2段階の産業革命 & 『経済成長の起源』11 | Hiroshiのブログ

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<昨夜のSalson>

特別パホーマンスでインドダンス。ラテン系とは違うけど… 


昨夜は目的達成。インドダンス系の初めての方が沢山来られたせいか?


天神の夜は美味しそう。100円の生ビールてあり?




<2段階の産業革命>

『経済成長の起源』の本の中で重要なことが書かれていた。それはイギリスで産業革命がスタートする18世紀中頃から100年以上の間、GDPの伸びは顕著だったが、1人当たりのGDPは殆ど増えていない。つまりここまではマルサスの罠に囚われていたということ。これが解き放されるのは19世紀後半。図8−1、p267

 

こうしたことから、どうもこの当時の産業革命を2つの段階に分けているようだ。つまり、人口の急増によるGDPの増大と、生産性向上が相乗的に加わる第2段階があると。人口の急激な増加には前に農業革命があったような? 

 

こうしたことは今まで聞いたことがない。少なくとも私の習った高校世界史では無かった。こうしたことが定量的に明らかになったのは上記の報告、2015年の研究によるものみたいなので当然かもしれない。

 

 

 

 

再び『経済成長の起源』を再開。

 

『経済成長の起源』11

6章では植民地の影響が語られる。ここで予め著者らの結論を述べると、

 

『植民地時代の遺産は実に暗澹たるものばかりだ』という点だ。p227

 

以下は私の考えで著者が述べていることではない。

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それは、しばしばある論者が口にする、植民地支配で良い遺産も沢山残したという議論だ。例えば日本に関して言えば、

 

『日本の台湾統治は台湾に様々な良い遺産を残した。つまり日本統治で台湾のインフラは良くなった』という一連の話だ。

 

まずこれらは論理的に破綻している。何故なら、

 

<日本統治の歴史がない台湾が存在しない以上、比較が出来ない> という単純な点。

 

あるいはイギリスのインド植民地に関して、『イギリスが直接統治をした地方と蕃王国の比較において、直接統治の方が独立後もインフラが発達し、経済的に豊かだ』という議論に見られるもの。

 

これも、イギリスが直接統治をしなかった理由が資源(人的及び自然)に魅力がなかったとか、アクセスが内陸などで困難だった、気候が過酷だったなど、そもそも不利な地方であった可能性がある。完全な比較が出来ないケースを取り上げ比較して議論するのは論理が破綻している。こうした議論がプロの研究者間で平然と唱えられるのも社会学、歴史学がハードサイエンスでない事からだといつも思う。

 

素人がまた傲慢咬ませますてへぺろニヤリえー

 

いずれにせよ、こうした議論は植民地政策を弁解、擁護できるものではない。私が受け入れやすいのは寧ろ、「ウイリアムズ仮説」と呼ばれたものだ。カリブ史を学ぶ中で知った仮説。

 

ここでも彼の仕事が紹介されている。p200 彼の本も超〜お薦めの1冊とした。

 

 

 

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話を本に戻すと、

 

最初の問いは、イギリスは植民地がなくても産業革命を起こすことができただろうか?というもの。p195 勿論、広大な植民地を獲得してもスペインやポルトガルは産業革命に出遅れた。十分条件ではないことは明らか。

 

先に挙げた「ウイリアムズ仮説」では植民地支配が植民地の発展を阻害したというものだが、ここで著者はインドはイギリスの支配よりも前にインド経済は衰退に入っていて、植民地支配が壊滅的な影響を与えたという直接的証拠はないという、ややウイリアムズ仮説に距離を置く立場。p200

 

唯、奴隷制度がアフリカに与えた影響は大きく、奴隷狩りや、誘拐、騙しなど、深刻な「不信と不安の文化」をアフリカに残したことは後世にも大きな悪影響を与えたという。p206

 

そう! 奴隷貿易はサブサハラで盛んで、ヨーロッパ人はこうした悪環境では積極的に現地で行動せず、(事実入植者の死亡率は極めて高かった)p209 アフリカ人にアフリカ人の奴隷を集めさせ、売り飛ばさせた。アフリカ人による奴隷交易だ。

 

ここでアセモグルはいう「運命の逆転」現象が起こる。つまり内陸部、交通の便が悪い場所は奴隷制の収奪を受けずに比較的資源(自然および人的資源)が保たれた。p210