兄と父と、母と従兄弟たちと、伯父と叔母たちを亡くし。
 姉弟だけで支えあおうと誓ったときから、幾月、幾年。

 生死に涙し、裏切りに歯噛みし、出会いに感謝した。
 子どもの成長には驚かされつつ、寂しさを覚えた。
 会えないかもしれない大切な人の子を思い。
 死んだと訊かされるたび甦られ、驚きつつも安堵した。

 いくつもの想い。たくさんの思い出。
 薄れかけたもの、鮮やかなもの。忘れたもの、これからできるもの───。



 アルフレッドは目を閉じた。
 取りとめもなく思い出せるものを思い描く。声がないもの、色がないもの、鮮明なもの。くだらないもの、大切なもの。
 たくさんの記憶がアルフレッドの中にある。

 そのほとんどが、生まれたこの国でのものだ。君主が守るべき土地から出ることは滅多にない。
 知らない国まで含まれる全世界から見れば、アルフレッドの生きてきた世界は小さすぎる。けれど記憶は、すべてを思い出すには多すぎるほどたくさんある。
 土地の広さではない。

 思いの深さで、記憶は増えつづける。



 まぶたを開ければ、姉の微笑む顔がある。
 目が合うと、姉は小さく頷いた。

 優しげな目元。艶やかな黒髪、青い瞳。丸いあごに小さな唇。
 微笑みは聖母に。笑い声は少女のように───いつまでも変わらない。



 遠くから足音が駆けてくる。
 茂みを鳴らし、青年が駆け込んできた。
「あぁ、姉上こちら……兄上! いらっしゃって……え?」
 末弟は、まん丸な目を大きく見開いた。
「フォスター! あなたか!?」

 末弟は大胆にも、ヤツに抱きついた。
「よかった! 生きていたんだな!?
 なんです、再会の茶会ですか? わたしも混ぜてください!」
 弟は大急ぎで取って返し、自分の分の椅子と茶器を自ら運んでくる。侍女にてきぱきと指示し、菓子まで用意させた。

「さぁ、乾杯しましょう」
 弟の音頭で、四人は茶器を手にした。



 西の空には食べごろの太陽がある。琥珀色の茶を金色に輝かせ、姉の涙の跡を隠した。
 アルフレッドと姉と末弟の指にある、揃いの細い指輪が夕日に輝く。
 それは誓いの指輪。生涯、共に支えあおうと、兄の大きな指輪を三つにした。

 ヤツの指には何もない。この土地で共に生きようと誓ったのは三人だけだから。
 ヤツの生きると決めた場所は他にあるのだろう。だからアルフレッドたちのもとを去り、叔父の子のもとを去った。
 生きる場所を持ちながら、風のようにさまよい歩く。西から吹けば西に、東から吹けば東に向く。
 風見鶏のように。

 この再会は風の賜物。
 果てしなく広がる世界の片隅で今日生まれた思い出。

「再会を祝して!」
 弟は茶器を高々と上げた。

 夕暮れの薔薇園で。
 再会をくれた風に、感謝しよう。

 今日という思い出を、心から祝した。





――完――

「なんじゃとー!!」
 見事な大音声。
 悪魔ですら怯えて逃げ出すだろう。

 しかし豪胆にもその人は逃げなかった。
 さすがは鉄の胃……もとい、鉄の心臓をお持ちのことだけはある。

 彼はただの傍観者であったが、会長の顔が真っ赤になり、こめかみに青筋が立ち、唇が震えだすまでを粒さに観察していたせいだろうか、迂闊にも大音声の打撃を受けた。
 鼓膜がはちきれそうだ。

「どうかお静まりください、会長。お体に触れます」
「貴様のせいじゃ!」

 ゼイ、はぁ、ぶふぅ、と会長は荒い息を繰り返す。
 お背中をさすって差し上げるべきか、彼には判断できない。
 いや、なるべくなら今の会長には近づきたくない。

 その後も会長からの叱責の言葉は続き、彼は胃の腑を冷やす思いだった。
 上司はまったく答えた様子はなかったが。





「しばらく荒れそうですね」
「そうだな」
 会長の執務室を出てすぐに深い息を吐く。やっと呼吸ができた。

 その人はすぐに歩き出した。
「またお出かけになられますか?」
 長身のその人に追いつくには小走りしなければならない。
 長い廊下が恨めしいくらいだ。
「いや、留守のあいだの仕事を片付けよう。
 書類は揃っているか?」

「はい。他所に回せる分は配分いたしました。
 あとは目を通していただくものと、考慮していただく分とに分け、さらに地区別に分けております。
 また急ぐ分は別に抜き出しておきました」
 うむ、とその人はうなずいた。

「いくつか招待状をいただいております。
 お戻りの予定がはっきりしませんでしたので、出席のお返事は改めておだしするようにご返答させていただきました。
 すでに期日の過ぎた分に関しましては、まだお戻りでないとのご連絡を差し上げました。
 残りの分はお身内様と御交友様、議会関係に分けております」

「薔薇の様子はどうだ?」
「蕾がいくつもつきました。数日中には咲きます」

 その人はうれしそうに、微かに笑んだ。
 家紋である薔薇のことはいつだってこの人の心の中を占めている。

 執務室に戻ると、その人はさっそく書類に取り掛かった。
 一心不乱。
 もう彼のことは物を運ぶ手足であり、質問に答える資料としか頭にない。





 庭師を呼んでくれ、とその人は言った。

 書類はあらかた片付いて、一休みにお茶を差し上げたときだった。
 まだ薔薇の様子もみていないのにどうしたものだろうか。

 はい、と答えつつも首をかしげていると、その人は微かに苦笑して机の引き出しから何かを取り出した。
 小さな、みすぼらしい小袋。
 その人の本来の持ち物でないことは明らかだ。

「種をいただいた。
 よい場所に植えさせてくれ」

 小袋を受け取ると、中でしゃらりと音がした。
「花の種ですか?」
「おそらくな」





 いつもの庭師を手配し、種を植えさせる。
 場所はその人が指定したところに。
 執務室から見える小さな庭の真ん中に。

 庭師は、何の種かもわからないものを植えるのは嫌そうだった。
 植える時期は種によって違うのだというが、植えろと言われたからには植えるしかなかった。

 咲くだろうか?
 それとも生るのだろうか?

 答えはしばらく後になるだろう。



 芽が出るのにひと月かかり、そのあいだ庭師は目が出ないのは自分のせいではないと文句を言っていた。
 別に誰も責めてはいないが、庭師という職業上、何の成果も出せないのは苦痛らしい。

 双葉が出るにはそれから十日ほどもかかった。
 庭師はそれこそのんびりしたやつだとぶつくさ言った。何の芽なのかは一向にわからない。



 毎朝その人は、種がどうなったのか訊ねる。
 自分では見に行かない。すぐそこだというのに窓から覗くこともしない。

 そんなに大切なものなら直接見に行けば良いのに。
 なんてことは、彼も言わない。

 彼の主人はとても頑固で、こうと決めたことは最後までやりとおしてしまう人なのだ。
 彼が何をどう言おうが、それが変わることはない。





 真紅。


 完熟の夕陽のような。
 開いたばかりの傷口のような。

 深い深い、紅。
 それはいつまでも眼の奥に残る。

 網膜を焼き尽くすような印象。


「バラ、ですか?」
 その人は慎重にうなずいた。
 その目元が少しだけ潤んでいるような気がして、そっと視線を逸らす。



 やきもきさせた種はとうとう花を咲かせた。
 見たこともないような真っ赤な薔薇。

 すぐに知らせ、なぜか見に行こうとしないその人の腕を掴んで無理やり連れ出した。

「女皇の薔薇だ」
 開口一番、その人は言った。

「え? あれは……絶滅したのではないのですか?」
「いいや。たしかに、最後の皇帝がすべてを焼き尽くすようにとお命じになったが、種は残っていた」
「種……が……」
 薔薇が種から咲くとは知らなかった。



「美しいな」
「はい」
 その人の頬は薔薇の色が写し取られたように高潮していた。

「知っているか」
「何をでしょうか?」
「他国に、この薔薇はまだ咲いているそうだ」
「え?」

 初耳だ。

「かの女皇御自らが、ご友人にお下しになったそうだ。
 同じ人を愛したもの同士、またその人を失ったもの同士。
 愛した人が愛でた薔薇を分け合ったそうだ。

 愛を得られなかったものと、愛を与えられたものが。
 約束を交わした証しに」

 だからな、とその人は続けて少し間を置いた。





 あの人はわたくしを見てはくださらなかった。
 あの人はわたくしの望む愛しかたをしてはくださらなかった。

 あの人はあなたを愛した。
 あの人はあなたを望み愛おしみになった。

 あの人はわたくしを愛してはくださらなかった。
 あの人はあなたを愛した。

 あの人に愛されたあなたが憎い。
 あの人が愛したあなたが愛しい。


 愛されたあなたが憎いから、わたくしの前には現れないで。

 愛されたあなたが愛しいから───……





「約束、というのだ、今はこの薔薇を」
「……約束、ですか?」
「愛すこと、愛されることを忘れないでいようと、互いに約束されたそうだ。

 後世では、誓いを立てたもの同士が贈りあいもした。
 また……」

 言葉は長く途切れた。

 万感の思いの沈黙。

 その人は深く息を吸いこんだ。



「二度と会わないものへ贈るのだそうだ」



 頬を流れるものが真紅の薔薇色を映しこんだ。
「でもレセリアナ様は、サース国のお姫様といえど愛妾の子。対して陛下は聖皇帝でいらっしゃるわ。
 本人たちがよくても、周りはそうはいかないでしょうね。陛下の正室の座を狙ってる子は大勢いるもの。他国からもね。

 陛下はそのあたりはおわかりでしょうし、自分から言えばレセリアナ様が断れないと思われているんじゃないかしら」
「なぜ?」
「聖皇帝から望まれるのよ? 断る理由がどこにあるの?」
 国の最高者の望みは命令に値する。あの主が、命令で人を縛り付けたいなどとは思わないだろう。
「…………なるほど」

「陛下の恋は前途多難よ。応援してあげてね!」
「…………。そうだな」
 イルスは明るい未来のためにうなずくしかなかった。



 主とレセリアナ。
 どうも結びつかない。

 考えれば考えるほど首を傾げすぎて、今朝から首が痛いイルスの手は、薔薇さえ傾けて活けた。
 慌てて直したが、今度は反対に傾いた。
「…………」
 これはこれでいいか、とそのままにする。

 イルスの結婚してください宣言から半月経つが、主に変化はない。相も変わらず山と詰まれた見合いの絵姿に頑として手をつけようとしない。
 宰相も懲りずに、どこからこれだけの女性を見つけてくるのだろうか。



「なぁ、じい。じいは、陛下のお若いころは知っているか?」
 正確な年を聞いたことはないが、老人は百の齢を超えているはずだ。
「お若いころですか。そうですな……」
 うーん、と老人は細い首をかしげる。
「物静かで、めったに声を荒げることのない方でした。
 剣術に優れておられましたが、のちのちは神官長でございましたので、当時の将軍は嘆いておられました」
「陛下は剣術に優れていらっしゃるのか?」
 初耳だ。
「えぇ、それはもう。陛下が聖剣を振るわれるお姿は、目を奪われるものでした」
 老人のうっとりとした表情に、見たことのないイルスは羨ましいと思った。

 現在、主は帯剣していない。式典など、特別なときを除いては。
 常に護衛の騎士がついている上に、聖皇帝の命を狙おうとする輩がいないからだ。
 百年前は皇帝であろうと神官であろうと帯剣していたというから、今がどれだけ平和な時代であるかがわかる。

「陛下の……亡くなった奥方様のことは、知っているか?」
「……そう、ですな…………」
 老人は深いため息をついた。
「慎ましい、方でした。お笑いになるとまだ少女のようで、ときおり、芯の強さが見られました」

「善い方だったか?」
「はい。陛下からの離縁のお話を、じっと耳を澄ませてお聞きだったそうです。
 陛下はそのころから、自分が年を取らなくなっていることにお気づきでした。それに悩んでおられることを、奥方様もご存知でした。

 子ができないからというのは、表向きの理由でございました。
 本当は、奥方様と年を重ねていくことができないことに、陛下は耐え切れなかったのでございましょう」

 そうか、としかイルスは言えなかった。

 主はこれからどれだけ生き続けるのかわからない。おそらく本人もわからない。
 長い長い時間のうち、ほんのひと時しか愛するものといられない。
 確かにそれは辛いだろう。
 けれど、だからといって、長い時間のすべてを一人で過ごすのは、あまりにも寂しすぎる。長すぎる生だからこそ、ほんのひと時でもいいから癒されたいと、イスルなら思う。

「…………。じい」
「はい、若」
「しばらく出かける」
「は?」
「留守は頼む」
「若?」
 目を丸くする老人をそのままに、イルスは部屋を出た。

「馬を引け!」
 慌ててついてくる護衛を振り切り、イルスは砂漠を目指した。