
Roots of TWO-J #37 " 1Round "
1995年あたりの話から2013年まで来た。
2013年にアルバム "ONE LIFE"をリリースして、
DJ QUIKとの楽曲が世に出た頃、
海外のアーティストからのビートメイクやフィーチャリングのオファーが一気に増えた。
YouTube上にアップされたQUIKと俺の曲について、世界のいろんなところからのコメントが寄せられてた、コメントの多くに面白い現象があった。
そのほとんどが海外の人々のコメントだった。
簡単に言うと、
さすがQUIKのトラック、とか これこそDJ QUIKのサウンドだとか。
いや、俺の作った音なんだけど。
その反面、マニアックな海外のファンは、
いや、これは日本のTWO-Jが作った音だ、
とか説明入れてくれてたけど、
どうやら海外の大半の人は
そんな訳ない、これはDJ QUIKの音だ、
とか論争が繰り広げられていた。
逆に言えば、俺の音をみんながDJ QUIKの音だよ言い張るくらいなのだから、
今回の曲の音は俺のオマージュがDJ QUIKばりな音に完成したと言う証明だと思えば、してやったりなのだ。
DJ QUIKの世界的な影響力の半端なさを改めて実感した。
けど少し敏感な人は、この誰だかわからない日本人のことを少し調べてくれたのだろう、
俺の製作だとわかった人々からのメッセージは増えていった。
それからはアメリカだけじゃなく、ヨーロッパ系のオファーが結構沢山あった。
ONE LIFEリリース前に俺はLAに再び戻った。
アルバムに収録した" California Cruising "のMV撮影のためだった。
ここでも菊池さんの多大なる協力の元にLAでのMV撮影が行われた。
見てもらえたら嬉しいがおかげで最高なMVが完成した。
今回のLA旅には 一緒に同行した人がいる。
そう、彼こそ、このストーリーの最初に登場する男だ。
あの溜まり場で一緒にいつも遊んでた仲間。
全てはあそこから始まってる。
彼はTATTOOアーティストだ。
今回、ロングビーチで行われるタトゥーコンベンションに日本から参加していた。
すごく大きなタトゥーコンベンションで世界中からアーティストが集まるようなイベントだった。日本からの参加は数名だったと思う。
彼は、TATTOOアーティストへの道をひたすらオリジナルに歩んで、海外でTATTOOを彫るに至るまでになっていた。
96年とか毎日のように一緒にいた、途中からしばらくの間、それぞれの道に励んでたから何年かあっていなかった時期があった。
昔、離れるときに、俺の意思を書いた手紙を渡した。
TATTOOで有名になってくれ、とか、俺は自分の音楽で夢叶えるから、とか
そんな感じのことを書いてた気がする。
離れていても応援していたし、時が経ったら、お互いの名を別のところから聞く位、自分の事を成し遂げていた。
10年後くらいに再会した時に、彼がその手紙を持っててくれたことがめっちゃ感動したのを覚えている、そして晴れて、あの96年頃からの少年たちはそれぞれのなりたいものになって、溜まり場でいつもVHSで見ていたあのカリフォルニアに、今度はプレイヤー側となって一緒に立ったのだ。
俺の仲間でここまでしっかり自分の夢を形に成し遂げたアーティストな友人はいない。
俺は静かながらにとても誇りに思っている。
今思えば、
この辺で一旦俺のある程度の夢は叶っていたんだと思う。
大げさに言えば、との時が俺にとって一旦リセットだったのかもしれない。
この時既にスーパーマリオのスターのタイムリミットは迫っていたのかも知れない。