聖女は無事に和平を締結し、アインス国の姉国となった。
 何でも、属国として支配する気はなく、協力し合っていこうと言い出しのは聖女本人らしい。これに感激したアインス国王は、わざわざ聖女の居住まで足を運んで調印式に臨んだ。

 こうして大昔は婚姻関係にあった両国は、再び姉弟として結びついた。



 ヤツが話し終えると、姉は目元をハンカチで押さえた。
 アルフレッドは憮然とした。なんて甘い考えだろうかと……心配になった。
 なんと言っても叔父の子だ。心配もする。
 やはり会ってみたい。

 問題は、女王となった聖女とどうやって面会するかだ。王同士の出会いなど問題がありすぎる。
 アインス国のように何らかのつながりがあればともかく、現在はただ、協力してくれたような気がする国としてしか認識されていないだろう。この程度では何の材料にもならない。

「それで……」
 アルフレッドが頭を悩ませていると、そのつむじを見ていた(アルフレッドは気づいていなかった)ヤツは、手のひらに小さなものを乗せて見せた。
 あの家紋指輪である。

「マリーはいらないそうだ」
「何だと?」
「自分の家はシュワルド国にある、と」
「あぁ。マリーナ……」
 姉の目が潤んだ。
 血縁者を必要としないといわれたも同然だ。会いたいと願う二人には大きな衝撃だった。

 ヤツは姉の手に家紋指輪を握らせた。
「形見くらいにはなるだろう」
「フォスター……」
「諦めろ。マリーはもう、生きていく場所を決めた」

 家紋指輪を握りしめた手を姉は胸に抱きしめた。涙は出なかったが、その心中は悲しみと少しの喜びに満たされているだろう。
 血筋という重みを切り捨て、生きる道筋を見出したものへの、はなむけの言葉をつむいだだろう。



「その……おまえの後釜は、おまえが生きていることは知っているのか?」
「あぁ」
「そのものから、本当は何があったのか、訊いても構わないか?」
 ヤツは苦笑した。
「あいつが困らない程度になら」
「…………こ、困ることがあるのか?」
「国の対面を保つにはな」
「いったい何をしたんだ貴様は」

「マリーの手を少し引いただけだ」

 あまりに静かな声に、アルフレッドはヤツを凝視した。
 ヤツはそれ以上何も言おうとしなかった。ただ静かに、瞑想する姉を見つめる。



 穏やかな、深い森の色の瞳。夜の月明かりの下では獣のように金色に光る。

 その眼差しはいつも遠くを見ていた。
 アルフレッドに藁の服を押し付けたときも。戦場を見渡すときも。アルフレッドたちの兄の墓を見下ろすときも。窓の外の町並みに朝日が差し込むときも───まるでどこかに心をおいてきたかのように。
 その眼差しが今、姉にだけ注がれている。
 はぐれていた魂が肉体に帰ってきたかのように。

「フォス、ター……?」
 眼差しが振り返る。明るい月明かりの夜空のような色。
「どうした?」
「……何か、あったのか?」
 少しだけ目が見開かれる。困ったように苦笑する。

「ひとつ、終わったな」

 何が、とは聞かなかった。
 アルフレッドはゆっくりと頷いた。
 面倒臭がり屋というのはどこにでもいるものだ。
 こだわり過ぎて鬱陶しい人間というのもよくいる。
 わがままで手におえないやつなんて視界に入れたくもない。

 何の因果か、アストはそんなやつに捕まった。
 別に母に家出先をばらされそうになったからとか、それだけではないが、逃げるに逃げられない状況下にある。

 だって、相手は悪魔だから。
 イヤだといって逃げてもどこまでも追いかけられそうで怖い。



 面倒臭がり屋でこだわり過ぎる鬱陶しい我がまま坊っちゃんは、何を企んでか、アストに依頼をした。
『ジェロイ家が不正を繰り返して溜めこんだ財産の額』

 そんなことはお役人とか弁護士とかに頼めよといいたいが、調べていくうちにわかったことがある。
 表向き、ジェロイ氏は裕福で親切な富豪だ。町のお役人が口を揃えて、彼を褒め称える。
 弁護士の中には学生時代、やつに学費を援助してもらったことがある人間もいる。
 町の人間に聞いても、ジェロイ氏の悪口は出ない。ちょっと腹が出すぎてるというくらいだ。

 アストは唸った。
「どこらへんに貯めこんでるんだよ!」
「地下とか金庫などではないでしょうか」
「そのまえに、本当に不正してんのか?」
「それを調べるのがあなたのお仕事です」
「頭のほうはおまえが担当するって言っただろ?」
「言っただけです」
 なに、とアストは固まる。

 ふふん、と悪魔は笑った。
「言っただけで、本当にやるかはわかりませんよ」
「…………………………………………」
 ぎりぎりと、自分の歯軋りの音が聞こえた。



 自称二一歳の悪魔は、名前をレアフという。
 一見、かわいらしい面立ちの人間だ。礼儀正しく、親切で、いつも笑顔が絶えない。

 しかしアストは知っている。
 やつの腹の中はタコの墨より真っ黒であることを。
 人間の皮をかぶっているが、一枚剥ぎ取ればきっと悪魔が飛び出してくるだろう。



「依頼書をよく見てください。ジェロイ氏、とは書かれていません。ジェロイ家とあります。
 ご当主ではなく、ほかの親族を調べてみましょう」
「兄弟は?」
「妹さんが四人」
「子どもは?」
「息子さんが三人と、娘さんが八人」
 がんばったな、お父さん。嫁入り先を探すのはさぞ大変だろう。

「現在、いっしょに暮らしているのは二人の息子さんと、三人の娘さんです。
 ほかの方は結婚されて、ほかに家庭があるようです。家名がジェロイではないので、その方たちは省いてよいと思います」
 悪魔の手元には何の書類もない。頭で覚えているらしい。

「嫁さんは?」
「先年、亡くなっています。
 乗馬の最中に落馬して、打ち所が悪かったようです。事件の三日後に息を引き取られました」

 アストは眉を寄せた。
「事件? 事故じゃなく?」
「お付きの者が殺されていました。犯人は捕まっていません。
 地元の自警団始め、国からも調査隊が出されましたが、何の手がかりも見つからなかったそうです」

「…………。第一発見者は?」
「末の娘さんです。
 帰りが遅いので、ご長男と一緒に探しに行ったそうです。
 奥方は川のそばで、お付きの者四人は、川から少し森に入り込んだあたりで斬り殺されていました」
「……付き人は男か?」
「一人は女性です」
「付き人は最初から四人か?」
「五人です。
 一人は下流で発見されました。こちらも斬り傷がありましたので、逃げる際に川に落ちたものと思われます」

「荷物は?」
「金目のものはあらかたなくなっていました。
 ただ……」
「ただ?」
 悪魔が手をあごに添え、宙を睨んだ。
「奥方の結婚指輪が残っていました」

 アストはため息をついた。
「そんなもん、名前が彫られてるに決まってるだろ。一発でバレる」
「そのまま売らなくても、溶かして金塊にしてしまえばいい。事実、お付きの者で、既婚者の結婚指輪はすべてなくなっていました」
「…………。わざと、か?」
 悪魔がうなずいた。
「あるいは、盗れなかった」
「なんで?」
「ためらったから」
「なんで?」
「奥方をよく知るものであれば、奥方が結婚指輪をとても大事にしていたのを知っているでしょう。命も取って、大切な結婚指輪までも取り上げることができなかった……とか」

 悪魔の視線が窓の外に向いた。

 満月だ。
 黄色い月が空に浮かんでいる。そのあまりの明るさに星が見えない。
 ランプもつけない部屋を照らす月光に、悪魔の滑らかな頬が照らされる。薄曇りの空色の瞳が細くなる。



「レアフ?」
 アストの呼び声に、悪魔が振り返った。
 金を梳いたような髪がさらりと揺れる。
「………………」
「……どうした?」

 悪魔がふっと笑う。
 ドキリと、した。

「初めてですね」
「は?」
「僕の名前、初めて呼んでくれました」
「あ………………あぁ、なんだ。そうだっけ」

 泣いているような気がしたから、つい、口を出ただけだ。
 名前なんて呼ぼうが呼ぶまいが意識していなかったし、おい、おまえ、で済んでいた。
 たかが名前を呼んだだけで、こんなに喜ばれるとは思いもしなかった。

「よかった」
「なんだよ」
「僕ばかりアストと呼んでいて、不安だったんです」
「何が?」
「もしかして…………」
「な、なんだよ」
「もしかしてあなたは、僕が『あなた』と呼ぶので、僕の夫になったつもりなのかと思いました」

「…………………………………………………………は?」

 今、不思議な単語が出てきた。
 夫って、なに?
 誰が何の夫だと?

「だってほら、夫婦でいうと奥さんは旦那さんを『あなた』って呼んで、旦那さんは奥さんのことを『おまえ』と呼ぶでしょう?
 アストもそんな気になって、僕のことを『おまえ』としか呼ばないのかと、心配しちゃいました」

 なんて余計な心配だ!

「アホか!」
「照れなくてもいいんですよ」
「照れてない!」
「だってホラ、顔、赤いですよ」
「怒ってんだ!」
「図星で?」
「ちがう!」

 隣の壁がドンドンと鳴って、「うるせー!」と隣人が叫んだ。
 そうだ。ここは宿の一室だった。

「アスト、離れているからといって、婚約者のいる身で浮気はいけませんよ」
「してない!」
「え?」
「あ」
 してました。別の女と付き合ってました。

「ウソはいけませんね」
「……っ」
 殴って良いだろうか。



 この悪魔が泣くかもしれないなんて。
 そんなことあるわけがない。

 心配して損した。

「………………………………」
「………………………………」
「………………………………」
 ばたーん、と宰相が倒れた。続いて、留まりはしたが泡を吹いた書記官が倒れた。
 騎士たちは皆同様に口をあんぐりと開け、目玉が飛び出しそうにまぶたを開いている。

「…………………………おまえとか?」
「いいえチガイマス!!」

 イルスは慌てて言い直す。
「どうぞ陛下、お願いです。
 好い方を見つけてください。
 わたしの婚約者は、わたしが日がな一日陛下のことしか口にしないことを不安に思っております。
 陛下が好い方と結ばれ、陛下とわたしとの時間が少しだけでも短くなり、陛下とわたしとの距離が少しでも開くことを望んでいるのです。

 このような願いを口にすることは、それだけで不敬だとわかっております。わたし自らが自粛するべきことだとわかっております。
 ですが……ですが、どうぞ、お願いです!」

 静かで幸せな家庭を築かせてください!

「………………………………」
「………………………………」
「………………………………」
 せっかく起き上がった宰相がまたばたーんと倒れた。もう起き上がれそうにない。
 一人、騎士のあごが外れた。

「イルス」
「は、はい!」
「少しだけ、時間をくれるか?」
「へ?」
 主はイルスに背を向け、窓を向いた。
 表情が見えない。だから、平坦な声だけではその心情がわからなかった。
 ただ首を切られないのだと安心し、同時に、なぜか胸に引っ掛かりを覚えた。
 主の背中はとても寂しそうだった。



「どうしてわからないの?」
「君にはわかるのか?」
 当然よ、と婚約者はうなずく。

 夕食後に露台でお茶を飲むのが日課になっていた。朝の遅い婚約者と会うのが夜だけだからだ。
 仕事が終わればそうそうに帰り、会食もこのところ断っている。婚約したばかりだからといえば誰も不思議に思わない。

 一緒に夕食をとり、お茶を飲む。
 そのあいだにいろいろな会話をする。今日のこと、昔のこと、これからのこと。半分はまだ主のことだが、ずいぶん減ったように思う。

「わたしね、レセリアナ様とお昼の約束をしたことがあったの。
 レセリアナ様は剣術のお稽古をしていらしたわ。わたしは三階の席から観覧していたの。
 ちょうどそのとき、陛下が特別席にいらしたの。
 じっと見ていらしたわ。
 熱烈にね」
「ね、熱烈に?」
 あの無表情で無口な主が、熱烈!?

「たぶんレセリアナ様に好意をもたれてるわ。
 いいえきっと愛していらっしゃるはず!」

 女の勘とは恐ろしい。
 イルスは婚約者の熱意に蹴られないよう、否定しないでおいた。