初詣、可能性はゼロではない & 『阿片の中国史』 | Hiroshiのブログ

Hiroshiのブログ

今後不定期投稿となります

<初詣>

いつも宇美神宮の駐車場は満杯なので、図書館(地図では町立住民福祉センター)前に駐車。


例年通り、そこから逆ルートで参詣。


人の少ない時間帯に、丘の上の宇美公園にある「奥の院=上宮」から、逆方向に下りながら進む。ここまで来る人は殆どいない。地元民だけの参詣スポット?

 

 

 

 

先に「奥の院」で仕事を済ませた宮司さん二人が見える。更にその先に宇美八幡宮の森が広がる。 

鴨が餌を探している宇美川を渡る。

 

八幡宮は列をなして参詣者でごった返してるので素通りして、


一路「井野公園」にある頓宮に向かう。


ここで参詣して同じ道を引き返す。 合計5km、6,496歩、6階分。殆どいつもの坂道散歩と変わらない。
 
途中で幾つか興味あるものを再発見。これはまた明日にでも。

*重要メモ: 
役場前の駐車場が参詣客に解放されていた。場所は黄色○。図書館前よりはるかに近い。次回からここにしょう❗️
 

 

 

 

<元旦のNHK-BS番組>

モンテネグロの渓谷に生まれる「白い大蛇」

 

 

 

「白い大蛇」が生まれる為の4つの条件。

(1)霧が出来る為の湿度

(2)川の冷たさと空気の温度差

(3)高気圧で谷に向かって下に空気が押されること

(4)風で空気が谷に沿って流されること

 

地元の人でも滅多に見ることができないそうだ。それを自宅で観れるのは、素晴らしい。受信料払ってOKの番組。

 

因みにモンテネグロは「ネグロ」は黒の意味。森林の色と関係ありそうだ。

 

 

 

 

 

<103万円の壁?>

正月休みは勉強もせず、読書三昧と言いたいところだが、意外とこれが上手くいかない、時間を持て余す。時間に余裕がありすぎると私の場合ダメみたいだ。現役時代も「寸時を惜しんで」の方が読書も進んだ気がする。それとも単に加齢による脳機能の低下か?

 

そんな、こんなで、暇を持て余したので、いつもは素通りのファミレスに寄ってランチ。適当に注文しながらスマホで遊んでいたら。店内でも注文がQRコードから出来ることに気がついた。

 

確かに広い店内にウエイトレスさんは一人しかいない。注文もスマホで出来てこのファミレスは料理も予め工場で準備、処理されたものを温めたり、揚げたりするだけだと聞いていたので効率いいだろう。そのうち、配膳もロボットになるかもしれない。


料理はあまり普段食べないフライ系を注文した。千円以下でこれだけ提供できるのは優秀だ。ここにも工夫が見られる。

 

今後、ドンドンこうした方式が広がるだろう。何しろ今や日本は人手不足。そう言えば大晦日のショッピングセンターで何時も利用しているカフェは閉店だった。年末でお客さんは凄く多いのに「何でかな〜?」と不思議に思ったが、もしかすると、これは「103万円の壁」の所為かもしれない。

 

玉木によれば、年度末になるとこの「壁」で主婦や学生さんの働き控えが増えて人手不足で困る飲食店とかが出てくるとか。

 

…しかしこれは必ずしもネガティブに捉える必要はない。人手不足はこうしたファミレスのようにスマホ注文・決済で、ロボット配膳で活路を開けば新たな道が拓けるはず。 


…少なくとも清朝末期の失業者の大群の時代よりはいいはず。<相変わらず頭の中は「清朝危機」びっくりガーン笑い泣き

 

人手不足を下手に外国人労働者に頼るよりも、DX化、ロボット化で日本は世界の先進国に復活できる可能性がある。

 

可能性はゼロではない


そんな事を正月早々考えたキョロキョロてへぺろ

 

 

 

 

『阿片の中国史』

TAN Romi著、新潮社133、 2005年初版。

 

先日『人口の中国史』を漸く読み上げたが、引き続き『阿片の中国史』という同じような題名の本を読み始めた。題名の類似、それだけではない。共に興味の中心が清朝にあるという点で共通点がある。

 

いつも新書を読むという方針をあえて今回は止めて、20年前の本を読む。理由は上に挙げた通り。清朝末期というのは、超大国がその表面的繁栄の裏に脆さを抱えた事例、今の日本にも参考になるはずえーん

 

当時の上海を描いた小説『阿片の今昔』1937年版によれば阿片窟は現地で「煙館」と呼ばれ、上海で最盛期1,700軒あったとか。p13

 

著者は国丸ごと「阿片漬け」にされたのは中国だけだという。p15

 

確かに日本で阿片は流行しなかったし、産地であるインドもそのようなことは聞かない。中国でも「禁止されていたにもかかわらず」である。しかも清は当時の超大国。何故なのか? これがこの本を読みきっかけ。

 

ケシが中国に伝わったのは7世紀の唐時代。「オウゾク」と呼ばれたとか。オウは古代の甕を示す。ケシの形状を示す。p19

 

以前、話題にした西域からのイスラム陶器の中にも香薬の他に、ケシが入っていたのかもしれない。

 

文宗時代(AD829〜840)の文献に出ているとか。ただし、この時点ではケシの「花」が愛でられた。p21〜22

 

宋朝時代に出た『本草図経』にも記載があるが、花としては最下位のランク、これは中国人の感性としては花に艶やかさがなかったからだろう。p24〜26

 

しかしやがて薬効が認められる。鎮痛、食欲不振に効くとされた。p27〜28 さらに1593年に出版された『本草綱目』でも記載があるが、同時に「アフヨウ」としての別の記載もあるとか。これがケシの花の液汁である事がようやく知られた。p31