北朝第3代 崇光天皇 大光明寺陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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【平成29年6月26日(月)参拝】

 

引き続き、第3代崇光天皇

 

崇光(すこう)天皇陵  御陵名:山国陵  陵形:円丘

所在地:京都府京都市伏見区桃山町秦長老

 

               

 

               

 

               

 

                               

               

                               

 

崇光天皇(すこうてんのう、建武元年4月22日(1334年5月25日) - 応永5年1月13日(1398年1月31日))は、南北朝時代の北朝第3代天皇(在位:正平3年10月27日(1348年11月18日) - 正平6年11月7日(1351年11月26日))。諱を益仁(ますひと)といい、後に興仁(おきひと)と名乗った。光厳天皇の第一皇子。母は、陽禄門院(内大臣正親町三条公秀の娘秀子)。

暦応元年(1338年)に立太子。貞和4年(1348年)10月27日に叔父の光明天皇から譲位され即位。父である光厳上皇が院政を執った。足利家の内紛から観応の擾乱が起こると、観応2年(正平6年、1351年)には尊氏が南朝に帰順することで正平一統が成立し、北朝は消滅。11月7日にいたって正式に廃位された。また皇太子直仁親王(花園天皇皇子)も廃された。

正平7年(1352年)2月、南朝は京都から足利義詮の軍勢を排除して占領下においた。このとき、光厳・光明・崇光の3上皇及び廃太子直仁ら北朝の主だった皇族は南朝の本拠である賀名生へ拉致された。正平一統は破綻し、北朝は天皇の候補者となる皇子・次期天皇の任命権者である上皇(治天)のいずれも南朝方に連れ去られてしまったため、再興に多大な困難が生じた。たまたま南朝による拉致をまぬがれた光厳の第3皇子弥仁が擁立され、祖母広義門院光厳に代わって任命する形式をとって即位した。これが後光厳天皇である。

賀名生で2年、河内金剛寺で3年あまりの抑留生活を送るが、南朝勢力が衰微して講和へ傾くようになると、延文2年(1357年)に光厳院、直仁親王とともに帰京する。不測の事態で皇位を追われた崇光院と、やはり偶然に皇位についた後光厳との関係は微妙なものがあり、応安3年(1370年)8月にいたって後光厳が自らの子息緒仁への譲位を望むと、両者の関係は決裂した。即位の事情から天皇としての正統性を疑われており、緒仁を正式に皇太子に立てることもできなかった後光厳に対し、崇光は自らの皇子栄仁の即位を要求して争ったが、管領細川頼之が指導する幕府の不介入方針もあって、最終的には後光厳に押し切られ、後光厳から緒仁への譲位が実現した。後円融天皇である。さらに永徳2年(1382年)4月に後円融が皇子幹仁(後小松天皇)に譲位しようとしたときも、崇光は栄仁の即位を要求したが、このときは逆に将軍足利義満が積極的に紛争に介入し、後円融を強く支持したため、栄仁の即位は実現しなかった。応永5年(1398年)1月13日、失意のうちに65歳で死去した。

なお、没後30年目の正長元年(1428年)、貞成親王の子で、崇光の曾孫に当たる彦仁王(後花園天皇)が、2人の息子に先立たれて後継者を失った後小松院の猶子として即位し、崇光の皇統が意外なかたちで復活した。その後も後花園の正式な父親は後小松なのか貞成なのかをめぐって議論が起きるなど、不安定要素は残ったが、貞成が天皇の実父として太上天皇の尊号を獲得するにいたって、ついに崇光の皇統が正統な皇統として定着することになった。ちなみに貞成が死後に上皇として贈られた諱はその名も後崇光院であった。 (参考文献: 2017年4月10日付ウィキ抜粋

 

【治仁王】

伏見宮治仁王(ふしみのみやはるひとおう 建徳元年(1370年) - 応永24年2月12日(1417年2月28日))は、南北朝時代、室町時代の日本の皇族。世襲親王家の一つ、伏見宮第2代当主。

父は栄仁親王、母は三条実治の娘、藤原治子(西御方)。伏見宮第3代当主の貞成親王は兄弟。崇光天皇は祖父にあたる。

応永15年(1408年)に元服。応永23年(1416年)11月に父栄仁親王が薨去すると宮家を相続するが、わずか数ヶ月で急逝した。このため治仁王の跡を継いだ貞成王に兄を毒殺した嫌疑がかけられたが、後小松上皇や4代将軍足利義持への弁明が功を奏して安堵を受けている。 

(参考文献: 2014年4月21日付ウィキ抜粋)

 

このあとは深草北陵へ

 

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