ポポドスが師匠の部屋を訪れたとき、師匠は逆立ちをしていた。
「師匠!」
 ポポドスは体を支える師匠の両手を足で払った。
「ぐごぉっ!」
 師匠は見事に頭から崩れた。

「なんだ!」
「ミマが倒れたって本当ですか?」
「あー……らしいな」
 床にあぐらをかいた師匠は暢気に頭をかいた。
「今朝、俺のところにも連絡があった。
 意識はあるが、一度総支部に運ばれた」

「……どうして…………」
「過労だろう。
 できのいいヤツほど使われるからな」
 師匠は舌打ちした。

「しばらくは養生できるように手続きを取った。
 ……ポポ」
「はい、師匠」
「見舞いに行ってやってくれ。
 ペイレウク大師の屋敷に搬送されているはずだ」
「はい。……わかりました」





 大師ペイレウクは治癒者のなかでもトップクラスの魔導士だ。
 長期の治療を必要とするものを自分の屋敷に引き取って看護している。

 屋敷の近くの町では施設を運営していて、孤児を引き取っている。
 その子たちが十歳ころになって魔導士になりたいといえば院に送り、そうでないものは生活していけるだけの技術を身に付けるまで施設にいることができる。
 慈悲深い人だ。



 これまで大ケガをしたことのないポポドスは初めて会うのだが、そのまえに屋敷に飲み込まれそうだ。
 これが個人の自宅だろうかというほどデカイ。

 町自体が荒野にぽつんとある。
 その町の端、少しはみ出したところにある屋敷を取り囲む石垣の高いこと。
 さらにそれを越す木々の多さ。

 外から見ただけでもどこかの貴族の別荘のように豪華で、玄関にたどり着くまでの庭の何と見事なことか。
 荒野から来た放浪者は天国と見間違うことだろう。

 噂では、大師ペイレウクは先代大魔導師の愛人で、このバカでかい屋敷も先代からの贈り物のひとつだという。
 確証は、本人も否定していないのでそうだろうと誰もが決め付けている。

 それも仕方のないことかもしれない。
 大師という肩書きに気負わず素顔をさらす大師ペイレウクは、その肩書きが信じられないくらい美人だった。
 こんな美人、女好きの先代でなくても手が出そうだ。

 よく焼けた小麦色の肌は少女のように張りつめ、薄いヴェールから透ける肢体の悩ましいこと。
 夜空を思わせるような瞳に見つめられれば、心臓が飛び出しそうだ。

「イグリス導師のポポドス。よく来ましたね」
 ふわりと笑うと花の蜜が香る。
「あなた兄弟は三階の一番東側にいるわ。
 顔を見せてあげて」
「は、はい」
 美しい大師の命令なら顔でも腹でも見せたい。



 ボーっとしながらミマの部屋に行く。
 扉を開ければまず、午後の暑い陽射しを遮るカーテンの踊る姿が目に入った。
 寝台を囲む戸張の向こうに、人の横たわる姿がぼんやりと見える。
「……ミマ?」

 返事はなかった。
 寝ているのかと思い、ポポドスは部屋に足を踏み入れる。
 戸張を少し避けてみれば、懐かしい兄弟弟子の横たわる姿があった。

 痩せた、と思う。
 顔色も冴えない。

「ミマ……?」
 もう一度呼びかけてみるが、やはり返事はない。
 久しぶりの安眠を妨げないようにと、ポポドスは部屋を出ようとした。

 その時、兄弟は起き上がった。
「ちくしょコノヤロー!!」
「……!?」
 あまりの威勢のよさに、ポポドスは驚きよろめいて椅子にぶつかり、躓いた。

 倒れた音に気づいてミマが振り返る。
「あ? ………………うん?」
 寝ぼけ眼をポポドスに視線を合わせようとする。
「……ポッピーが、見える」
「ポッピーっていうな!」
「マジもん?」
「ナマもんだ……って!」

 尻を打ってうめくポポドスを、ミマは指差して笑った。
「――それからトルクがティスに知らせに走って、僕だけ指導室の前で待ってね。
 しばらくしたら、侯爵家の執事と護衛が出て行ったんだ。
 本人は?」
 最後に尋ねられ、ヨウスは答える。
「……当たりどころが悪くて、寝込んでるそうだ」

「で、どうなったのか訊いたら、謝ったなんて言うし」
 やれやれ、とルフェランは首を振る。
「襲われて謝るヤツがいるか!」
「だから、逃げたんだ……殴って」

 揉めている内容はわかったが、ティセットにはまだ疑問がある。
「そこでどうして『脱げ』なんだよ?」
「あの変態は武科生だぞ?
 ヨウスが殴ったくらいで諦めるわけがない!」
 最後にトルクは貴族子弟らしからぬ一言を吐いた。

「シーラット家にたて突くわけじゃないけど、ホントのことを知りたいんだよ」
 言いつつ、ルフェランは口を小さくする。
「言いにくいだろうけど……」
「…………あ」

 襲われた、とティセットは聞いたが、どうやら中身が違ったようだ。
 窓枠に座って沈黙を守るヨウス。
 ティセットと視線があうと、躊躇うように俯く。

 最初に殴られたあとを見て、すっかり勘違いをしていたようだ。
 経緯のなかで、ランスが「押し倒されたか」と尋ねたと聞いたばかりなのに。
 しかも相手はあの、シーラット侯爵家のエンドリクス。
 男だろうと講師だろうと、見た目が良ければ手を出さないわけがない。

 ティセットたちは慣れてしまっていたが、ヨウスの顔は男女構わず目を引く。
 いや、たまに、この顔で女の子じゃないなんて詐欺だと思ってしまうくらいだ。
 噂になって西寮に呼ばれる可能性は充分にあった。



「ヨウス……言いにくいなら、言わなくていいからな」
 でも、とティセットは続けたが、なかなか言葉が出てこない。
 こんなことは滅多にないから、どうしていいのかわからない。

 押し倒されて、それから何があったのかなんて無知なことは言わない。
 だが、これからどう接していいのかわからない。

 逃げたことが本当で、何もなかったのならいい。
 その可能性が低いから、だから二人は、素直に言えと言っているのだ。

 これからのために。

 なのにヨウスは、
「……逃げたんだ……。
 途中で、殴って逃げた」
 三人の気遣いを撥ね除けるようなことを言う。
 心配が苛立ちに変わる。

「だったら、跡がないか確かめさせろ。
 何もなかったんなら、見せられるだろ?」
 だから脱げと、トルクはさっきから言っているのだ。

 ヨウスの視線は床から離れない。
 学舎の庭の石像のように固まってしまった。



「…………。
 今日は、引き上げようか」
 いつものように、ルフェランが沈黙を破った。
「ヨウスも疲れてるだろうし」
「イヤだ。
 今聞かないと今日寝れない」
 わがままを言ったのはトルクだ。

「こっちは心配して、ティスのとこまで走ったんだ」
 口を尖らせて、プイと顔を背けるトルク。
 その子どものような態度に、ルフェランもカチンと頭にきたようで、椅子から腰を浮かせる。

「お、おい」
 ティセットはおもわずトルクの肩を押さえ、立ち上がった。
 手の平をルフェランに見せて制止する。
「二人とも落ち着け!」
 二人は滅多に喧嘩しないが、するときはとことんする。
 そうなったら、ティセットにも止められない。

 救いの司祭宅で喧嘩なんて、学舎に知れたら二人は謹慎だ。
 目も当てられない。



「ティス」
 静かにヨウスが立ち上がった。
 溜め息を飲むような顔で。

「……ヨウス、今日は」
「脱ぐよ」
「え……?」
 ヨウスの視線は上らない。

「ただし、約束してほしい」
「……何だよ。
 脱いで見せるだけだ。
 減るものなんてない」
 ペシリ、とトルクの頭を叩いたティセットは、喉の渇きを覚えて唾を飲み込んだ。

「ヨウス……ムリ、しなくていいからな?」
 言いつつ、はっきりとは止めなかった。
 ティセット自身も気になっていて、すぐにでも知りたかった。
 はっきりしないまま帰ったら、本当に今日は眠れないだろう。

 シーラット家のエンドリクスは、男も寝室に連れ込むと噂にだけ聞いていた。
 本当かどうか、知りたい。



「約束してくれ。
 今から、一言もしゃべらないこと。
 確認が済んだら、出て行ってくれ」
 俯いたままのヨウスに向かって、三人は頷いた。

 上着の紐を解いて、裾を掴んだ手が一旦止まる。
「…………」
 俯いたまま三人の視線を受けて、何かを覚悟したようだ。

 窓を背に、首から上着を抜いた。
 院に戻ってきたポポドスを見て、師匠は太い腕で抱きついて喜んでくれた。
 骨の軋みが聞こえるくらい強く抱きしめられて、兄弟弟子たちが十数人も揃って助けれくれなければ粉々になっていたかもしれない。

 一度は辞めてしまった魔導士なので、また見習いからやり直しだ。
 兄弟子たちは記録更新にきたのかと笑ってくれた。
 涙が出そうだ。





「あー、師匠。
 西のルース導師ってご存知ですか?
 役士だそうですけど」
 早々に言いつけられた師匠の部屋の掃除をしながら、ポポドスは訊ねた。

「ルース役士?
 あぁ。もちろん、知ってるぞ」
 師匠はごみの山かと思えるなかから重要会議の書類を取り出した。
 机の引き出しの使い方ぐらい覚えてほしい。

「一時期は、あの南のアイザス役士と組んでいた方だ。
 今は二方とも指導に当たる立場でな、別々の支部にいらっしゃる」
 アイザス? あぁ、あのむっつりスケベね、とポポドスは心の中で思った。

 無口で無愛想で生真面目な叔父アイザスは父に似ている。
 父の従兄弟だといわれて、あぁなるほどそうだろうね、とうなずいたほどだ。
 それとくらべると、あのルース叔父は顔以外、似たところがない。

「それがどうかしたのか?」
「たまたまお会いしたので……」
「ほう。戻っていらしたのか。
 あの方はたしか、ミニア導師のお弟子だぞ」
「誰ですか?」
「知らんのか? 役士中の役士といわれた指揮官だ。
 これがまた美人でな」
 最後が重要だっただけのような気がして、その後の師匠の言葉は独り言として聞き流した。


   *   *


 ポポドスがその報せを聞くことができたのは、たまたま厨房にいたからだった。

 二十年近くも見習いをしていれば料理の腕も上がる。
 見習いたちにも上下関係が多少はあって、ポポドスは無駄にいる分ふんぞり返っていられる。
 たまに指示を出して切り盛りしていればすべてが片付く。

 ただし、仕切り人として注意しなければいけないことがある。
 何年見習いをやろうともまったく上達しないやつもいるのだ。
 ときどき見かける背の高いぼへーっとした男がいて、コイツが一番の要注意人物だ。
 側近の弟子だという噂だが、たぶんデマだろう。



 その日は、面倒臭い皮むきや腰の痛む水汲みは新入りに任せて、ポポドスは生みたての卵を割っていた。
 噂好きな修業生が、一緒に玉ねぎを剥いている仲間に新ネタを披露しているのが聞こえた。

「南で指揮官やってる役士がいてさ」
「ミマ役士だろ?」
「そうそう。美人の」
 ミマって美人なのか、とポポドスは初めて気づいた。

「指揮官ってほかのヤツより休み少ないじゃん?
 で、しかもミマ役士っていえば南じゃダントツの指揮官じゃん?」
「ザザーム先輩に聞かせるなよ、今の」
 そうかこいつら、あの追っかけザムの弟弟子たちか、と気づく。
 院の美人教師を追い掛け回して左遷されたのでそう呼ばれている。

「わかったわかった。
 でさ、最近、魔物が増えてて出動回数もスッゲ増えててさ……」
 声が小さくなった。
 ポポドスは思わず乗り出した。

「倒れたらしいぜ」

「え?」
 ぐしゃ。
「あ…………」
「あー……」
「……ありゃ?」
 ポポドスの手の中で、生卵が生のまま羽化していた。

「今のホントか?」
 ポポドスは生卵を手放して噂好きの修業生の肩を掴んだ。
 ぬちゃ、と音がしたが聞こえなかった。
「ま、マジです」

「いつ?」
「お、お、おれが聞いたの、今朝、です」
「誰から?」
「スドットってやつが……オレらの兄弟子なんですけど、な、仲間と、話してました」
「スドット……?」
 幾度となくポポドスの描いた魔方陣を消してくれたヤツだ。
 そうかおまえらあいつの弟弟子か……!

 腹いせというわけでもないが、ありがとな、といいつつポポドスは修業生の頭を撫でていった。
 生卵付きの手で。