「なぜ……?」
 アルフレッドは知らずに呟いた。

「聖女さまははじめ、王にも見捨てられた土地に、どうして人々がとどまるのか、わからなかったそうです。

 軍師さまが、土地には人の手垢といっしょに思い出が染みこんでいて、それが肥料となり、たくさんのものを生みだすからだと、おっしゃったそうです。

 戦いの傷跡も、喜び踏みしめた足音も、すべて大地が肥料として吸いこむ。悲しくて流した涙も、怒りに怒鳴った声も。
 悲しいときに、心揺れるときに土に触れると、それまで吸いこんだ思いを生み返して、心を静める実をくれるのだそうです。



 人は生まれたとき、土守りとして生まれるのだそうです。
 人は土地を移るときもあるけれど、土地は人を選ばない。
 ただ、起こったことをすべて受け止めて、いつか人が忘れてしまうことも、すべて覚えていてくれます。

 その恩恵を生まれたときから、その親の親の、ずっと昔の親の代から知っている人々は、その土地と、染みこんだ思い出を愛しているのだそうです。
 愛した土地をほかの足に踏みにじられたくないのだそうです。

 だから人は、土地を守るのです。



 大叔父さまは、奥さまと暮らしたお庭をとてもお好きでした。
 ひとつの花に、ひとつの草に、お二人の思い出があるとお話してくださいました。

 もし、ほかの方があのお屋敷をいただいて、違うものにつくりかえてしまったら、きっと、大叔父さまは悲しまれます。
 思い出の染みこんだ土が、どこか遠くに行ってしまったら、叔父さまは……きっと、悲しまれます。
 だからわたしと、アンディさまと、で、ずっと……ずっと、おお……おじ…………っ。

 守ってゆきたいのですっ。大叔父さまが、大切、に、された庭、をっ。
 ふたりで……」

 青空から雨が一粒、落ちた。
 溢れ続ける雨はうつむいた視線の先に落ちていく。小さく細い指はワンピースを掴み、小さな肩が嗚咽に震えた。

 叔父の最期を看取ったのは、五番目の娘だった。



 もう泣かずにいい、とアルフレッドは言った。
「顔を上げろ、コレッタ」
 泣きはらした顔がゆっくりを上げられる。

「よかろう」
「おとうさま……」
「十六歳の成人を持って、おまえを王公爵に叙す。それまでアルフレッダ王女のもとで教育を受けろ」
 そのときにはもう、王公爵の意味はアルフレッドの手により変えられているだろう。
 ……ヤツの案で。



 娘の目からはまた一粒、ひときわ大きな涙が零れた。
 それまでだった。

 娘は大急ぎで立ち上がり、スカートの裾を直す。
 娘は目いっぱい引き絞った唇で笑って見せた。
「われらが賢明なる王のために」

 娘はもうひとつ付け加えた。
「愛するお父さまのために」



 今日の陽射しは暖かいく、いつもより眩しいとアルフレッドは思った。
 一つ目の国境を越えてすぐのことだった。
「盗賊?」
 アストは耳を疑った。

 ここは田舎だ。
 街道とは名ばかりの石畳の続く道の所々に村が転々とするだけの、静かで朴訥とした地方だ。
 金持ちといっても村長くらいで、その村長だって家が二階建てくらいの農民だ。
 そんな田舎の村に押しかけて、何が盗れるというのだろう。



「お気の毒に……」
 え、とアストは驚いて横を見た。
 横を歩いている少年の姿をした悪魔は、悲しそうな顔をしていた。それを見た村の女が頬を染める。

 女は、分かれ道からひょこりと現れ、大荷物を抱えてふー、ふーと息を荒くしていた。
 今はその荷物の大半をアストが持たされている。けっして進んで持ったわけではない。
 悪魔に囁かれたのだ。

「あなたのお母さまも、大きくなったあなたをああやって抱えていたのかもしれませんね」
 荷物を持ってやれと言わんばかりの笑顔だった。



 待ておばはん、そいつは悪魔だ、と忠告してやりたいのをアストは押さえた。
 あとで恐ろしい目にあうから。

 たとえば、家出した息子の消息を母に知らせようとしたり、それをネタに息子に無理やり嫌な仕事を受けさせたり、常にそれをちらつかせていじったり、人のパンとって食ったり……散々だ。



「それで、どれくらいの被害が?」
「あぁ、そりゃやっぱり、村長さんとこさ。牛が八頭も盗られちまった」
 そうだ、牛とか馬とか鶏とか大根とか靴下とか、盗れるものはそれくらいだろう。
「あと、娘さんがね……」
「え?」
 それは盗りすぎだろう、とさすがにアストも思った。

「家出したらしいよ」
「………………」
 便乗家出かよ。
 心配して損した。

「あとね」
 まだあるのかよ。
「奥さんが……」
「村長の嫁さんが……?」
「腰痛が取れたって」
 いいもん盗られてんじゃねぇか。

 アストは大したことはないと思って女の話をスルーしていたが、なぜか隣のやつが俯いた。
「? おい」

「お気の毒に……」
 待て! どこがだ!
 アストは声には出さずやつを睨んだ。

 やつは笑顔で見返してきた。
「……!」
 怖すぎる。

「アスト、村長さんにごあいさつに行きましょう」
「は?」
「一度に不幸なことが起こって、きっと気を落とされていることでしょう」
「え?」
「僕たちには何もできませんが、せめて励ましてあげましょう」
「………………………………」

 なんで? と言いたいのに声も出なかった。
 なぜならば、悪魔が目の前で微笑んでいるから。

「ね、アスト」
「………………………………」
「あなたも、離れて暮らすお母さまに不幸が重なったら、何を置いてでも駆けつけるでしょう?」
「!」

 アストは呆然とした。
 こんな田舎の泥道で大荷物を持たされて悪魔に脅されるなんて夢にも思わなかった。



 村に到着すると、女は礼を言って大荷物を抱えていた。
 アストは引きずられるようにして村長宅に着いた。

 村長は、腰痛の治った嫁さんと手をつないで出迎えてくれて、今朝方娘が帰ってきたと、犬を見せてくれた。
 娘って、犬かよ!

「よかったですね!」
 悪魔は大喜びしやがった。

 親切なんてしてられっか!
 イルスは慌てて手を放した。
 従妹の腕は赤く手形がついていた。
「……すまない」
「熱烈でいらっしゃること!」
 従妹はおかんむりだ。
 当然か。

「何なんですの、いったい?」
「話がある。昨夜のことだ」
「いま?」
 従妹は眉を寄せた。
「……閣下、わたくしからの手紙はご覧いただけたのかしら?」
「…………てがみ?」

 そういえば今朝、執事から手紙を一通、受け取ったような気がする。
 その前に従妹の突然の帰宅を聞いていて呆然とし、誰からの手紙なのか聞いたような聞かなかったような気がする。

「……君、から……?」
「そう。わたしからですわ!
 閣下。よくお聞きください。

 もうすぐ父の八二歳の誕生日ですの。
 わたしったらすっかり忘れていましたの。
 父は私のいない祝いの席など出ないと駄々をこねますので、急なことですけど帰らせていただきます。
 お返事はあとでお聞きしますわ。
 どうせあなたのことですから、お返事はもっともっともーっとあとになるのでしょうから、ちょうどよかったですわね!」

 という内容の手紙だったらしい。
 ちょうどよかったなんてどういうことだと問い詰めたいが、そんな立場に今はない。

「わ……悪かった。
 まだ読んでいなかった」
「お別れの手紙とでもお思いになられたのかしら、閣下ったら!」
 いいや手紙どころではなかったと言いたい。



「急用でしたらお聞きしますわ」
 従妹は両手を腰に当て、ふんぞり返った。
 対してイルスは広い背中を曲げる。
「昨夜の、返事をしたい」
「…………。どうぞ」
 一瞬まゆを吊り上げたが、従妹はどうやら耐えてくれた。

「君の申し出は受けられない」
「……………………」
 従妹の瞳が揺れる。
「改めて、わたしから君に言いたい」
 従妹の足元にひざまずき、小さな手を両手で包む。

 細い指だ。
 今にも折れてしまいそうなくらい。
 この指でイルスの家紋旗を作ってくれたのだ。
 今でもその旗は屋敷の玄関から入ってすぐ、控え室から扉一枚隔てた居間の、見上げた正面に飾られている。
 生涯それが、イルスの屋敷を飾る。



「結婚しよう、イザイェラ」



 従妹は黙って、子どものような瞳でうなずいた。