【平成31年3月2日(土)】
【北朝御座所】 正平9年(1354年)- 正平12年(1357年) 所在地:大阪府河内長野市天野町996金剛寺 観蔵院
北朝初代 光厳天皇 在位:元弘元年(1331)~元弘3年(1333)
北朝第2代 光明天皇 在位:延元元年(1336)~正平3年(1348)
北朝第3代 崇光天皇 在位:正平3年(1348)~正平6年(1351)
こちら北朝御座所は拝観出来ました。
杉苔が見事な枯山水庭園
奥殿
賀名生に移された上皇3名と直仁親王は、正平9年(1354年)3月には河内金剛寺に移され、塔頭観蔵院を行宮とされた。10月になると南朝の後村上天皇も金剛寺塔頭摩尼院を行宮とした。だが、正平10年(1355年)には光明上皇のみ京都に返される。金剛寺で3年あまりの抑留生活を送るが、南朝勢力が衰微して講和へ傾くようになると、正平12年(1357年)2月に光厳院、直仁親王とともに帰京する。不測の事態で皇位を追われた崇光院と、やはり偶然に皇位についた後光厳との関係は微妙なものがあり、応安3年(1370年)8月にいたって後光厳が自らの子息緒仁への譲位を望むと、両者の関係は決裂した。即位の事情から天皇としての正統性を疑われており、緒仁を正式に皇太子に立てることもできなかった後光厳に対し、崇光は自らの皇子栄仁の即位を要求して争った(直仁親王は既に出家)が、管領細川頼之が指導する幕府の不介入方針もあって、最終的には後光厳に押し切られ、後光厳から緒仁への譲位が実現した。後円融天皇である。さらに永徳2年(1382年)4月に後円融が皇子幹仁(後小松天皇)に譲位しようとしたときも、崇光は栄仁の即位を要求したが、このときは逆に将軍足利義満が積極的に紛争に介入し、後円融を強く支持したため、栄仁の即位は実現しなかった。