主はイルスたちに背を向けたまま、言い続ける。
「女官以外の女たちはすべて家に戻らせろ。ついさきほど、後宮の主が決まった」
「はぁ」
 やはり失敗かと、イルスは肩を落とした。
 それでも命令に従おうと、尋ねる。
「どなたに任ぜられたのですか?」
 主が振り向いた。

「彼女だ」

「……か……………………………………」
 彼女って、誰?
 執務室と控え室に「彼女」と呼ばれる人は一人しかない。
 それでも確かめずにはいられなかった。
「レセリアナを、ですか?」
「そうだ」
 主はしっかりとうなずかれた。
「レセリアナを恋君にお認めになるのですか?」
「……恋君かどうかは、あとにする」

 先代からはほとんど使用されていないが、後宮とは、昔は皇帝の妻を主とした、愛妾たちの住まいになっていた。
 その主をいつからか「恋君」と呼ぶようになった。おそらく乙女チックな皇帝が愛妻に向かって言い出したのだろう。

 少し落胆したが、少し進んだような気がする。
 まったく希望がないわけではないということだ。
「はい、陛下!」
 元気な声とともにイルスは執務室から駆け出した。

 そのあとを宰相とその護衛が追いかける。事の成りゆきをぜひとも聞きたいという大臣とその護衛が後に続く。書記官が、上司が行くのだから自分もと、訳がわからず走り出す。
 なにやらものすごい速さで駆けていく一行に、誰もが恐れをなして道を開けた。
 途中、子どものように頬を高潮させたイルスを見て、貴婦人たちが興奮して倒れた。





「じい、聞いてくれ!
 レセリアナが後宮入りを果たしたぞ!」
「こ、後宮ですとぉ!」
 老人は胸を押さえた。年寄りには刺激が強かったようだ。
「せ、せ聖女の、ししし子孫が、こ、こ、ここここ後宮!?」

 今にも昇天しそうな老人のために、イルスは詳細を語って聞かせた。
 多少の不安はあったようだが、後宮の女官以外の女性はすべて出され、レセリアナだけだと知るとうなずいて納得した。

「牽制のためでしょうか。聖皇帝の思い人というだけで、レセリアナ様は多くの敵をお作りになってしまわれた」
 よよよ、と老人が嘆く。
「後宮からでるときはスティードをはじめ、護衛をつけるようにする。レセリアナも剣術には長けるのだ、それほど心配することはない」
「思いつめた女性たちが魔導士を雇わないとは限りませぬぞ、若」
「魔導士? なぜだ?」
「魔導士の中には呪いの術を得意とするものもおります。
 ぜひぜひ、ハッサム様にもお目をかけていただかなくてはなりませぬ」
「そうか」
 イルスは納得し、膝を叩いて立ち上がった。
「陛下にお話してこよう」

 か!


 か!




 かみが!





 髪の毛が指に刺さつたっ!



 刺さつた!





 刺さつちゃつた!

 風の強い日が続いた。
 行くときは半月という最速記録をだせたが、帰りまではそうは行かなかった。通常より遅く、ひと月と半かかった。

 いったん、イルスの屋敷で衣服を改めることにした。
 何せひと月だ。砂がこびり付いて髪が真っ白になっている。

 レセリアナの帰還に喜ぶ婚約者は、嬉々として彼女の世話に取り掛かった。
「これからが勝負ですわ、レセリアナ様!」
 彼女は常に楽しそうだ。自分の想定どおりにことが運んで嬉しいのだろう。
 二ヶ月近く公務を放り出していたイルスだが、年に数度、〈水守〉の里に行くので誰も不思議に思わなかった。
 ただその隣に銀髪の少女を連れていることに誰もが驚いた。他国からの留学生が出入りする宮廷だが、それでも銀色の髪は珍しい。
 イルスを信奉(というらしい)している貴婦人一行がハンカチを噛んでいる。どんなに美しく(というらしい)着飾っても、さすがに髪を銀色に染める手法はないようだ。

 主の執務室は相変わらず混雑していた。
 扉は開けられたまま、書類を持った大臣、書記官たちがずらりと外まで並んでいる。
 執務室へは一人ずつ入るが、控え室はとぐろを巻くように人がいる。それが今日ははみ出したようだ。

 控え室に現れたイルスたちの姿に、誰もが息を飲んで道を開けた。
「みなさん、申し訳ない。先に失礼する」
 一言言い置いて、イルスは執務室に入った。

 大臣も書記官もいなかった。先ほど持ち込まれた書類の吟味をしていたようだ。

 主はイルスの姿を見て表情をかすかに緩めた。
 おそらく労いの言葉を言おうとしたのだろう。
 唇が震えて止まった。
「…………イル、ス……?」
 それだけ言うのが精一杯のようだ。

「勝手にも長らく留守をいたしましたこと、お詫び申し上げます。
 お詫びといっては不敬にもあたりますが、土産を持参いたしました」
 イルスは背後のレセリアナを前に出した。

 イルスは呆然とする主と緊張して固まったレセリアナを残し、宰相と書記官と護衛たちを執務室から追い出した。
 控え室の扉を閉め、そのまえに陣取る。
「イ、イ、イルス、補佐? こ、こここ、これは、なになに、ななにごと、だ?」
「宰相閣下、並びに皆々様。陛下の一大事にございます。

 ご静粛に!」





 扉の前に座り込んでいたイルスは、中から主の声に呼ばれるのに気づいた。

 どれだけの時間が経ったのだろう。
 組んでいた足がしびれるくらい長かったようだ。

 今日は仕事にならないと帰った者が半数いたが、残り半数のほとんどが、事の詳細と成りゆきに興味心身で待っていた。
 真面目に務めを果たそうとするものには悪いが、今日は仕事にならないだろう。

「失礼いたします」
 扉を開けると、主は大きな窓のそばにいて、レセリアナは執務机のそばにいた。
 ほとんど動いていないに等しい。
 失敗か……。
「イルス」
「はい、陛下」
「後宮を片付けよ」
「はぁあ?」
 イルスは間抜けな声をあげた。