村の外れに、新婚夫婦が住んでいる。

 夫は男前で、働き者だ。
 村の外れに住みたいと村長にあいさつに来たときも、村中の男たちで狩りに行くときも、いつもニコニコと笑っている。

 妻はかわいい。
 薄紅色のぷっくりした頬とおちょぼ口。
 白いエプロンをして家中をこまめに動き回り、庭の小さな畑で丹精した薬草は種類も豊富だ。

 親子ほど歳の離れた新婚夫婦は、近所付き合いも夫婦仲も円満の、村一番のおしどり夫婦と呼ばれるようになった。



 それはいいとして。

 少年は困っていた。
 こんなばあちゃん好きの優男に負けてなるものかと余計な意地を出して、獲物を追いかけ、森の深くに入り込んでしまった。

 目の前には大きな川。
 一方の横に壁、反対側に崖。
 そして後ろに、熊。

 追っていた獲物には逃げられ、追い込まれ、後ろに熊。
 最悪だ。



「こ…………怖くなんかねぇぞ」
 足は震えているけど、熊に言ってみた。
 通じるはずもないのに言ってみた。

「ぜ、ぜんぜんぜんぜんぜんこ、怖くねぇぞ」
 脂汗で背中がぐっしょり濡れていたが、熊に伝えてみた。

 熊は喉を鳴らした。
「お! オレうまくないぞ!」
 熊が首をかしげた。

「塩っからくて、食えたもんじゃねんだ!
 ハラ壊すぜ!」
 熊はうなずいた。

 熊と言葉が通じるなんて知らなかったと、少年は喜んだ。



 ぬか喜びだった。

 熊は大きな口を開けてよだれをたらし、咆哮した。
 太い手から伸びる爪が少年に向けられる。

 死ぬ。
 確実に食われる。
 美味しくいただかれる!

 少年は屈みこんで頭を抱えた。
「……!」

 がああああぁ

 痛みに吼えたのは少年ではなかった。
 いつまで経っても、少年には衝撃すらなかった。

 不思議に思って片目を開けてみると、熊は倒れていた。
 鋭い爪が少年のすぐ前にある。
 うつ伏せの熊の背に、突き刺さった矢が三本。
「ひっ……!」
 少年は尻餅をついた。

「ひっ、ひっっぃぃ……!」
 音にならない悲鳴を発し、必死に逃げようとする。腰が抜けて手が砂利をかく。
 その手の近くに足が踏み込む。
「ぎょえっ!」

 両手を上げて降参の意を示したが、よく見ればそれは人間の足だった。
 見上げてみると、おしどり夫婦の旦那がいた。
「無事か?」
「………………………………っ」

 涙が出そうだったが、歯を食いしばって堪えた。
 来年、一人前の男になる。いつまでも泣いちゃいけないよと母に毎日のように言われている。
 だから歯を食いしばった。

「ケガをしたのか?」
 少年があまりに強張った顔をするので、おしどり夫婦の旦那は膝をついて少年の顔を覗き込んだ。
 少年は歯を食いしばったまま首を横に振った。

「もう大丈夫だ」
 おしどり夫婦の旦那は笑った。
 少年の母とその友人たち、それから姉と姉の友人たちが騒ぎ出す笑顔だ。

 どこがいいのかわからない。
 こんなにやけた男のどこがいいのか。
 親子ほど歳の離れた妻がいて、いつもニコニコ笑っていて、弓矢の腕前は村長も驚くほどで、親方も気に入っていているけど、でもどこがいいのか少年にはわからない。

 だって、突然村の端に住みだして、礼儀正しくて男前で、よく気がついて親切で、猟に出ると必ず獲物をしとめるけれど、良くないところが一つだけある。

 少年の居場所を取ってしまった。

 少年はまだ一人前の男ではない。
 でも、弓矢は一人前に扱う。
 だから猟群の一番真ん中にならいてもいいと親方に許しを貰った。
 友人たちの賞賛と非難を一緒に浴びた。
 気持ちよかった。

 なのにそれは、瞬く間に終わった。
 猟群の真ん中にいても持たせてもらっていた弓矢は取り上げられ、荷物持ちになった。

 先頭の親方はいつも少年のことを気にかけてくれていたのに、今はもう、出発と帰ってからの二回だけになった。
 いつも親方は、このおしどり夫婦のにやけた旦那を横に置いていた。
 親方の視線を、少年から取り上げてしまった。





「立てるか?」
 おしどり夫婦の旦那が差し出した手を少年ははたいた。
「さ! さささささ触んな!」

「どうした?」
「た! たたた助けろなんて言ってねぇだろ!」
「……そうだな。悪かった。
 そのまま見ていればよかったか?」
「うっ……!」

「おまえの顔が爪で抉られて腹に噛みつかれ、内蔵を引きずり出されて、血のしたたる肉を食われて飲み込まれるさまを、見ていたほうがよかったか?」
「…………!」

 背中から冷たい汗が吹き出した。

 この男、ただの善人じゃない。
 死にかけた子どもにこんなことをいう大人が善人のはずがない。

「バ! ババァの皮むきやがったな!」
「……?」
「ちがう! 化けの皮ぬぎやがったな!
 親方の目はだませてもオレの目はだませねぇぞ!」
 ふーん、と男が笑った。

「素直にありがとうとは言えないのか?」
「言うもんか!」
 そうか、と男は言って、腰が抜けて立てない少年の腕を掴んで引き上げた。
 軽々と少年は引き上げられ、男の片腕だけで支えられて立った。

「この河は海に繋がっている。
 海は見たことがあるか?」
「…………ねぇよ」
 大河の流れは速い。
 手を入れただけで痛いくらいに早い。

「そうか。
 広いぞ。とても」
 男が少年に顔を近づける。
「見に行ってみないか?
 わたしが送ってやる」

 腕を掴む男の手に力が込められる。
 痛いくらいに指が食い込む。

 落とされる。
 このまま引きずられて大河に放り込まれる───少年は悟った。
 この男は本気だと。



「ご…………ごめんなさい」
「…………」
 男の目が大河に向く。

「あ……………………ありがとう」

 男は満足げに笑って、少年の腕を放した。
 全身に力の入らない少年は砂地に座り込んだ。

 汗が全身を流れる。
 震えが止まらない。

 男が少年の前に膝をつく。
「意地を持つことはいいことだ。
 だが、虚勢は身を滅ぼす」
 男の声はいつものように穏やかで優しい。

「それから、もう一つ。
 本当に強い男は、感謝を忘れてはいけない」

 少年はうなだれて、小さく「はい」と答えた。





 その村にはおしどり夫婦と呼ばれる男女がいる。
 どこから来たのか知らないが、人のよい夫婦は愛想も付き合いもよく、評判はいい。
 ただ、夫は男前で若く、妻はかわいいが老婆だった。

 不思議に思って村人(特に女たち)は、男前の夫に妻を選んだ理由を聞くのだが、その話題になると飛んでくる青年がいた。
『いいじゃんか!
 すすすす好きなんだからほっとけよ!』
 と言って去っていく。

 気を削がれた相手はまぁいいかと聞かずにおく。
 そのうち、誰もその話題に触れなくなった。

 そしていつまでも夫婦仲良く、若い友人と笑いながら暮らしましたとさ。






 のちに、男の妻の料理の美味さに感動するになる少年は、しぶしぶ男の後ろをついて行った。
 男が振り返らず、ポツリと呟く。
「合流するまで、涙は乾かしておけ」

 いらぬ気遣いだなんて、もう少年は言わなかった。