
Roots of TWO-J #38 "スランプ "
真剣にこういうことを考えだして
負のループ的なとこを引き出してしまうときがある。
例えば、
今まで聞いてくれてた世代が音楽を聞かなくなったのか、
時代が移動して、シーンが変化したのか、
俺がいい音楽を作れなくなったのか、
どこか飽きてしまったのか、
何かに疲れてしまったのか、
音楽では飯が食っていけなくなったのか、
自分は登って来たひと山の下りに差し掛かったのか、
色々とピントがズレ始めたのか、
人生ずっとうまくいくシーンばかりでは無い。
この2013年以降、今思えばなんとなくバイブスが下がって行った気がする。
理由を見つけて、何かのせいにするのなら、
なんでも当てはめれたのかも知れない。
今書いてても、ネガティブだなーと捉えれるような事柄だとも思うけど。w
けどそんなもん、自分の頑張りが足らんのだと思うようにする性格もあるけど、
少なからずこのジャンルでは、気を張って過ごさなければならない部分が多いので、
精神力も大いに必要になる。
ずっと戦いながら生きてれば、誰もが、疲れたり、立ち止まって考えたりする場面も訪れるのは当たり前な話だと思う。
周りからどう励まされようが、ディスられようが、
そんなことより何より、自分のスランプとの戦いを抜け出さなければ、
何も向上しないまま、時間が過ぎてしまう。
それが一番命取りだ。
気が付けてるだけでも自分にとってはまだ救いようがある話だけど。
そんな精神世界と現状の狭間で葛藤するようなマインドが時折出ては消えを繰り返す時期もあった。
今思えば、その性格は"例の"後遺症か?とも思ったりできるけど、w
いや、そんなんじゃ無い、の繰り返しが時折あった。
なんなら今でもあるかも。
けど、大きく考えれば、真逆に、こんなことすら後に曲にしてアートに変換して排出できるのなら、アーティストの特権だと捉えるのもある意味面白い。
当然、歳を重ねて成長もすれば考え方も変わってくる部分もある、
どこかで葛藤しながら、いい音楽が作れるわけがなかった。
そんな中、縁あって地元のFM局でのラジオプログラムをやらせてもらってた時期があったけど、そこは楽しく自分でいさせてもらえた場所だった。2〜3年続けさせてもらった。そんな場所を与えてもらいつつも、アルバムも製作しなかったし、なんか、なんとなく次を作れないまま時間が過ぎてしまった。
そういながらも、いつもなんか新しいことというか、音楽というか、
面白くなれるものを模索する思考は捨ててはいなかった。
細かいけど色々動きながら年数をこなした。
そんな感じのレーンを辿りながら過ごして、
いつもこれまで大きな衝撃は意表をついてやって来たけど、
次の衝撃は予想もできなかったというより、意識したことも無かった。
また自分にとって戦わなければいけない場面が急に訪れてしまった。
自分が大病をするとは思いもしなかった。
話は有無も言わさず次の大きな場面に強制的に移動した。
ここからの体験は別の特別な経験だ。
TWO-J's NEW OLD RADIO
いつもブログ読んでもらってありがとうございます。
今週末ブログ休みます。
その代わりと言ってはなんですが、
TWO-JのYOUTUBEチャンネルにコンテンツをアップロードしました。
過去の自分の製作楽曲を色々ピックアップしてコンパイルしたプレイリスト、
TWO-J's NEW OLD RADIO Vol.1を作成しました。
フィーチャリング、プロデュース、レコーディング等、
自分が携わった作品からのワークスミックス的な感じです。
いろんな時間のお供に是非。
チャンネル登録も宜しくお願いします。
YOUTUBE / TWO-J OFFICIAL CHANNEL
Roots of TWO-J #37 " 1Round "
1995年あたりの話から2013年まで来た。
2013年にアルバム "ONE LIFE"をリリースして、
DJ QUIKとの楽曲が世に出た頃、
海外のアーティストからのビートメイクやフィーチャリングのオファーが一気に増えた。
YouTube上にアップされたQUIKと俺の曲について、世界のいろんなところからのコメントが寄せられてた、コメントの多くに面白い現象があった。
そのほとんどが海外の人々のコメントだった。
簡単に言うと、
さすがQUIKのトラック、とか これこそDJ QUIKのサウンドだとか。
いや、俺の作った音なんだけど。
その反面、マニアックな海外のファンは、
いや、これは日本のTWO-Jが作った音だ、
とか説明入れてくれてたけど、
どうやら海外の大半の人は
そんな訳ない、これはDJ QUIKの音だ、
とか論争が繰り広げられていた。
逆に言えば、俺の音をみんながDJ QUIKの音だよ言い張るくらいなのだから、
今回の曲の音は俺のオマージュがDJ QUIKばりな音に完成したと言う証明だと思えば、してやったりなのだ。
DJ QUIKの世界的な影響力の半端なさを改めて実感した。
けど少し敏感な人は、この誰だかわからない日本人のことを少し調べてくれたのだろう、
俺の製作だとわかった人々からのメッセージは増えていった。
それからはアメリカだけじゃなく、ヨーロッパ系のオファーが結構沢山あった。
ONE LIFEリリース前に俺はLAに再び戻った。
アルバムに収録した" California Cruising "のMV撮影のためだった。
ここでも菊池さんの多大なる協力の元にLAでのMV撮影が行われた。
見てもらえたら嬉しいがおかげで最高なMVが完成した。
今回のLA旅には 一緒に同行した人がいる。
そう、彼こそ、このストーリーの最初に登場する男だ。
あの溜まり場で一緒にいつも遊んでた仲間。
全てはあそこから始まってる。
彼はTATTOOアーティストだ。
今回、ロングビーチで行われるタトゥーコンベンションに日本から参加していた。
すごく大きなタトゥーコンベンションで世界中からアーティストが集まるようなイベントだった。日本からの参加は数名だったと思う。
彼は、TATTOOアーティストへの道をひたすらオリジナルに歩んで、海外でTATTOOを彫るに至るまでになっていた。
96年とか毎日のように一緒にいた、途中からしばらくの間、それぞれの道に励んでたから何年かあっていなかった時期があった。
昔、離れるときに、俺の意思を書いた手紙を渡した。
TATTOOで有名になってくれ、とか、俺は自分の音楽で夢叶えるから、とか
そんな感じのことを書いてた気がする。
離れていても応援していたし、時が経ったら、お互いの名を別のところから聞く位、自分の事を成し遂げていた。
10年後くらいに再会した時に、彼がその手紙を持っててくれたことがめっちゃ感動したのを覚えている、そして晴れて、あの96年頃からの少年たちはそれぞれのなりたいものになって、溜まり場でいつもVHSで見ていたあのカリフォルニアに、今度はプレイヤー側となって一緒に立ったのだ。
俺の仲間でここまでしっかり自分の夢を形に成し遂げたアーティストな友人はいない。
俺は静かながらにとても誇りに思っている。
今思えば、
この辺で一旦俺のある程度の夢は叶っていたんだと思う。
大げさに言えば、との時が俺にとって一旦リセットだったのかもしれない。
この時既にスーパーマリオのスターのタイムリミットは迫っていたのかも知れない。
