『ごめんさい』
 子どもの泣き声がする。

『ごめんなさい。
 ごめん、い……』
 あれは自分の声だ。
 小さい頃。
 思い出を記憶にとどめておけるようになった頃。

『ごめんさい。
 ごめんなさ、い……』
 声が嗄れるほど謝った。
 父は何もいわず、ただ抱きとめて……

 ……辛かった。




「……花を…………。
 花を咲かせるだけで、どうなるんですか?」
「花のあとには実が生るだろう」
「実は、生りますか?」
「生るさ」
 ルースを振り返る。

 リーイ家には珍しい長身。
 黒髪に薄い青色の瞳。

 口元には確信の笑み。

 どこから来るのか、その自信は。
 羨ましくて、妬ましい。
 ほんの少し分けてほしいくらい、今のポポドスには自信がない。

「俺は…………」





 扉を叩くと、低い声が誰何した。
「……ポポドスです」
 少しして、入りなさい、と声が返る。

 執務室での父はいつも眉間に皺を寄せ、世界のすべてのことが難しいとでもいうような顔をしている。
 見ただけで嫌になるくらい悲痛だ。

「どうした?」
「親父は、どうして、魔導士になったんだ?」
 父は書類から顔をあげ、ポポドスを見てポカンと口を開けた。
 海水魚でこんな顔の魚がいたな、とポポドスは思った。

「リーイ家に生まれたから?」
「急に、どうした?」
「俺が聞いてんだけど?」
「…………」
 父は深刻そうな溜め息をついた。
 さっきまで見ていた書類を本に挿み、綴じる。

 壁の一面を覆い尽くす書棚。
 そのなかに、幼いポポドスが落書きした本がいくつあるだろう。

 絨毯の隅に、目を凝らせばなんとなく見えるくらいの染み。
 父の墨壷はポポドスのお気に入りで、よく持ち歩いては転んで墨を撒き散らした。

 机の端の細い切れ込みは、ポポドスが剣術を披露しているときに過ってつけてしまったものだ。
 剣も真っ二つに折れてしまい、折れた刃先は天井に刺さり、抜けずに大騒ぎした。



 父は小さく嘆息した。
「リーイ家の男が成すべきことは、魔導士となることではない。
 一族を守るためだ。

 一族を守ることは家族を守ることでもある。
 だからわたしは魔導士となった。
 魔導士であれば、里にいて守ることができる。
 妻と、七人の子どもたちを」

 父はいつもの真面目な顔だった。
 嘘をつくことと冗談を言うことが苦手で、頭が固くていつも悲しそうな顔をしている、見慣れた父の顔。
 ポポドスの記憶の中で、唯一の父親。



「…………。ありがとう。
 俺、戻るよ」
「なに?」
「院に戻る」
「──────」
 そうか、と父は呟いた。

「親父」
「なんだ?」
「あんまり難しい顔ばっかりするなよ」
「なに?」
「たまには、姉貴たちともメシ食えよ」
「……………………」

「次いつ戻るかわかんないけど……元気で」
「すぐに、行くのか?」
「そのほうがいい気がするんだ」
「……そうか。体には気をつけなさい」
「わかった。親父もな」

「ポポ……」
「なに?」
 父がほんの薄く笑う。
「任務が辛くないことはなかろうが、仲間とともにいられることを、感謝しなさい」

 首をかしげる息子を見て、父は珍しい笑い声をあげた。
「さぁ、行きなさい。
 日が暮れるまえに麓に着かなければならないのだろう」
「あ、あぁ、うん。じゃぁ…………」

 ポポドスは父の執務室を出て、扉のまえで首をかしげた。
 珍しい父の笑みは不気味だったが、怒られなかっただけいいかと完結させる。
「さってと。
 師匠になんて言い訳しようかなぁ……」



 ポポドスはほかに誰にも別れを告げず、里を後にした。
 朝も早く抜け出したものだから、知らずにいた姉たちが父親を責めたことを、ポポドスは知らなかった。
 村の外れに、新婚夫婦が住んでいる。

 夫は男前で、働き者だ。
 村の外れに住みたいと村長にあいさつに来たときも、村中の男たちで狩りに行くときも、いつもニコニコと笑っている。

 妻はかわいい。
 薄紅色のぷっくりした頬とおちょぼ口。
 白いエプロンをして家中をこまめに動き回り、庭の小さな畑で丹精した薬草は種類も豊富だ。

 親子ほど歳の離れた新婚夫婦は、近所付き合いも夫婦仲も円満の、村一番のおしどり夫婦と呼ばれるようになった。



 それはいいとして。

 少年は困っていた。
 こんなばあちゃん好きの優男に負けてなるものかと余計な意地を出して、獲物を追いかけ、森の深くに入り込んでしまった。

 目の前には大きな川。
 一方の横に壁、反対側に崖。
 そして後ろに、熊。

 追っていた獲物には逃げられ、追い込まれ、後ろに熊。
 最悪だ。



「こ…………怖くなんかねぇぞ」
 足は震えているけど、熊に言ってみた。
 通じるはずもないのに言ってみた。

「ぜ、ぜんぜんぜんぜんぜんこ、怖くねぇぞ」
 脂汗で背中がぐっしょり濡れていたが、熊に伝えてみた。

 熊は喉を鳴らした。
「お! オレうまくないぞ!」
 熊が首をかしげた。

「塩っからくて、食えたもんじゃねんだ!
 ハラ壊すぜ!」
 熊はうなずいた。

 熊と言葉が通じるなんて知らなかったと、少年は喜んだ。



 ぬか喜びだった。

 熊は大きな口を開けてよだれをたらし、咆哮した。
 太い手から伸びる爪が少年に向けられる。

 死ぬ。
 確実に食われる。
 美味しくいただかれる!

 少年は屈みこんで頭を抱えた。
「……!」

 がああああぁ

 痛みに吼えたのは少年ではなかった。
 いつまで経っても、少年には衝撃すらなかった。

 不思議に思って片目を開けてみると、熊は倒れていた。
 鋭い爪が少年のすぐ前にある。
 うつ伏せの熊の背に、突き刺さった矢が三本。
「ひっ……!」
 少年は尻餅をついた。

「ひっ、ひっっぃぃ……!」
 音にならない悲鳴を発し、必死に逃げようとする。腰が抜けて手が砂利をかく。
 その手の近くに足が踏み込む。
「ぎょえっ!」

 両手を上げて降参の意を示したが、よく見ればそれは人間の足だった。
 見上げてみると、おしどり夫婦の旦那がいた。
「無事か?」
「………………………………っ」

 涙が出そうだったが、歯を食いしばって堪えた。
 来年、一人前の男になる。いつまでも泣いちゃいけないよと母に毎日のように言われている。
 だから歯を食いしばった。

「ケガをしたのか?」
 少年があまりに強張った顔をするので、おしどり夫婦の旦那は膝をついて少年の顔を覗き込んだ。
 少年は歯を食いしばったまま首を横に振った。

「もう大丈夫だ」
 おしどり夫婦の旦那は笑った。
 少年の母とその友人たち、それから姉と姉の友人たちが騒ぎ出す笑顔だ。

 どこがいいのかわからない。
 こんなにやけた男のどこがいいのか。
 親子ほど歳の離れた妻がいて、いつもニコニコ笑っていて、弓矢の腕前は村長も驚くほどで、親方も気に入っていているけど、でもどこがいいのか少年にはわからない。

 だって、突然村の端に住みだして、礼儀正しくて男前で、よく気がついて親切で、猟に出ると必ず獲物をしとめるけれど、良くないところが一つだけある。

 少年の居場所を取ってしまった。

 少年はまだ一人前の男ではない。
 でも、弓矢は一人前に扱う。
 だから猟群の一番真ん中にならいてもいいと親方に許しを貰った。
 友人たちの賞賛と非難を一緒に浴びた。
 気持ちよかった。

 なのにそれは、瞬く間に終わった。
 猟群の真ん中にいても持たせてもらっていた弓矢は取り上げられ、荷物持ちになった。

 先頭の親方はいつも少年のことを気にかけてくれていたのに、今はもう、出発と帰ってからの二回だけになった。
 いつも親方は、このおしどり夫婦のにやけた旦那を横に置いていた。
 親方の視線を、少年から取り上げてしまった。





「立てるか?」
 おしどり夫婦の旦那が差し出した手を少年ははたいた。
「さ! さささささ触んな!」

「どうした?」
「た! たたた助けろなんて言ってねぇだろ!」
「……そうだな。悪かった。
 そのまま見ていればよかったか?」
「うっ……!」

「おまえの顔が爪で抉られて腹に噛みつかれ、内蔵を引きずり出されて、血のしたたる肉を食われて飲み込まれるさまを、見ていたほうがよかったか?」
「…………!」

 背中から冷たい汗が吹き出した。

 この男、ただの善人じゃない。
 死にかけた子どもにこんなことをいう大人が善人のはずがない。

「バ! ババァの皮むきやがったな!」
「……?」
「ちがう! 化けの皮ぬぎやがったな!
 親方の目はだませてもオレの目はだませねぇぞ!」
 ふーん、と男が笑った。

「素直にありがとうとは言えないのか?」
「言うもんか!」
 そうか、と男は言って、腰が抜けて立てない少年の腕を掴んで引き上げた。
 軽々と少年は引き上げられ、男の片腕だけで支えられて立った。

「この河は海に繋がっている。
 海は見たことがあるか?」
「…………ねぇよ」
 大河の流れは速い。
 手を入れただけで痛いくらいに早い。

「そうか。
 広いぞ。とても」
 男が少年に顔を近づける。
「見に行ってみないか?
 わたしが送ってやる」

 腕を掴む男の手に力が込められる。
 痛いくらいに指が食い込む。

 落とされる。
 このまま引きずられて大河に放り込まれる───少年は悟った。
 この男は本気だと。



「ご…………ごめんなさい」
「…………」
 男の目が大河に向く。

「あ……………………ありがとう」

 男は満足げに笑って、少年の腕を放した。
 全身に力の入らない少年は砂地に座り込んだ。

 汗が全身を流れる。
 震えが止まらない。

 男が少年の前に膝をつく。
「意地を持つことはいいことだ。
 だが、虚勢は身を滅ぼす」
 男の声はいつものように穏やかで優しい。

「それから、もう一つ。
 本当に強い男は、感謝を忘れてはいけない」

 少年はうなだれて、小さく「はい」と答えた。





 その村にはおしどり夫婦と呼ばれる男女がいる。
 どこから来たのか知らないが、人のよい夫婦は愛想も付き合いもよく、評判はいい。
 ただ、夫は男前で若く、妻はかわいいが老婆だった。

 不思議に思って村人(特に女たち)は、男前の夫に妻を選んだ理由を聞くのだが、その話題になると飛んでくる青年がいた。
『いいじゃんか!
 すすすす好きなんだからほっとけよ!』
 と言って去っていく。

 気を削がれた相手はまぁいいかと聞かずにおく。
 そのうち、誰もその話題に触れなくなった。

 そしていつまでも夫婦仲良く、若い友人と笑いながら暮らしましたとさ。






 のちに、男の妻の料理の美味さに感動するになる少年は、しぶしぶ男の後ろをついて行った。
 男が振り返らず、ポツリと呟く。
「合流するまで、涙は乾かしておけ」

 いらぬ気遣いだなんて、もう少年は言わなかった。
 実は、とルースの声が低くなる。
「わたしも息子も役士でな。
 おまえのことは息子から聞いたのだ」
 世間は狭い。
 嫌になるほどリーイ家は広がっているのだな、とポポドスは暗くなった。

「一足遅かったようだが、もう一度だけ、院に戻ってくれないか?」
「え?」
 そして、開花してほしい」
「……は?」
 意外な言葉にポポドスは叔父の顔をまじまじと見る。

「わたしたちは今、西の聖山脈から北の支部にいる。
 昔は皇帝の避暑地として栄えたが、今では衰退が激しい。
 特に……森林の伐採が深刻だ」
 ポポドスは自分の眉間に皺が寄るのがわかった。

「おまえも森林と聞けば思い出すだろう。
 東の大森林にある神殿を牛耳ろうと、心無い者が森を焼き払った。
 一部だけだったが、許されるはずがない。
 許すはずがない」

 痛みに泣き、怒りに叫んだ森の精霊たちはたちまち、その者たちを国ごと滅ぼした。
 ただ、自らを汚した者がいる国だからという理由で、一国が焼失した。

 それはまだ、そう遠い昔のことではない。
 その国は未だ、屋根も壁も繋ぎ合わせた布でできた家しかない。
 魔導士たちの救済の手すら、今も森に阻まれている。



「人々は寒さに凍えてしかたなく、木々を燃やしている。
 だが、行き過ぎればまた同じことが起きるだろう。

 かじかむ指先を温めるために木を切り倒し、森の精霊たちの制裁を受けるか。
 あるいは、指先が凍死するのを耐え、森の精霊たちの怒りを回避するか……」
 難しいところだ、とルースは呟く。

「…………それで、俺に何を……?」
「花を咲かせたいのだ」
「はな?」

「国の中央には街路樹が並べられている。
 花を咲かせなくなってずいぶん経つ。
 花が咲かないものだから、実も生らない。

「どうして花なんですか?」
「一本の木にひとつ花が咲き、実がひとつ生れば、一人の腹が膨れるだろう。
 今日死ぬ子どもが、明日までは生きられるかもしれない」
「…………」

 深刻なのは、ポポドスのいた砂漠だけではない。
 暑さに焼けつくものもいれば、寒さに凍りつくものもいる。
 水が飲みたいと天を仰ぐものもいれば、腹が空いたと泣くものもいる。

 月を見上げて今日を振り返るものもいれば、朝陽を臨むことはできるだろうかと泣くものもいる。

 夜には寝間着と温かいお茶が用意され、朝の洗顔には清潔な水が用意され、朝食は好みの物が出されることなど、少数の人間しか知ることができない。



「俺は……」
「開花しない───それが、魔導士を諦めた理由か?
 それとも……」
「無理です、俺には。
 召喚士としての素質が在るかもわからない」

 導師の肩書きを持つ者は皆、ポポドスに魔導士としての素質はあるといった。
 だが、どういう能力なのかは誰にもわからなかった。
 わからないものを放っておくことはできないが、開花もしない。
 だから封じた。

 両手首の黒い痣がその証拠だ。
 開花しない限り、生涯、戒められる。



「すぐにとは言わない。
 一度にではなくていい。
 一日一輪。
 一年に一本。
 咲かせることができれば、人の心もまた変わるかもしれないのだ。
 わたしたちは、それに賭けたい」
「………………」

 ルースは言わない。
 花は咲かず、実は生さず。
 水は濁り、土は痩せ。
 山は崩れ、国は乱れ。

 人の心も危ういのだと───口にするには現実に痛い。



「俺は……」
「第五位魔導士……。
 知識と、生命の助けとなることを誓わなければ、五位以上には上がれないはずだ」

 誓った。
 師に向かって、目の前に命があれば、それが果てるとわかっていても手を差し伸べると、誓った。

「俺は……」
「ポポドス。
 おまえの父は、おまえたちを置いて行ったかもしれない。
 だが、魔導士としてのおまえの父は、誓いに背かなかった」
「………………」

「彼は目の前で絶えようとしていた命に手を差し伸べたのだ。
 代わりにわが身が危険にさらされようとも。
 おまえたちを置いていこうとも。

 命がひとつ助かれば、また新たな命が生まれるかもしれないと、教わったからだ」

「──────……」
 ぐるりと、視界が回った。