今年のテーマとしての、レジリエンスとダイアローグ | Hiroshiのブログ

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謹賀新年

 

 

<レジリエンスとダイアローグ>

Resilience & Dialog:復興ではなく弾性、討論ではなく対話

 

丁度1年前のこの日、元旦に能登で地震が起こった。日本は度々大地震に襲われる。自分自身も大して被害を被ったわけではないが福岡西方沖地震を地元で経験した。しかし、何より強く印象に強く残っているのは、阪神淡路大震災、東日本大震災とそれに続く原発事故。そして1年前のこの能登地震。

 

前の2つの地震に比べ能登の地震はそれほど大きいものではないにしても、その持つ意味という点で自分的には大きかった。


神戸の地震は「安全神話の崩壊」という意味で、東日本は「日本は変わらなければならない」という意味で。そして能登の地震は「真のレジリエンスとは何か?」ということを考えたという意味で。

 

レジリエンスは単に元に戻る、回復、復興ではなく。自然の大きな脅威に対し人は弾性力を持って対応しなければいけないと確信した。人の力の限界を認識して、しなやかに変身することだと考える。

 

 

 

一方、世界を見渡すと去年はあちこちで紛争が拡大した。ガザを中心として中東では戦火が今も拡大しているし、ウクライナ戦争はまだ先が見えない。こうした争いは何から来るのか?

 

日本では中東の紛争については、圧倒的にパレスチナ側に同情する意見が多いように見受けられるが、そもそものきっかけはハマスのテロだ。


また、ウクライナの戦争は何故か完全にウクライナ寄りの報道ばかり。ロシアのいう「ロシア系住民の保護」や「ネオナチ討伐」と言った言葉は全く聞かれない。

 

それぞれに正義がある。それを振り回して討論、Debateしても、「どちらが正しいか」の議論になり平行線になるだけ。その間、人命は失われ続けている。同じような争いがこの日本周辺で、東アジアでいつ引き起こされないとも限らない現状を考えるとDebateではなく、Dialogをと思わざるをえない。

 

Dialog、対話は合意を求めることで、これを妥協=「負け」と捉えるのは間違っている。自分の正義を振り回すのは原理主義と変わらない。


様々な価値観があり、それぞれの正義があるという立場に立ち、最善の合意点を探る。それが人の知性だと信じたい。

 

 

 

レジリエンスとダイアローグ、これを今年のテーマとしたい。