アストは、とても幸せでなくていいから静かな人生を歩みたかった。

 家出をしてしまったものの、母のことが嫌いだったわけではない。苦手ではあったが。
 父は二度結婚し、両手の指で数えきれるかどうかぐらいの愛人を持ち、星の数ほど浮気をしたかもしれないが、死んだときくらい泣いてやってもいいと(迂闊にも)一瞬だけ思ったことがある。

 腹違いの長兄とはあまりあったことがないので良いとも悪いともいえないが、腹違いの次兄は歳が近くて遊んでもらったこともあった。
 同母の妹は目にねじ込まれてもかわいいと思っているが、愛人の子でありながら唯一認知された姉とはケンカばかりしていた。

 あのまま家にいればそれなりに穏やかな人生が歩めたかもしれないが、アストにはやはり耐えられなかった。



「どうしてですか?」
 丸い目をくりくりとさせて悪魔が尋ねた。
 自称二一歳の悪魔はくるみの練りこまれたパンに手を出した。
 悪魔の癖にパンが好きらしい。何度かアストの分にまで手を出しやがった。

「なんでって……」
 自称二一歳のパン好き悪魔は、同僚たちが女の子か男の子かと騒ぐくらい可愛い顔をし、どうみても十五・六歳くらいで、普段は礼儀正しくおとなしい子どもだ。
 そんな相手に、貴族といえど三男坊の行き着く先は種馬だなんて、言いにくい。

 アストが躊躇っていると、悪魔が口を開いた。
「アレイシア嬢は心優しい方ですよ」
「え……」
 アストは耳を疑った。なんか今、アストの婚約者の名前が聞こえた気がする。

「お母様似の愛らしいお顔に、犬や小鳥が好きな方で、馬丁と散歩をするのを日課とされています。
 将来はすばらしい貴婦人になられるでしょうね」

 将来はそうかもしれない。
 だが初めてあったとき、アストに向かって
『ワンワン?』
 と言い出して侍従に首輪を持ってこさせたのだ。
 あの六歳児め!

 ちなみにアストとは十四歳も離れていた。



「って、なんでおまえが知ってるんだ!」
「もちろん、調査済みだからです」
「調査? って俺のか?」
「そうです。坊っちゃんがあなたをぜひにと指名しましたが、あなたがどんな人なのか調べさせていただきました」

 悪魔はふっと笑った。
「素晴らしい経歴をお持ちですね」
 ゴクリ、とアストの喉が鳴る。

 十四歳も離れたガキに付き合ってられっかと別の女と付き合い、姉が家出を企んでいたのを見てみぬ振りをし、上官の枕もとに鼠の縫いぐるみを忍ばせ、兄貴の彼女にちょっかいをかけ、父の集めていた指輪を売り払った金で遊びまわっていたことなど……アストが酒の勢いで語らずとも知っていたのだろう。

 悪魔は酒を片手に微笑んでいる。
 その笑みの向こうの薄暗さに鳥肌が立った。



 二度と。
 二度と昔のことは口にすまいとアストは思った。