スペイン市民戦争とアジア
石川 捷治, 中村 尚樹
スペイン市民戦争とアジア―遥かなる自由と理想のために
最近は猫も杓子も新書に進出しているが、ついに大学までその波に乗ってきた。これは「九大アジア叢書」というシリーズらしいが、サイズや中身は新書系。叢書は選書という説もあるが、この辺に何か定義があるのだろうか。いずれにしても、あまり書店に並ぶ気配がない新書なのだけど、ラインアップを見ると結構面白そう。九州地区の図書館には完備しているのだろうか。九州といえば、長崎新聞が新聞社系では朝日より早く新書を始めているのだが(軍艦島のは面白かった)、こういう試みは全国に広がってほしいものだ。で、本題に戻ると、このシリーズは「九大アジアセンター」というところが一手に引き受けているらしく、執筆陣も自前の様だ。教授とその教え子のコンビらしいが、特にスペイン市民戦争の専門という訳ではなさそうだが、テーマ的には興味深い。新書なので概説にも重点を置いているのだが、「スペイン市民戦争」という呼称にえらくこだわっているのが気にかかる。別にそこまで言わなくても「スペイン市民戦争」は日本語でも「市民権」を得ていると思うのだが、やはり「スペイン内戦」の方がポピュラーなのだろうか、しかし、今時「スペイン内乱」などと言う人はいないと思うのだが。それで肝心の「アジア」との関係なのだが、ここでぶつかるのが「資料」の壁。義勇兵に中国人が多く参加していたのは知られているのだが、まともな本は台湾で出たのが一冊さという。ただ、これも引用文を見る限り、あまり信用度が無い様な気もするのがどうだろう。他にもベトナムとかインドネシア、フィリピン出身の義勇兵も発掘(というかほとんど名前だけ)しているのだが、朝鮮人を見つけようと頑張って、何も出てこなくて、『東亜日報』の戦争記事や、満州での独立運動まで引っ張り出してきているのが、涙ぐるしい。一方、よく知られているジャック白井や他の日本人義勇兵についてはあっさりしたもので、駐在武官のマドリード視察をフランコ側に参戦した日本人がいたなどと捉えており、ここでもファシスト日本に対する抵抗史観。どうもスペイン市民戦争が中国の抗日戦争の嚆矢になったという話に持っていきたい様だが、それはどうだろうか。たしかにぺチューンやメンハンラル・アタルといった人がスペインから中国に移動したのは事実であるが、何だかアフガンからボスニア、チェチェンにイラクと渡り歩く現代のイスラム義勇兵を想起させられる話でもある。
★★
“日本離れ”できない韓国
黒田 勝弘
“日本離れ”できない韓国
お馴染み黒田御大の本ということで、全面正論であり、とても太刀打ちできない。「あった歴史」より「あるべき歴史」が大切な韓国というのも至言だが、韓国の「K」の字も知らんで、韓流とか嫌韓流やってる連中もちっとはこの本を読んで勉強せいと言いたくなる。その「妄言」ぶりから、国外退去処分の声も挙がってるという産経ソウル支局長にして、論説委員と言う他紙に例がない名物記者も今年でソウル在住25年という。韓国留学を経て論説委員というと朝日のWがいるが、同じ「妄言」癖でも、韓国から良心派にされる様では、ただのガキである。その点、この著者は何たって「日本極右」なのに、ソウルに居座ってるのだから肝っ玉の座り方が違う。まさに韓国式にやられたらやり返すを実践しているのがこちらのお方で、譲歩すれば分かってもらえるという日本人的甘えの構造から抜けられないのがWである。果たしてどちらが「知韓派」なのか勝負の余地はないのだけど、このタイトルに一抹の寂しさを感じるのは私だけだろうか。実際、著者がこのタイトルに込めた思いというのは“日本離れしていく韓国”に対するアンビバレンツな感情なのではないかという気がする。韓国では今や「反米」が重要なテーマになり、旧態依然の「反日」は影響力を失い、親米国家としての日本が「反日」の理由となっていると言う話もある。これは中国における「反日」も似たような傾向があろう。韓国にしても中国にしても日本が優位を保つ(と彼等が考えている)のは経済力だけなのだから、経済的に自信がついた今、「反日」ではなく、伝統的な「侮日」の時代に回帰したと言ってよいだろう。そうなると儒教的「道徳的優位」を如何に保つかということが命題になる訳だが、単に高みに立つしか芸がない韓国は、本家に比べたら小中華といったところである。その辺の解説はこの本に譲るとして、著者自身は実はそんな背伸びした駄々っ子みたいな韓国が好きでたまらないといった感じも受ける。水野先生にしてもそうだが、「韓国人の反日」でメシを食ってきた面もあるのだから、愛憎半ばするのも当然だろう。かくいう私もこうした分かりやすい「反日」は決してキライではないのだが、韓国よりはよく知ってるつもりの中国の「反日」は真意が読み取れず薄気味悪く感じることもある。
★★★
米軍再編と在日米軍
森本 敏
米軍再編と在日米軍
これもテレビ学者の本。防衛大卒のこの人は全く軍人臭がないと思っていたのだが、理工学部出身らしい。38で外務省に転職というのも気になるが、一貫して実務畑を歩んできたとのこと。そうした宮仕えが長かったからかどうか分からぬが、この新書はなんだか在日米軍の広報みたいな内容。文体は「ですます」調で統一し、米軍駐留の意義を淡々と説明している。どうも姜尚中なんかとやり合うテレビのイメージと違うのだが、これこれこうで、これこれがありますといった感じで、資料集を読まされている気分だ。私はこの分野には疎いのだが、ここもオタク世界であるから、これが標準なのかもしれない。その中で、珍しくというか意見表明しているのが「中国の脅威」。ソ連も消滅したし、いくら核があるあると意気込んでも北朝鮮は役不足には変わりがない。そうなると仮想敵国は中国となるのが必然なのだが、この辺も色んなカセがとれて「常識」として大手を振れる様になった。あちらの軍関係も、小日本とか米国の一州とか言ってるわりには、随分と日本の防衛力を過大評価してくれているみたいで、これも大日本帝国の遺産というヤツであろう。まあお互い過大評価し合うのがミリタリー・バランス的にもよろしいので、南京で30万人虐殺したり、百人斬り競争するイメージを自衛隊に求めるのも、「反日教育」ならぬ「恐日教育」として有効だし、首相が靖国参拝するのも意義があると言えないこともない。「何をするか分からない野蛮な連中」と思われるのも、戦争は政治の延長である以上、有用なことである。結局、なんだかんだ言っても米軍のプレゼンスは変わらない訳だから、精神勝利法で「ウィン・ウィン」するのが関の山というものだ。
★
「小さな政府」を問い直す
岩田 規久男
「小さな政府」を問いなおす
『下流社会』が当たってから、新書界に「格差もの」が氾濫している。「力」とか「脳」もそうだったけど、たいしたことない本元がたまたま当たったに過ぎないのだから、二番手以降もそれなりのレベルに押さえたものがほとんどである。そうした意味では、この新書は例外的なものなのかもしれない。企画的に「格差論」で行こうとしてたのは間違いなのだが、著者は本元とはレベルが違う経済学者なので、単なる「格差」ではなく、その根源を「小さな政府」に求める議論を検証する。そこで比較対象とされるのがイギリスとスウェーデンのモデルなのであるが、「世界は」の様に全世界から抽出するご都合比較をとっていないので、分かりやすい。失業対策の失敗など、必ずしも成功面だけを捉えている訳ではないのだが、小泉改革を評価する立場の著者にとっては、両国は「成功モデル」であろう。「小さな政府」に関してはニュージーランドのソレが、あまりに急進的過ぎて、今日では失敗とされていると聞いているが、人口や経済規模から見ても、比較対象には値しないといったところだろうか。それにしても「格差」という妖怪に恐れおののく日本社会には、どこか滑稽な気がしないでもない。顧みれば日本人が「格差」から解放されたのは、「ニート」の親の世代くらいの頃だ。「貧困」の記憶を遥か過去に置いてしまうと、かつては国民皆ワーキング・プアー状態であったことを忘れてしまう。10年、20年スパンで物事を考え、自分にできなかったことは子に託すという価値観が、高度成長を支えたのである。第二の長城を築く覚悟であれば「格差」など何も恐くない。と言いたいところだが、モノがあるのが当たり前の時代に育った者には、それは殺生な話だ。もちろん私もその一人ではあるが。
★★
ブランドの条件
山田 登世子
ブランドの条件
岩波新書っぽくないテーマだが、ヴィトン、エルメス、シャネルの解剖。著者の略歴には「好きなブランドはコムデギャルソン、香水とバッグはシャネルも」とある。パンピーにとっては、コムデギャルソンもハウスマヌカン並に懐かしい響きがあるのだが、その世界ではブランドとして現役なのだろう。ということで、私の様な人間が読んでもしょうがないところではあるのだが、そんな私でもバッタ屋稼業時代はこの手のものを随分と売ったり、買ったりしたものだ。今は亡き城南電気の社長の例を出すまでもなく、随分と怪しい筋の連中が、進駐軍の横流し品の如く、現ナマを振りかざしていた現場を渡ってきたのだが、今でも変わらない光景が繰り広げられているのだろう。質屋系にしてもドンキ系にしても、そうした体質で商いをやってきた以上、銀座のブランド通りに店を出したところで、それはそれなのだが、売るのが「モノ」なのか「ブランド」なのかという問題は、ハイソなお方たちにとってはゆゆしき問題である。そこで「ブランドをもっていい人、悪い人」という選別が仕掛けられる訳だが、その根拠となるのが、ヨーロッパでは普通のOLや学生が持ったりはしないという「階級闘争」である。そこでパリの直営店に群がる日本人女性に眉を潜めて優越感に浸ったところで、日本人女性で貴族として認めてもらえるのは雅子さんくらいなものだったりもする。これがもっかのところブランドを巡る議論の中心になっていることもあり、著者は「ブランドの条件」をタイトルにすることで、ブランドの本質を見極めろと言いたかったのかもしれない。職人とかデザイナー、模造品の存在といった本質はまあ普通なのだが、日本人がブランド品を持っていいのか悪いのかという答えもちゃんと出している。それは「日本の前にアメリカがあった」ということ。スゲー説得力だ。そうなると「日本のあとに韓国、台湾があり、その後、中国がある」というのも自明のことだ。やがて、それが一周して「階級社会」のヨーロッパに逆上陸する日が来るのかもしれない。
★★