「すみません、踏み付けてしまって」
「いいえ」
 なんでもないわ、と少女は言ったが、白い紙にはヨウスの靴跡がくっきり残っている。

「気にしないで。
 表は何ともないわ」
 ヨウスの視線に気付いたのか、少女は顔を上げた。
「!」
 息を飲んだ。

 白い肌に厚い唇。
 小さな鼻に、少し上った目尻。
 緩かな波を打つ髪が輪郭をなぞる。

「ファっ……いや、あー、すみません」
 人違いだ。
 ヨウスはすぐにそう思った。
 自分が知る人物とは、髪と目の色が違う。
 ただ、容姿と雰囲気が似ているだけだ。

 少女が口元だけで笑った。
 瞳は冷たく、生気がない。
「誰かと似てたの?
 それなら、陛下とも似てるのね」
「いえ、あ…………陛下?」
 言われて、そういえばと思い出す。

 学舎の中央階段の踊り場に、大きな姿絵がある。
 王のいないラディンネル国で「陛下」といえば、その絵の人物。
 ウェデルク帝国ティアナスタ女皇帝。

 髪と目の色は違うが、確かに目の前の少女は女皇帝に似ている。
 年齢は違うが、女皇帝の少女時代とそっくりだ。

「どうしたの?」
「……失礼しました。
 俺の知る人とは似ても似つかないのに、見間違えました」
「そうなの?
 もっとかわいい子なのかしら」

 少女らしい笑み。
 先ほどとは違う優しい表情に、ヨウスは緊張を解いた。
「かわいいどころか、じゃじゃ馬です」
 声を殺して少女は笑った。



 少女と別れて振り返ると、背後にはいつの間にかルリがいた。
(いつの間に!?)
 ヨウスはのけ反った。

「ビックリした?」
「う、うん?」
 確かに驚いたが、ルリのことではないようだ。
「一昨年、陛下の絵が飾られてから、有名人なのよ」
 どうやら、先ほどの少女のことらしい。

「エザル子爵家のセーラアンナ様よ。
 一緒の授業を受けてるの」
 ルリは一層、声を潜める。
「近付かないほうがいいわ」
 ヨウスにも微かにしか聞き取れなかったが、ルリの緊張した様子ははっきりと感じた。

「なぜ、って聞いても大丈夫か?」
「んー……ここじゃマズイわ。
 移動しましょ」
 そういえばラングの姿がないが、聞かないことにした。
 きっと生きているはず。

 それぞれ適当な本を手にし、空いていた談話室に入る。
「一昨年前に絵が飾られて、学舎中が彼女のことを知ってから。
 彼女、婚約を破棄させられたの」
「…………」

「替わりに……ていうか、破棄させた人間が彼女と婚約したの。
 急に、ね」
「それは……女皇と似ているからか?」
「たぶん」

「彼女は?」
「ま、あの顔見て、喜んでるなんて思わないでしょ?」
「…………」

 お互い、視線は本にあった。
 だが内容など頭に入ってこない。
 目が字をなぞろうともしない。
 ただ、少女の冷めた瞳が忘れられなかった。

「クォーズ、関わっちゃダメよ?」
「…………」
「彼女の婚約者……。
 五大貴族の人だから」

 わかった、と言いながらヨウスは、ルリが手にしている料理の本に恐怖を覚えた。
 それから三人は、昼の授業を取りやめて、図書室内にある談話室に移動した。
 トルクの宿題を片付けようとしたのだが、なかなか進まない。

 試験が近いこともあって、トルクは焦っていた。
「ホラ、ここ前後がおかしいだろ?」
「えー!
 もういいじゃん!」
「もうっていうほど進んでもないだろ!」 ペチリと、ルフェラン先生の手がトルクの頭を叩く。

「また字が違う!」
「え~!」
「えーじゃない!」
「うー!」
「殴るぞ!」
「殴ってから言うなよ!」

 紙が勿体ないので黒板に下書きをしようとしたが、それすら終わらない。
 ヨウスも見兼ねて自分の黒板を貸したが、しばらく返ってきそうになかった。

 広くはない談話室に男三人。
 一人は怒られ一人は怒り。
 もう一人はそれを唖然と見ているしかない。
 ルフェランが嫌がったのも、頷ける光景だった。



「ヨウス、うるさいだろ?
 隣りに移ってもいいよ」
「あぁ、うん」
 ありがたくそうさせてもらうことにする。
 初めての試験が近いというのに、隣りで漫才をされたら集中できなかったから。



 トルクの嘆き声を背に、談話室を出る。
 途端、古い木と紙の匂いに包まれた。
 背の高い書棚が視界を覆い、整然と並べられた書物が待ち構えている。
 高所の窓から差し込む明かりは僅か。
 物々しささえ感じられた。

 やはり試験が近いせいか、いつもより人が多い。
 見知った顔もいくつかあった。
 真剣な眼差しに声はかけなかったが、向こうは気付いたようだ。

「……クォーズ?」
「進んでる?」
 彼は肩を竦めて見せた。
 確か、ラングという名前で、ティセットと同じ授業を受けていた。
「ぜんっぜん。
 算学はすらすらいったのになぁ」

 そういえば、とラングは周囲を見回す。
「あいつ、ルリと寄り戻したのか?」
「どうかな。
 ティスは何も言わなかったけど」
「ルリ、教養科いきだしたらしいぜ」
「教養科?」

「あいつ頭イイけど……」
 ラングは声をひそめる。
「料理は壊滅的」
「…………」
「ティスが死にかかっ、た……」

 言いかけて、ラングが硬直する。
 不思議に思ったヨウスが振り返ると、こめかみに青筋を立てたルリが立っていた。
 両手を腰に当た仁王立ちが似合うことこの上ない。

「あたしが、何かしら?」
 恐ろしい低音で周囲を凍りつかせたルリは、図書室内では騒げないと冷静に思ったらしく、ラングの襟元を掴んで歩き去った。
 ヨウスはただ、見送ってやることしかできなかった。
(壊滅的、ね……)



 しばらく本を探していると、足下でカサリと音がした。
 見てみると、何か紙切れを踏んでいた。
「あの、それ……」
 自分の足下から紙切れを取り上げ顔を上げたとき、少女に声をかけられた。

 視界の隅に映ったのは、白い制服。
 上等生だ。
「へー、兄ちゃん物知りだな」
「え、いやぁ、まぁ……」
 学舎に通えば自然と覚える国の成り立ち。
 あのトルクだって、知っていること。
 だが、そうでない人もいて、知っている自分たちのほうが少数なのだと知る。



「将来はあれかい?
 学舎のセンセーとかかい?」
「あ、い、いいえ、俺は……」
「ぶぁーか!
 学者さんがんなとこで酒注いでるか!」
「…………」

 痛い、と思った。
 過去を……それもつい最近の傷に触れられることの、なんて痛いことか。

 ふらりと足下が泳ぐ。

「ティース!」
「はいぃ!」
 厨房からの呼び声に、周囲の喧騒が耳に甦る。
 ニッチの親父さんの顔に安堵し、ティセットは二皿目の極盛パテスを取りにいった。
 
「二皿目、持ってきますね」
 背後でぎゃー、と叫び声が上った。



 まだしばらくは、傷が疼きそうだ。


   *  *


「で、どうだった?」
「…………」
 意地悪そうな顔で尋ねたのはルフェランだった。

 昨日、帝国大使にこってり怒られたトルクは、抜け殻のように萎んでいた。
 今朝帰って来たらしく、かなりの苦行だったのか、白い肌が青ざめている。
 対照的に、一時的に子守から解放されたルフェランは上機嫌だ。

「…………楽しんでるだろー」
「そんなことないって。
 説教だけで済んだんだから、良かったじゃないか!」
 はははははぁ、と笑いながら、ルフェランがトルクの背中を叩く。

 今にも草の上を転げ回りそうな勢いだ。

 毎日お説教する側にしてみたら、こんなに萎まれると気分がいい。
 これまでの苦労が報われるというものだ。

「なーんだよぅ。
 宿題まであるんだぜ!」
「宿題?」
「反省文書いて、実家に送れだってさ」

 ぷち、と草が抜かれた。
「…………」
「…………反省、ぶん?」

 穏やかな昼休み。
 いつもの木陰で食後の談笑。

 一人足りないことに慣れるのはいつだろう。
 ヨウスがぼんやりと考えていると、急にルフェランが倒れた。

「ラン?」
「…………サイテー」
「は?」
 草の上に倒れたルフェランはシクシクと泣き出した。
 その背中をトルクが蹴る。

「ラン……?」
 一人わからずにいるヨウス。
 トルクは子どものように頬を膨らませて押し黙った。

「語学の中級もとれてないヤツが、まともな文章なんて書けるわけないだろ?」
 嫌々ながら、ルフェランが答えた。
「だから、書くとき見ててやらないと、古代文字書きだすからな」

「古代文字はないだろ!」
「あぁそうだな。
 そっちのほうが難しいな」
「なんだとー!」
「ホントだろう?
 上級者用だぞ」

「古代文字……」
「何、興味ある?」
 ヨウスの呟きにルフェランが気付いた。
 子どものように喚くトルクの口を手で塞いでしまう。
「古語は文学上級と歴史の中級とらないといけないよ。
 授業は受けられるけどね」

 でも、とルフェランは眉を寄せる。
「授業も上等生ばっかりだから、一人じゃ行かないほうがいいよ」
 ヨウスの額に張り付いたままのかさぶたを見て言う。
 ヨウスも何となくわかって頷いた。