「お館様」
 少女に呼ばれて振り向くと、その手に握られたものを見て目を丸くした。
「どうしたの?」
「申し訳ありません。ポティが折ってしまいました」

 ポティというのは少女が可愛がっている犬のことだ。大きな体をしているが甘えん坊の焼きもち焼きで、よく庭の花枝を折ってくれる。
 今回は見事に蕾の花枝を折ったようだ。

「折れてしまったものはしかたがありません。
 花瓶に活けてちょうだい」
「はい、お館様」



 蕾は固く、まだその花びらの色を見せない。
 突いてみてもゆらゆらと揺れるばかり。

 窓辺の縁に置かれた一輪挿しは、咲くかどうかもわからない蕾の花を抱えている。
 燦々と降り注ぐ陽の光に照らされながらも蕾はどこか寂しそう。
 見ているだけでため息が出る。

「おかあさま」
「なぁに?」
 娘が扉の向こうから顔だけのぞかせる。
「おかあさま。折れたお花をみせて」
「いいわよ。いらっしゃい」
 手招きすると、娘はころころとやってきた。

「このお花はなぁに、おかあさま」
 娘の小さな指が蕾を突く。
 蕾は恥ずかしそうに揺れる。
「バラというのよ」
「バラはなにいろのお花がさくの?」
「何色かしら?」
「なにいろかな?」

 娘の頬に頬を寄せる。
 柔らかい。暖かい。
 陽射しの匂いがする。



「お館様」
 少女に呼ばれて振り向くと、その手に握られたものを見て目を丸くした。
「まぁ……」
「お嬢様が楽しみにしていらしたのに……」
 少女は目じりに涙を溜めた。

 蕾はうなだれていた。

 同じくらい少女はうなだれ、涙が今にも零れそうだ。
 広い部屋に佇むには、震える肩があまりにも小さい。

「陽射しが強すぎたのかしら……?」
 娘も楽しみにしていた薔薇の蕾。
 このままでは咲く前に、本当に枯れてしまうだろう。

「わたし……わたし、魔導士様にお願いしてみます」
「魔導士様に? いけません。
 花の一輪のために、あの方のお手を煩わせてはいけません」
 国の政事に関わる人に、そんなささやかな願いは言い出せない。

「でも……」
「同じくらいの蕾を摘んできてちょうだい。
 あの子には内緒にしておきましょう」
 娘に嘘をつきたくないが、咲く前に枯れてしまったというほうがかわいそうだ。
 少女はうなだれて庭に出た。





「これ……は、大きいかな。
 これはダメ。こっち…………うーん……」
 同じ薔薇なのに、なかなか同じ大きさの蕾がない。

 広大な庭の一角。
 館の主人の居間が三つは入りそうな広さ。
 これだけの広さにこれだけの数があるのに、どれ一つとして似たものがないなんて。

 お嬢様はきっと泣くだろう。
 お館様はお困りになるだろう。
 自分が犬を拾ったばかりに、お二人にご迷惑をかけてしまうなんて。

 涙が出た。
 薔薇の大群の中に座り込んで、エプロンで顔を隠す。

 お嬢様より先に泣くなんて、いけないことなのに。
 お館様より先に途方に暮れるなんて、いけないことなのに。

 けれど涙は止まらなかった。



「どうした?」
 頭上から声をかけられ、驚いて顔を上げる。
 真っ黒い影が少女を見下ろしていた。

「どこか痛むのか?」
「…………い、いえ」
 知らない人なのに、怖くなかった。
 全身を真っ黒な布で覆った人なのに、善い人だと思った。

 真っ黒い影はその陰に少女を隠し、真昼の暑い日差しから隠してくれた。
 帽子もかぶらず出てきてしまったから、頭はもう焼けそうに熱くなっている。
 だから影の日陰はありがたかった。

「バラの蕾の枝を、犬が折ってしまったんです。
 お嬢様が、咲くのを楽しみにされていたのに、もう、枯れてしまうんです」
 口にするともっと悲しくなった。

 エプロンに顔を埋める。
 このまま埋まり込んで消えてしまいたいと思った。

「貸してごらん」
 言われて、おずおずと蕾の枝を差し出す。
 大きな手が蕾に触れた。
「あぁ、いけない」
 やっぱりダメなんだ……。

「両手で持って」
 大きな手が少女の手を導く。
 細い枝が二人の手で覆われる。
「祈ってごらん。花が咲くように」
「咲く、ように?」
「きっと咲くから」
「……咲きますか?」
「咲くよ」
 影の声は優しい。
 暑い陽射しを遮る木の下に吹く風のように。
「…………───」

 咲きますように
 キレイな花
 真っ赤なバラ

 咲きますように
 お嬢様が喜ばれるように
 お館様のために

「咲きますように」





 紅の薔薇屋敷と、人々はそう呼んだ。
 その国唯一の薔薇が咲く庭。時期になると庭の一角は真っ赤に染まることから、そう呼ばれるようになった。
 目に焼きつくような、流されたばかりの血のような、赤。白い陽射しに晒されてなお一層その色は増し、深い香りは近隣の家まで届く。
 近隣の城まで……いや、彼なら海を越えても嗅ぎとるだろう。

 高貴なる人の鼻腔までくすぐるその薔薇が咲く頃、白い陽射しの下には黒い陽炎が現れる。
 黒い陽炎は近づけば消える。薔薇の匂いに誘われてやってきた蜂の大群だという者もいるし、暑い陽射しが起こす眼の錯覚だというものもいる。

 けれど彼女はその日、知った。
 黒い陽炎は冷たい手をしている。その手に触れられると焼けつくようだった頭も冷えて心地良くなる。
 そして何より、黒い陽炎は優しい方だ。
 優しい声をかけてくれた。彼女に日陰を作ってくれた。
 なにより、彼女の大切な人たちを悲しませないでくれた。

 密かに彼女は彼のことを、『黒の紳士』と呼んだ。





「お館様!
 お館様!」
 少女の大きな声。
「どうしたの?」
 慌てて窓から顔を出すと、少女は満面の笑みをして両手を差し出した。

 そこには見事な、真紅の薔薇。

「……まぁ」
「咲いたんです!
 バラが咲きました、お館様!
 咲いたんですよ、バラが!」

 少女の笑みが咲き綻んだ。