「ところで、閣下。あの、何かわたしに、御用でしたでしょうか?」
「ん? ……うん」
 イルスは一度、大きく息を吸いこんだ。
「レセリアナ。陛下のことは、好きではないか?」
「……………………わたしが、ですか?」
「おまえがだ」
「閣下ではなく?」
「……………………。わたしはもちろん、尊敬申し上げている」
 話が変な方向に向かいそうだ。
「わたしのことは、一時、忘れてくれ。陛下とおまえのことで話をしに来た。
 単刀直入に聞くが、陛下と恋仲にはなれないか?」
 レセリアナの目が転げ落ちそうなほど大きく広がった。おもわず両手を差し出しそうになるくらいに。

「わたっ…………」
 言葉が続かない。
 あまりも直行過ぎたかとイルスは不安になった。
「すまない。急なことで驚いただろう」
「……………………」
 こくこく、とレセリアナがうなずく。

「わたしも最初、陛下のお気持ちに気づかなかった。まったくといっていいほどだ。
 だがよく考えてみたら、陛下が女官以外と、公務以外の話をしようとしたのはおまえが初めてだ」
 ぶんぶん、とレセリアナが首を振る。
「うん? あぁ、そうだな。陛下は銀の聖女殿とお知り合いで、おまえはその子孫にあたる」
 こくこく、とうなずくレセリアナ。
「だが、今になって、それだけではなかったように思う」
「え?」

「わたしの留守中、おまえの剣術を見たと言われた。
 そのときの表情はとても穏やかで、わたしも初めてみるくらい、やさしいお顔だった」
「………………」

 レセリアナは俯き、じっと黙り込んだ。
 膝に置かれた両手の甲はまだ白い。里のものと比べると確かに白いが、イルスの婚約者と比べるとずいぶん焼けた。
 目も生き生きとして、夜は寝付けないでいるというが表情は明るい。声もしっかりとしている。
 美しい銀の髪には、女たちからの歓迎の贈り物だろう、綾織の髪紐が飾られている。

 彼女は今、幸せなのだろう。
 兄の呪縛から逃れ、しがらみも遠くにおいて来た。
 彼女を縛り付けるものはない。

 イルスは急に、不安になった。
 こんなことを言って、レセリアナにまた思いつめるようなことをしてしまったのではないだろうか。せっかく自由になれた彼女の心を、また痛めはしなかっただろうか。

 謝ろうと振り返った先に、水滴を見つけて息を飲んだ。

「レ、セ、リアナ……?」
 ぐずっ、と彼女は鼻をすすった。
「ごめ、なさい」
「い、いや、謝るのはわたしのほうだ。急にこんなことを言って悪かった。おまえの気持ちも確かめずに…………すまない」

 違うんです、とレセリアナは途切れ途切れに言った。
「ごめん、なさい。びっくりして……なんて、言っていいのか…………」
 手の甲で涙を拭うと、レセリアナはぐいっと顔をあげる。
「それは、イエラ様からの入れ知恵ですか、閣下?」
「え?」
 くすっ、と笑うレセリアナ。
「まえにイエラ様から、聞かれたことがあります」

『陛下のことがお好きですの?』

「わたしはそのとき、考えに考えて、『善い主君であらせられます』と答えました。
 でも、イエラ様は、きっと気づいて、いらっしゃると思います」
「……え?」
 レセリアナは心地良い風のような笑みでイルスを見上げた。

「わたしを宮廷まで、送っていただけますか?」
「お館様」
 少女に呼ばれて振り向くと、その手に握られたものを見て目を丸くした。
「どうしたの?」
「申し訳ありません。ポティが折ってしまいました」

 ポティというのは少女が可愛がっている犬のことだ。大きな体をしているが甘えん坊の焼きもち焼きで、よく庭の花枝を折ってくれる。
 今回は見事に蕾の花枝を折ったようだ。

「折れてしまったものはしかたがありません。
 花瓶に活けてちょうだい」
「はい、お館様」



 蕾は固く、まだその花びらの色を見せない。
 突いてみてもゆらゆらと揺れるばかり。

 窓辺の縁に置かれた一輪挿しは、咲くかどうかもわからない蕾の花を抱えている。
 燦々と降り注ぐ陽の光に照らされながらも蕾はどこか寂しそう。
 見ているだけでため息が出る。

「おかあさま」
「なぁに?」
 娘が扉の向こうから顔だけのぞかせる。
「おかあさま。折れたお花をみせて」
「いいわよ。いらっしゃい」
 手招きすると、娘はころころとやってきた。

「このお花はなぁに、おかあさま」
 娘の小さな指が蕾を突く。
 蕾は恥ずかしそうに揺れる。
「バラというのよ」
「バラはなにいろのお花がさくの?」
「何色かしら?」
「なにいろかな?」

 娘の頬に頬を寄せる。
 柔らかい。暖かい。
 陽射しの匂いがする。



「お館様」
 少女に呼ばれて振り向くと、その手に握られたものを見て目を丸くした。
「まぁ……」
「お嬢様が楽しみにしていらしたのに……」
 少女は目じりに涙を溜めた。

 蕾はうなだれていた。

 同じくらい少女はうなだれ、涙が今にも零れそうだ。
 広い部屋に佇むには、震える肩があまりにも小さい。

「陽射しが強すぎたのかしら……?」
 娘も楽しみにしていた薔薇の蕾。
 このままでは咲く前に、本当に枯れてしまうだろう。

「わたし……わたし、魔導士様にお願いしてみます」
「魔導士様に? いけません。
 花の一輪のために、あの方のお手を煩わせてはいけません」
 国の政事に関わる人に、そんなささやかな願いは言い出せない。

「でも……」
「同じくらいの蕾を摘んできてちょうだい。
 あの子には内緒にしておきましょう」
 娘に嘘をつきたくないが、咲く前に枯れてしまったというほうがかわいそうだ。
 少女はうなだれて庭に出た。





「これ……は、大きいかな。
 これはダメ。こっち…………うーん……」
 同じ薔薇なのに、なかなか同じ大きさの蕾がない。

 広大な庭の一角。
 館の主人の居間が三つは入りそうな広さ。
 これだけの広さにこれだけの数があるのに、どれ一つとして似たものがないなんて。

 お嬢様はきっと泣くだろう。
 お館様はお困りになるだろう。
 自分が犬を拾ったばかりに、お二人にご迷惑をかけてしまうなんて。

 涙が出た。
 薔薇の大群の中に座り込んで、エプロンで顔を隠す。

 お嬢様より先に泣くなんて、いけないことなのに。
 お館様より先に途方に暮れるなんて、いけないことなのに。

 けれど涙は止まらなかった。



「どうした?」
 頭上から声をかけられ、驚いて顔を上げる。
 真っ黒い影が少女を見下ろしていた。

「どこか痛むのか?」
「…………い、いえ」
 知らない人なのに、怖くなかった。
 全身を真っ黒な布で覆った人なのに、善い人だと思った。

 真っ黒い影はその陰に少女を隠し、真昼の暑い日差しから隠してくれた。
 帽子もかぶらず出てきてしまったから、頭はもう焼けそうに熱くなっている。
 だから影の日陰はありがたかった。

「バラの蕾の枝を、犬が折ってしまったんです。
 お嬢様が、咲くのを楽しみにされていたのに、もう、枯れてしまうんです」
 口にするともっと悲しくなった。

 エプロンに顔を埋める。
 このまま埋まり込んで消えてしまいたいと思った。

「貸してごらん」
 言われて、おずおずと蕾の枝を差し出す。
 大きな手が蕾に触れた。
「あぁ、いけない」
 やっぱりダメなんだ……。

「両手で持って」
 大きな手が少女の手を導く。
 細い枝が二人の手で覆われる。
「祈ってごらん。花が咲くように」
「咲く、ように?」
「きっと咲くから」
「……咲きますか?」
「咲くよ」
 影の声は優しい。
 暑い陽射しを遮る木の下に吹く風のように。
「…………───」

 咲きますように
 キレイな花
 真っ赤なバラ

 咲きますように
 お嬢様が喜ばれるように
 お館様のために

「咲きますように」





 紅の薔薇屋敷と、人々はそう呼んだ。
 その国唯一の薔薇が咲く庭。時期になると庭の一角は真っ赤に染まることから、そう呼ばれるようになった。
 目に焼きつくような、流されたばかりの血のような、赤。白い陽射しに晒されてなお一層その色は増し、深い香りは近隣の家まで届く。
 近隣の城まで……いや、彼なら海を越えても嗅ぎとるだろう。

 高貴なる人の鼻腔までくすぐるその薔薇が咲く頃、白い陽射しの下には黒い陽炎が現れる。
 黒い陽炎は近づけば消える。薔薇の匂いに誘われてやってきた蜂の大群だという者もいるし、暑い陽射しが起こす眼の錯覚だというものもいる。

 けれど彼女はその日、知った。
 黒い陽炎は冷たい手をしている。その手に触れられると焼けつくようだった頭も冷えて心地良くなる。
 そして何より、黒い陽炎は優しい方だ。
 優しい声をかけてくれた。彼女に日陰を作ってくれた。
 なにより、彼女の大切な人たちを悲しませないでくれた。

 密かに彼女は彼のことを、『黒の紳士』と呼んだ。





「お館様!
 お館様!」
 少女の大きな声。
「どうしたの?」
 慌てて窓から顔を出すと、少女は満面の笑みをして両手を差し出した。

 そこには見事な、真紅の薔薇。

「……まぁ」
「咲いたんです!
 バラが咲きました、お館様!
 咲いたんですよ、バラが!」

 少女の笑みが咲き綻んだ。

「閣下ぁ!?」
「スティード、レセリアナはどこだ?」
 宮廷を出発して半月以上が経った。こんなに早いのは新記録だ。

 途中で食糧と衣服を調達し、馬から短馬と呼ばれる足が短く太い馬に替えた。
 道程中、短馬は三度も替えた。

 〈水守〉の里は相変わらず賑やかで、イルスを知る里人たちが手を振ってくる。短馬はすぐに子どもたちが囲んだ。
 どこかの部族が二・三組、水を汲みに来ているようだ。イルスを珍しそうに見る。なぜか老婆が胸を押さえて倒れこんだ。
 発作だろうか。
 お大事に。

 懐かしい酒飲み仲間を見つけた途端、ため息が出た。
 里の女たちに混ざって洗濯物を踏んでいたスティードに言いたいことはあったが、とりあえず本命を尋ねた。
「あー……長老の、ところだと思います」
「あとでおまえも来い」
「…………はい」

 長老の天幕に近づくと笑い声が聞こえた。
 布戸に向かって声をかけると長老の声がする。戸をくぐって中にはいると、レセリアナもいた。
「閣下、お出ましでしたかいな」
「……閣下」
「お久しぶりです、長老」
 イルスはレセリアナの隣に腰を下ろし、長老の杖に額をつけてあいさつした。

「久しぶりだな、レセリアナ」
「お久しぶりです、閣下」
 レセリアナは少し痩せたようだ。砂漠の暑さにまだ慣れきれていないのだろう。でも瞳は以前より生き生きとしている。

「元気そうで何よりだ」
「預かりものは大切にするだや」
 長老の声に、イスルは笑う。
「信頼しております、長老。
 今日は彼女に大切な話があって参りました。しばらく良いでしょうか?」
「良いさ。レセレセ、行ってやりぃや」
 はい、とレセリアナはうなずいた。

 レセレセ、とはおそらく長老がつけたのだろう。
 昔、高貴な生まれの女性は、同じ音を二回繰り返した名で呼ばれていた。
 砂漠では生まれの貴卑は問わない。ただ、〈水守〉はダーナ家とのつながりもあり、ところどころで礼儀を見せてくれた。



「慣れたか?」
「暑くて、夜はまだ寝つきが悪いです」
「夕暮れに眠って、朝早く起きるといい」
 オアシスの北側の少し小高いに、二人して座った。
 この場所はオアシスを挟んだ向こう側からまるみえだが、遠くて声は聞こえない。ここに座ってする話は大事なことだと誰もがわかっているから、近づこうとしない。
 物珍しげな視線だけが送られてくる。

「閣下はどれくらい、この里にいらしたのですか?」
「四年だ。三年目に宰相補佐を任じられた。ここで」
 イルスは指で地面を指差した。
「ここで?」
 レセリアナは目を丸くした。

 帝国の宰相補佐がこんな砂漠の真ん中で誕生したなど、本人だって驚きだ。
 けれど宰相は確かに、主の名のもと、イルスをここで補佐に任じた。あのとき戴いた錫状の重さは、今でもこの手に残っている。