おかえり、と声をかけられた。

 深夜。
 まだ起きているとは思っていたが、部屋にいるとは思わなかった。
 しかも人の部屋に。

 その人は月明かりの差し込む窓辺に椅子を置いて座っている。
 手元には本が一冊。

 ただいま、と応えてみる。
「早かったな」
「うん。……何か飲む?」
「あぁ」

 その人は何もしない。
 お茶の一杯も淹れない。
 落ちたスプーンも拾わない。

 それに対して彼も何も言わない。
 食事を作るもの、洗濯も掃除も彼一人がやる。
 その人はときおりその姿を眺めるだけ。
 本を広げたり服を脱ぎ着したり、食事を自分の口に運んだり靴紐を結んだりしかしない。

 黒色の法衣を肩から落とす。
 ばさりと重い音がする。

「機嫌がいいな」
「そう?」
「何か、あったのかい?」
「うん、まぁね」

 落ちた法衣は自分で立ち上がり、その人が細く開けた窓の隙間から飛んでいった。
 それを見送って、彼は机に茶器を置く。

「お酒をいれようか?」
「あぁ」

 紅茶に二、三滴。
 甘い香りが漂う。

「ありがとう」
「うん」

 その人は窓辺に置かれた椅子に座って、紅茶を一口飲んだ。
「美味しいよ」
「ありがとう」

 お茶を淹れるのは好きだ。
 手順どおり、丁寧に、執拗なくらい慎重に淹れる。
 疲れているときは甘く。眠れないときは柔らかく。悲しいときはしっとりと。

「ねぇ」
「うん?」
「明日、君も行かない?」
「どこに?」
「バラの花を見に。きれいだったよ」
「そうか」
「たまにはいいよ」
「そうだな」
 考えておくよ、と彼は言った。

 彼は考えるだろう。
 そして行かないだろう。
 脳裏に浮かぶのは満開の薔薇ではなく、その頃の思い出だけ。

 薔薇が満開の頃、彼の最愛の人が死んだ。
 それから彼は二度と足を向けないでいる。
 あれだけ愛した国に、目を向けられないでいる。



「ダンク」
「うん?」
「エルはきっと、君に会いたがっているよ」
「…………」
「たまには君から会いに行ってあげなよ」
「……………………───」

「ずっとエルは会いに来てくれた。
 何度も君に会いに来てくれた。
 今度は君が、会いに行く番だよ。

 エルはきっと、君に会いたがっているよ」

 その人はうつむいて、その白い頬に涙を伝わせた。





 ねぇ
 彼はきっと泣くわ
 だから慰めてあげてね

 ねぇ
 彼はきっと悲しむわ
 だから励ましてあげてね

 ねぇ
 彼はきっと忘れないわ
 でも、伝えて

 愛してるって───……





 その人は顔を上げて窓の外を見た。
「お弁当は、君が用意するんだ」
 彼は笑った。
「もちろんだよ」