アルフレッドの足は自然と姉の元へ向かっていた。
 幼い頃は姉の庭の匂いが嫌いで、会いたいのに行くのが苦痛だった。いつのまにかそれも慣れてしまった。

 アルフレッドに付きまとう騎士は姉の屋敷の門で立ち止まる。ここからは不可侵の領域だ。
 王の憩いの庭は、正室であろうと許可なく立ち入ることはできない。

 忠実にも案内役を努めようとする執事を無視し、アルフレッドは庭に出る。
 花の門をくぐり、小さな橋を渡って木立の道を歩く。
 視界に、白い帽子が見えた。今日は木陰で読書のようだ。

 植木を回って姉の姿を視界に入れたアルフレッドは、余計なものを眼にして立ち止まった。
 大きな木の根元に腰掛けた姉。大きなつばの白い帽子と淡い色のワンピース。その足元に……いや足に、生き物が!!

「フォスター!!!!!!」

 ヤツはふてぶてしくもアルフレッドの姉の膝枕で昼寝をしていた!

「この亡霊!!」
「生きてるよ」
「昇天しろ貴様!!」
「だから生きてるって」
「わたしが祓ってやるぅ!!」

 怒りに興奮するアルフレッドを見て、姉はクスクスと笑い声を上げた。
「笑い事ではありません、姉上。なんですかこの生き物は! あろうことか姉上のひっ、ひざ、ひ、ひ、ひひひ……」
「おもしろい笑い声だな」
 姉の笑い声は大きく鳴る。
「……!」
 アルフレッドは悔しさと恥ずかしさで歯噛みした。



 お茶の一杯も飲むと、アルフレッドも多少は落ち着きを取り戻した。
 細い足の丸テーブルに三人。
 すぐそばに大きな木が立ち、枝葉を茂らせ木陰を作っている。午後の穏やかな風が心地良い。
 気分は最悪だが。

「それで、貴様はいつ甦った?」
「死んだなんていつ聞いたんだ?」
「つい先日だ! シュワルド国で貴様は死んだことになっているそうだ。知らんのか!?」
「知っている。でも死体は見つからなかったはずだ。
 おれは協議に補佐として行くとは言ったが、帰ってくるなんて言っていなかったんだ。だから戻らなかった。それだけだ」
 大事だ。屁理屈だ。大迷惑だ。

「しかも貴様、騎士ではなく軍師を務めていたそうだな」
 五番目の娘から聞いたときには、何の冗談かと思った。
「戦を途中で放りだす軍師がどこにいる!」
「ここ」
「……っ!」

 殴りたい。
 殴れるものなら殴りたい。
 しかしその顔は姉のお気に入りなのだ。



「大丈夫だ。後釜は育てておいた。
 マリーを主軸とする基礎まで造ったんだ。俺はもう必要ないだろう? いつまでも素性に知れない人間を置いておくと、余計な種火になる」
 自分で言うな。

(マリーだと? 馴れ馴れしく呼ぶな!)
 アルフレッドは賢明にも心の中だけで叫んだ。

 アルフレッドの命により、兵士たちは南の国境に並んだ。特に何をするわけでもなく、交代で見張りを立て、斥候を出し、休んだ。訓練のようなものだった。

 その間、いったい何があったというのか、侵略国アインスは休戦を言い出し、和平を結びたいと言って来たらしい。
 それがまた見事に早く。

 その和平の一回目の協議の帰り道、ヤツは死んだことになっている。
 アストは、とても幸せでなくていいから静かな人生を歩みたかった。

 家出をしてしまったものの、母のことが嫌いだったわけではない。苦手ではあったが。
 父は二度結婚し、両手の指で数えきれるかどうかぐらいの愛人を持ち、星の数ほど浮気をしたかもしれないが、死んだときくらい泣いてやってもいいと(迂闊にも)一瞬だけ思ったことがある。

 腹違いの長兄とはあまりあったことがないので良いとも悪いともいえないが、腹違いの次兄は歳が近くて遊んでもらったこともあった。
 同母の妹は目にねじ込まれてもかわいいと思っているが、愛人の子でありながら唯一認知された姉とはケンカばかりしていた。

 あのまま家にいればそれなりに穏やかな人生が歩めたかもしれないが、アストにはやはり耐えられなかった。



「どうしてですか?」
 丸い目をくりくりとさせて悪魔が尋ねた。
 自称二一歳の悪魔はくるみの練りこまれたパンに手を出した。
 悪魔の癖にパンが好きらしい。何度かアストの分にまで手を出しやがった。

「なんでって……」
 自称二一歳のパン好き悪魔は、同僚たちが女の子か男の子かと騒ぐくらい可愛い顔をし、どうみても十五・六歳くらいで、普段は礼儀正しくおとなしい子どもだ。
 そんな相手に、貴族といえど三男坊の行き着く先は種馬だなんて、言いにくい。

 アストが躊躇っていると、悪魔が口を開いた。
「アレイシア嬢は心優しい方ですよ」
「え……」
 アストは耳を疑った。なんか今、アストの婚約者の名前が聞こえた気がする。

「お母様似の愛らしいお顔に、犬や小鳥が好きな方で、馬丁と散歩をするのを日課とされています。
 将来はすばらしい貴婦人になられるでしょうね」

 将来はそうかもしれない。
 だが初めてあったとき、アストに向かって
『ワンワン?』
 と言い出して侍従に首輪を持ってこさせたのだ。
 あの六歳児め!

 ちなみにアストとは十四歳も離れていた。



「って、なんでおまえが知ってるんだ!」
「もちろん、調査済みだからです」
「調査? って俺のか?」
「そうです。坊っちゃんがあなたをぜひにと指名しましたが、あなたがどんな人なのか調べさせていただきました」

 悪魔はふっと笑った。
「素晴らしい経歴をお持ちですね」
 ゴクリ、とアストの喉が鳴る。

 十四歳も離れたガキに付き合ってられっかと別の女と付き合い、姉が家出を企んでいたのを見てみぬ振りをし、上官の枕もとに鼠の縫いぐるみを忍ばせ、兄貴の彼女にちょっかいをかけ、父の集めていた指輪を売り払った金で遊びまわっていたことなど……アストが酒の勢いで語らずとも知っていたのだろう。

 悪魔は酒を片手に微笑んでいる。
 その笑みの向こうの薄暗さに鳥肌が立った。



 二度と。
 二度と昔のことは口にすまいとアストは思った。

 それからイルスが宮廷に戻ったのは十日後のことだった。
 申し訳ありません、と頭を下げようとしたところで止められた。

「おめでとう」
「は?」
 主は怒るどころか薄く微笑んでさえいた。その隣の宰相はじめ護衛の騎士と書記官が手を叩いて涙を浮かべている。
「教育係殿から聞いた。婚約したそうだな。
 急なことで大変だっただろう。家族へのあいさつはもう済んだのか?」

 ご機嫌な主。
 めったに見られないものにイルスは目を丸くした。



 イスルが老人の部屋から飛び出してすぐに、老人が手を打ってくれていたらしい。
 おかげで婚約のことも宮廷に出入りする者すべてが知ることになった。
 どうりで今朝から向けられる視線が殺気立っていたのか……。
 失恋した乙女たちほど怖いものはないことを経験上身をもって知っているイルスは、しばらく護衛を増やすことにした。



「急なこととはいえ、申し訳ありませんでした」
「よい。祝い事に目くじらを立てることもない」
 主の言葉にうんうん、と宰相がうなずく。
「式の日取りは決まったのか? 陛下とわたしは出席できないが、祝いの品は贈らせてもらうぞ」
「は……はぁ……」
「どうした?」
 イルスの気のない返事。
「実は……」

 そのあとの言葉がなかなか出てこない。
 こんなことを口にすれば、たとえイルスであろうと首を切り落とされかねない。
 だが、言わなければ家に帰ることもできない。家には恐ろしい婚約者が待っているから。
 言わずに帰ろうものなら問答無用で剣の鍔が鳴る。

 どちらが恐ろしいか考えた。
 主に首を切り落とされる。
 婚約者が家の前で立ちふさがっている。

 ……………………。
 ……………………。
 言おう。
 うちの婚約者は今、母よりも恐ろしい。
 最強に。



「陛下、お願いがございます」
「うん? なんだ?」
「…………」
「どうした?」
 あぁ、笑顔が眩しい。
 少しは励まされたイルスは、腹を割った。
「どうぞ、お願いです。



 結婚してください」