「なんじゃとー!!」
見事な大音声。
悪魔ですら怯えて逃げ出すだろう。
しかし豪胆にもその人は逃げなかった。
さすがは鉄の胃……もとい、鉄の心臓をお持ちのことだけはある。
彼はただの傍観者であったが、会長の顔が真っ赤になり、こめかみに青筋が立ち、唇が震えだすまでを粒さに観察していたせいだろうか、迂闊にも大音声の打撃を受けた。
鼓膜がはちきれそうだ。
「どうかお静まりください、会長。お体に触れます」
「貴様のせいじゃ!」
ゼイ、はぁ、ぶふぅ、と会長は荒い息を繰り返す。
お背中をさすって差し上げるべきか、彼には判断できない。
いや、なるべくなら今の会長には近づきたくない。
その後も会長からの叱責の言葉は続き、彼は胃の腑を冷やす思いだった。
上司はまったく答えた様子はなかったが。
「しばらく荒れそうですね」
「そうだな」
会長の執務室を出てすぐに深い息を吐く。やっと呼吸ができた。
その人はすぐに歩き出した。
「またお出かけになられますか?」
長身のその人に追いつくには小走りしなければならない。
長い廊下が恨めしいくらいだ。
「いや、留守のあいだの仕事を片付けよう。
書類は揃っているか?」
「はい。他所に回せる分は配分いたしました。
あとは目を通していただくものと、考慮していただく分とに分け、さらに地区別に分けております。
また急ぐ分は別に抜き出しておきました」
うむ、とその人はうなずいた。
「いくつか招待状をいただいております。
お戻りの予定がはっきりしませんでしたので、出席のお返事は改めておだしするようにご返答させていただきました。
すでに期日の過ぎた分に関しましては、まだお戻りでないとのご連絡を差し上げました。
残りの分はお身内様と御交友様、議会関係に分けております」
「薔薇の様子はどうだ?」
「蕾がいくつもつきました。数日中には咲きます」
その人はうれしそうに、微かに笑んだ。
家紋である薔薇のことはいつだってこの人の心の中を占めている。
執務室に戻ると、その人はさっそく書類に取り掛かった。
一心不乱。
もう彼のことは物を運ぶ手足であり、質問に答える資料としか頭にない。
庭師を呼んでくれ、とその人は言った。
書類はあらかた片付いて、一休みにお茶を差し上げたときだった。
まだ薔薇の様子もみていないのにどうしたものだろうか。
はい、と答えつつも首をかしげていると、その人は微かに苦笑して机の引き出しから何かを取り出した。
小さな、みすぼらしい小袋。
その人の本来の持ち物でないことは明らかだ。
「種をいただいた。
よい場所に植えさせてくれ」
小袋を受け取ると、中でしゃらりと音がした。
「花の種ですか?」
「おそらくな」
いつもの庭師を手配し、種を植えさせる。
場所はその人が指定したところに。
執務室から見える小さな庭の真ん中に。
庭師は、何の種かもわからないものを植えるのは嫌そうだった。
植える時期は種によって違うのだというが、植えろと言われたからには植えるしかなかった。
咲くだろうか?
それとも生るのだろうか?
答えはしばらく後になるだろう。
芽が出るのにひと月かかり、そのあいだ庭師は目が出ないのは自分のせいではないと文句を言っていた。
別に誰も責めてはいないが、庭師という職業上、何の成果も出せないのは苦痛らしい。
双葉が出るにはそれから十日ほどもかかった。
庭師はそれこそのんびりしたやつだとぶつくさ言った。何の芽なのかは一向にわからない。
毎朝その人は、種がどうなったのか訊ねる。
自分では見に行かない。すぐそこだというのに窓から覗くこともしない。
そんなに大切なものなら直接見に行けば良いのに。
なんてことは、彼も言わない。
彼の主人はとても頑固で、こうと決めたことは最後までやりとおしてしまう人なのだ。
彼が何をどう言おうが、それが変わることはない。
真紅。
完熟の夕陽のような。
開いたばかりの傷口のような。
深い深い、紅。
それはいつまでも眼の奥に残る。
網膜を焼き尽くすような印象。
「バラ、ですか?」
その人は慎重にうなずいた。
その目元が少しだけ潤んでいるような気がして、そっと視線を逸らす。
やきもきさせた種はとうとう花を咲かせた。
見たこともないような真っ赤な薔薇。
すぐに知らせ、なぜか見に行こうとしないその人の腕を掴んで無理やり連れ出した。
「女皇の薔薇だ」
開口一番、その人は言った。
「え? あれは……絶滅したのではないのですか?」
「いいや。たしかに、最後の皇帝がすべてを焼き尽くすようにとお命じになったが、種は残っていた」
「種……が……」
薔薇が種から咲くとは知らなかった。
「美しいな」
「はい」
その人の頬は薔薇の色が写し取られたように高潮していた。
「知っているか」
「何をでしょうか?」
「他国に、この薔薇はまだ咲いているそうだ」
「え?」
初耳だ。
「かの女皇御自らが、ご友人にお下しになったそうだ。
同じ人を愛したもの同士、またその人を失ったもの同士。
愛した人が愛でた薔薇を分け合ったそうだ。
愛を得られなかったものと、愛を与えられたものが。
約束を交わした証しに」
だからな、とその人は続けて少し間を置いた。
あの人はわたくしを見てはくださらなかった。
あの人はわたくしの望む愛しかたをしてはくださらなかった。
あの人はあなたを愛した。
あの人はあなたを望み愛おしみになった。
あの人はわたくしを愛してはくださらなかった。
あの人はあなたを愛した。
あの人に愛されたあなたが憎い。
あの人が愛したあなたが愛しい。
愛されたあなたが憎いから、わたくしの前には現れないで。
愛されたあなたが愛しいから───……
「約束、というのだ、今はこの薔薇を」
「……約束、ですか?」
「愛すこと、愛されることを忘れないでいようと、互いに約束されたそうだ。
後世では、誓いを立てたもの同士が贈りあいもした。
また……」
言葉は長く途切れた。
万感の思いの沈黙。
その人は深く息を吸いこんだ。
「二度と会わないものへ贈るのだそうだ」
頬を流れるものが真紅の薔薇色を映しこんだ。
見事な大音声。
悪魔ですら怯えて逃げ出すだろう。
しかし豪胆にもその人は逃げなかった。
さすがは鉄の胃……もとい、鉄の心臓をお持ちのことだけはある。
彼はただの傍観者であったが、会長の顔が真っ赤になり、こめかみに青筋が立ち、唇が震えだすまでを粒さに観察していたせいだろうか、迂闊にも大音声の打撃を受けた。
鼓膜がはちきれそうだ。
「どうかお静まりください、会長。お体に触れます」
「貴様のせいじゃ!」
ゼイ、はぁ、ぶふぅ、と会長は荒い息を繰り返す。
お背中をさすって差し上げるべきか、彼には判断できない。
いや、なるべくなら今の会長には近づきたくない。
その後も会長からの叱責の言葉は続き、彼は胃の腑を冷やす思いだった。
上司はまったく答えた様子はなかったが。
「しばらく荒れそうですね」
「そうだな」
会長の執務室を出てすぐに深い息を吐く。やっと呼吸ができた。
その人はすぐに歩き出した。
「またお出かけになられますか?」
長身のその人に追いつくには小走りしなければならない。
長い廊下が恨めしいくらいだ。
「いや、留守のあいだの仕事を片付けよう。
書類は揃っているか?」
「はい。他所に回せる分は配分いたしました。
あとは目を通していただくものと、考慮していただく分とに分け、さらに地区別に分けております。
また急ぐ分は別に抜き出しておきました」
うむ、とその人はうなずいた。
「いくつか招待状をいただいております。
お戻りの予定がはっきりしませんでしたので、出席のお返事は改めておだしするようにご返答させていただきました。
すでに期日の過ぎた分に関しましては、まだお戻りでないとのご連絡を差し上げました。
残りの分はお身内様と御交友様、議会関係に分けております」
「薔薇の様子はどうだ?」
「蕾がいくつもつきました。数日中には咲きます」
その人はうれしそうに、微かに笑んだ。
家紋である薔薇のことはいつだってこの人の心の中を占めている。
執務室に戻ると、その人はさっそく書類に取り掛かった。
一心不乱。
もう彼のことは物を運ぶ手足であり、質問に答える資料としか頭にない。
庭師を呼んでくれ、とその人は言った。
書類はあらかた片付いて、一休みにお茶を差し上げたときだった。
まだ薔薇の様子もみていないのにどうしたものだろうか。
はい、と答えつつも首をかしげていると、その人は微かに苦笑して机の引き出しから何かを取り出した。
小さな、みすぼらしい小袋。
その人の本来の持ち物でないことは明らかだ。
「種をいただいた。
よい場所に植えさせてくれ」
小袋を受け取ると、中でしゃらりと音がした。
「花の種ですか?」
「おそらくな」
いつもの庭師を手配し、種を植えさせる。
場所はその人が指定したところに。
執務室から見える小さな庭の真ん中に。
庭師は、何の種かもわからないものを植えるのは嫌そうだった。
植える時期は種によって違うのだというが、植えろと言われたからには植えるしかなかった。
咲くだろうか?
それとも生るのだろうか?
答えはしばらく後になるだろう。
芽が出るのにひと月かかり、そのあいだ庭師は目が出ないのは自分のせいではないと文句を言っていた。
別に誰も責めてはいないが、庭師という職業上、何の成果も出せないのは苦痛らしい。
双葉が出るにはそれから十日ほどもかかった。
庭師はそれこそのんびりしたやつだとぶつくさ言った。何の芽なのかは一向にわからない。
毎朝その人は、種がどうなったのか訊ねる。
自分では見に行かない。すぐそこだというのに窓から覗くこともしない。
そんなに大切なものなら直接見に行けば良いのに。
なんてことは、彼も言わない。
彼の主人はとても頑固で、こうと決めたことは最後までやりとおしてしまう人なのだ。
彼が何をどう言おうが、それが変わることはない。
真紅。
完熟の夕陽のような。
開いたばかりの傷口のような。
深い深い、紅。
それはいつまでも眼の奥に残る。
網膜を焼き尽くすような印象。
「バラ、ですか?」
その人は慎重にうなずいた。
その目元が少しだけ潤んでいるような気がして、そっと視線を逸らす。
やきもきさせた種はとうとう花を咲かせた。
見たこともないような真っ赤な薔薇。
すぐに知らせ、なぜか見に行こうとしないその人の腕を掴んで無理やり連れ出した。
「女皇の薔薇だ」
開口一番、その人は言った。
「え? あれは……絶滅したのではないのですか?」
「いいや。たしかに、最後の皇帝がすべてを焼き尽くすようにとお命じになったが、種は残っていた」
「種……が……」
薔薇が種から咲くとは知らなかった。
「美しいな」
「はい」
その人の頬は薔薇の色が写し取られたように高潮していた。
「知っているか」
「何をでしょうか?」
「他国に、この薔薇はまだ咲いているそうだ」
「え?」
初耳だ。
「かの女皇御自らが、ご友人にお下しになったそうだ。
同じ人を愛したもの同士、またその人を失ったもの同士。
愛した人が愛でた薔薇を分け合ったそうだ。
愛を得られなかったものと、愛を与えられたものが。
約束を交わした証しに」
だからな、とその人は続けて少し間を置いた。
あの人はわたくしを見てはくださらなかった。
あの人はわたくしの望む愛しかたをしてはくださらなかった。
あの人はあなたを愛した。
あの人はあなたを望み愛おしみになった。
あの人はわたくしを愛してはくださらなかった。
あの人はあなたを愛した。
あの人に愛されたあなたが憎い。
あの人が愛したあなたが愛しい。
愛されたあなたが憎いから、わたくしの前には現れないで。
愛されたあなたが愛しいから───……
「約束、というのだ、今はこの薔薇を」
「……約束、ですか?」
「愛すこと、愛されることを忘れないでいようと、互いに約束されたそうだ。
後世では、誓いを立てたもの同士が贈りあいもした。
また……」
言葉は長く途切れた。
万感の思いの沈黙。
その人は深く息を吸いこんだ。
「二度と会わないものへ贈るのだそうだ」
頬を流れるものが真紅の薔薇色を映しこんだ。