単に練習していただけだった。
 いつもどおり、人気のない森のちょっと広い空間で。
 そうしないと知らない人を巻き込んでしまうから。

 いつもどおり、師匠から教えてもらった呪文を唱えた。
 そうしたら予想もしなかったものが降ってきた。

「あ…………」
 その予想もしなかった黒いものは地面で蠢いている。
「あたしったら…………」
 黒いものは蠢きながら徐々に人の形をとる。
「あたしったら、なんてもの呼び出しちゃったの!?」
 人型は黒いままだったが、立派な耳を持っていた。

「音痴」

 口も達者だった。
 人型に目はないのにじっと見られているような気がする。

「なんですって!」
「すっげー音痴。それで魔法使い?
 やめとけよ音痴」
「お!!」
 音痴音痴と連呼され、温厚な自分(と思っている)もさすがに腹が立った。

 大股で近づき、人型の頬らしき部分にびんたを見舞った。
 人型は揺れた。

「んで怪力」
「!」
「かわいくねー」
「!!」

 人型のくせに!

「あんたも歌ってみなさいよ。そんで巧かったら素直に謝るわ。
 でも、ヘタクソだったら、さっき言ったこと全部撤回しなさい!」
 人型を指差して挑戦状を叩きつけた。

 人型は腹らしき部分を抱えて大笑いした。
 もし目があったら涙まで流しただろう。

「オレ、悪魔だぜ。
 悪魔の唄なんて聴いたら魅惑されてドツボにはまるだけだぜ」
「わかんないわよ。ヘタクソすぎてあたし死ぬかもね!」
 どちらにしても自分が不利だということに、頭に血が上っていて気づかなかった。

「いいぜ。そんなに言うなら歌ってやるよ。後悔するなよ」
「いいわよ。歌ってみなさいよ」
「もし巧かったら?」
「もし? ……いいわよ。キスさせてあげる」
 悪魔ってキスが好きなの、と師匠が言っていた。
 案の定、いいぜ、と悪魔が言った。

 悪魔は空間の中央に立つ。
 夜空を見上げてまるで目当ての星を見つけようとするかのように首をめぐらす。



 唄は唐突に始まった。

 低い声……いや、最初は声とは気づかなかった。
 底の見えない井戸の奥から上ってくる風のような音。
 遠くから聞く滝の音。

 細かく震える旋律。
 うねる高音。
 引き込まれるような長音。

 耳の奥を犯されるような、




 快感───……





「あ」
 いつの間にか歌声は消えていた。
 自分は目を閉じて座り込んでいた。
 悪魔が目の前に立って見下ろしてくる。

 その口元が歪んだ。
「イっちゃった?」
 下品。
 でも確かに腰にきた。しばらく立ち上がれそうにない。

「い、い、い、いいわよ!
 キスくらいしてあげるわよ!」
 立ち上がってもう一発びんたをしてやりたかったけれど、どうしても立ち上がれない。

 悪魔が目の前に腰を下ろす。
 両手で肩を掴まれる。

 怖い、なんていまさら言えなくてまぶたを硬く閉じる。
 だって初めてのキスだから。
 せめて人間相手ならいいものを、悪魔が最初の人(?)だなんて理不尽だ。

 顔にふっ、と息がかかった。
 目はないくせに鼻がある悪魔。
 悪魔も呼吸をするんだと初めて知った。知ったところでどうにかなるわけでもないけれど。



 最初に感じたのは温度。
 悪魔のくせに温かい。
 肩を掴む手は冷たいのに、飲み頃のお茶のように温かい。

 次に柔らかいことに驚いて、おもわず目を開いた。
 息を飲むほど近くに真っ黒い顔があった。また驚いて目を閉じる。

 目を閉じれば触れられる肩と唇に意識が集中する。
 手は寒気がするほど冷たいのに、唇は温かくて柔らかいなんて。
 悪魔のくせに。



「……っは」
 開放された口から空気をおもいっきり吸い込む。
 胸の奥が痛いほど鳴っている。

「あ、あんたね! 殺す気!?」
 悪魔はにやりと唇で笑う。
「一回目」
「は?」
 嫌な予感がした。

「毎日ここに来る?」
「毎日……じゃ、ない、けど……」
「よく?」
「…………けっこう」
「じゃ、また来る」
「はぁあ!?
 何でよ。イヤよ。こんないいトコほかにないんだから!
 あたしの練習場所よ。勝手に来ないでよね!」
「じゃ、二回目はどこで?」
「はぁあ!?」
 胸騒ぎどころではない。今に危機が目の前に座っている。

「キスさせてくれるって言ったぜ」
「い、今したじゃない!」
「一回だけなんて言わなかったぜ」
「!」

 悪魔と約束するときは気をつけなさいと、師匠が言っていた。
 たとえ口約束だろうと迂闊な契約は命取りになる、と。

「!!」
「また来る。ここで良いだろ?」
 悪魔と契約をしたなんて、師匠に知れたらどうなることか……恐ろしい。

「おまえの家に行こうか?」
「ダメ!」
「ここで良い?」
「……………………」
「じゃ、家に」
「ここで良い!
 絶対ゼッタイ、家に来ちゃダメ!!」
「契約だ」
「………………………………」

 いいわね、悪魔に話かけちゃダメ。
 話かけられても無視しなさい。

 師匠のせっかくの忠告も無駄になってしまった……。
 知れたら破門どころではないだろう。
 結界の張られた牢獄に一生閉じ込められかねない。
 そんな人生送りたくない!

「け………………契約、するわ」





 こんな書物を残した魔導士がいる。

『悪魔との契約注意事項

 その一
 まず絶対に口を利かないこと

 その二
 唄を歌わせないこと

 その三
 キスはしないこと

 その四
 どうしても契約しなければならなくなった場合のみ、人生を諦めること』

 それは著者の実体験に基づく貴重な書物とされた。





 あまりの怒りに二週間は森に行けずにいた。
 だがある日ふと、待たせ過ぎると家に押しかけて来はしないかと思った。
「……………………」
 諦めよう。
 今生は諦めようと、腹を括った。

 あの歌声と唇の感触が忘れられないという気持ちは心の奥にしまいこんで、とりあえず髪を梳った。
 かわいそうなのはイルスの護衛たちだった。
 急な遠出にも関わらず忠実に主について走り、到着して一息ついたかと思ったら、
「出発だ」

 無情な主とはイルスのことを言うのかもしれない。
 本人は気づいていないが。

 そして最後尾に後ろ髪を引かれるスティードを置き、イルスたちは〈水守〉の里を後にした。
 後に残されたのは、突然現れた美しい人に心奪われてしまった人たちだった。
 本人は気づいていないが。



「わたしは、十二歳で兄に引き取られました。
 大きくてキレイなお城、キレイな服、たくさんの世話役たち……兄は、わたしに与えられるすべてを与えようとしたのかもしれません。
 わたしが自分から離れられないようにしたかったのかもしれません」

 深夜、冷えすぎた空気を吸い込まないよう、イルスたちは口を布で覆っていた寝ていた。
 昼間の暑さに体は疲れていた。だが、頭の芯が眠らせてくれない。
 隣で寝ていたはずのレセリアナと視線が合った。

 彼女は、ポツリと呟いた。
 恋は、恐ろしいものだと思っていました───。

「護衛がついて回る以外、わたしはあてがわれた屋敷を自由に動けました。
 見習いの騎士が一人いて、スオンと言いました。遠い国から海を渡ってきたそうです。
 屋敷は高い塀に囲まれていて、門には必ず門兵がいました。わたしはここからは、兄の命令なくして出られないのだとわかりました」

「しばらくすると、護衛たちは、わたしは屋敷から逃げ出さないだろうと安心して、屋敷内ではスオン一人に任せるようになりました。
 スオンはわたしより六歳年上でしたが、それでも年が近いほうでした。聖女様が亡くなって、スティードとも会えなくなっていたので、最初は兄のように思いました。

 わたしは子どもで、屋敷はとても広くて、退屈はしませんでした。スオンと二人で屋敷を歩き回りました。
 何の気兼ねもなく、彼と話せるようになるのはすぐでした」
 レセリアナは遠くを見た。

「あれは…………兄の、何かの祝いの席でした。
 屋敷から城へ向かう途中、髪飾りがひとつ外れて、それに気づいたスオンが、届けに来てくれました。
 正装した姿で、彼と話すのは初めてでした。お互い、少し恥ずかしかったようです。

 髪飾りを、髪に差してくれました。
 広間から外に出て、すぐそばの木の近くでした。中から見えないように、隠れていました。

 髪飾りを差した手で、彼が、わたしの手を、握ってくれました。
 びっくりして、顔を上げたら、頬に、口付けてくれました。

 ほんの一瞬でした。でも、お互い、何があったのか、ちゃんと、わかっていました。
 恥ずかしくて、目もあわせられずに、いました。
 手だけは、しっかりと握り合っていました。



 声がして、手を離してしまいました。
 すぐにわたしたちに気づいて、その人は、スオンだけを連れて行きました。

 手を、離さずにいるべきでした。
 彼とは、それから、もう、二度と、会えませんでした」

 深いため息。
 砂の奥底にあるという地下空洞に落ちてしまいそうなほど重い息。

「わたしが見つめてよいのは、兄だけでした」
 おかえり、と声をかけられた。

 深夜。
 まだ起きているとは思っていたが、部屋にいるとは思わなかった。
 しかも人の部屋に。

 その人は月明かりの差し込む窓辺に椅子を置いて座っている。
 手元には本が一冊。

 ただいま、と応えてみる。
「早かったな」
「うん。……何か飲む?」
「あぁ」

 その人は何もしない。
 お茶の一杯も淹れない。
 落ちたスプーンも拾わない。

 それに対して彼も何も言わない。
 食事を作るもの、洗濯も掃除も彼一人がやる。
 その人はときおりその姿を眺めるだけ。
 本を広げたり服を脱ぎ着したり、食事を自分の口に運んだり靴紐を結んだりしかしない。

 黒色の法衣を肩から落とす。
 ばさりと重い音がする。

「機嫌がいいな」
「そう?」
「何か、あったのかい?」
「うん、まぁね」

 落ちた法衣は自分で立ち上がり、その人が細く開けた窓の隙間から飛んでいった。
 それを見送って、彼は机に茶器を置く。

「お酒をいれようか?」
「あぁ」

 紅茶に二、三滴。
 甘い香りが漂う。

「ありがとう」
「うん」

 その人は窓辺に置かれた椅子に座って、紅茶を一口飲んだ。
「美味しいよ」
「ありがとう」

 お茶を淹れるのは好きだ。
 手順どおり、丁寧に、執拗なくらい慎重に淹れる。
 疲れているときは甘く。眠れないときは柔らかく。悲しいときはしっとりと。

「ねぇ」
「うん?」
「明日、君も行かない?」
「どこに?」
「バラの花を見に。きれいだったよ」
「そうか」
「たまにはいいよ」
「そうだな」
 考えておくよ、と彼は言った。

 彼は考えるだろう。
 そして行かないだろう。
 脳裏に浮かぶのは満開の薔薇ではなく、その頃の思い出だけ。

 薔薇が満開の頃、彼の最愛の人が死んだ。
 それから彼は二度と足を向けないでいる。
 あれだけ愛した国に、目を向けられないでいる。



「ダンク」
「うん?」
「エルはきっと、君に会いたがっているよ」
「…………」
「たまには君から会いに行ってあげなよ」
「……………………───」

「ずっとエルは会いに来てくれた。
 何度も君に会いに来てくれた。
 今度は君が、会いに行く番だよ。

 エルはきっと、君に会いたがっているよ」

 その人はうつむいて、その白い頬に涙を伝わせた。





 ねぇ
 彼はきっと泣くわ
 だから慰めてあげてね

 ねぇ
 彼はきっと悲しむわ
 だから励ましてあげてね

 ねぇ
 彼はきっと忘れないわ
 でも、伝えて

 愛してるって───……





 その人は顔を上げて窓の外を見た。
「お弁当は、君が用意するんだ」
 彼は笑った。
「もちろんだよ」