師は口元に笑みを浮かべて俯いた。
何が楽しいのかクラウスにはわからないが、視界の隅で何かが動いているのには気づいた。
「賢明王には姉弟だけだった。
そしてマリーナには、おまえが必要だ」
わかるな、と青年軍師が聞いた。
クラウスはうなずいた。
「おまえは、マリーナの騎士だ、クラウス」
はっとして声をあげようとするのと、背後でバチンと叩かれる音がしたのは同時だった。
青年軍師の右手はクラウスの乗る馬の尻を叩いて、片方の手で剣を抜いた。
驚いた馬が走り出した。
馬を止めた青年軍師との差が一気に開く。
馬は止まってくれない。
馬上から飛び降りそうになるクラウスを止めるかのように、同行して走る護衛たちが塞がった。
フォスターと数名の護衛たちとの差はどんどん開いていく。
激しく揺れる馬上から最後に見たものは、周囲を何者かに囲まれる仲間たちの姿だった。
「フォスター!」