北朝第2代 光明天皇 大光明寺陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
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【平成29年6月26日(月)参拝】

 

今日も梅雨の貴重な晴れ間を使って巡礼に行ってきました。

 

最寄りは、JR「桃山」駅。駅からは南東徒歩3分。 ホームからも見える美しい御陵です。

               

 

               

 

               

 

光明(こうみょう)天皇陵  御陵名:大光明寺陵  陵形:円丘

所在地:京都府京都市伏見区桃山町秦長老

 

               

参道入口から約170mの長~い参道

 

               

 

               

左が光明帝、右が崇光帝

 

               

 

               

せっかくの綺麗で立派な御陵なのに歴代天皇に数えられないのは一抹の寂しさがあります…。

 

光明天皇(こうみょうてんのう、元亨元年12月23日(1322年1月11日) - 天授6年6月24日(1380年7月26日))(在位:延元元年8月15日(1336年9月20日)- 正平3年10月27日(1348年11月18日))は、南北朝時代の北朝第2代天皇である。諱を豊仁(ゆたひと)という。後伏見天皇の第2皇子。母は、西園寺公衡の娘寧子

後醍醐天皇建武の新政から離反した足利尊氏が湊川の戦いで宮方に勝利し、延元元年(1336年)に京都に入ると後醍醐天皇は比叡山延暦寺に逃走する。後醍醐天皇の代わりに8月15日に豊仁が三種の神器の無い状況で光厳上皇の院宣により即位して光明天皇となり、北朝が成立する。

後醍醐天皇恒良親王に三種の神器を渡し皇位を譲った上で、足利尊氏と和解し京都に戻った。そこでもう一組の三種の神器を北朝に譲り渡した。この時点で光明天皇の「神器なしの即位」という点はクリアされた。が、後醍醐天皇は12月21日に吉野に逃れて南朝を設立して南北朝が成立する。この時、後醍醐天皇は北朝に渡した三種の神器は偽物であると称した(この段階で三種の神器が3組も存在したことになるが、状況的にこの時の吉野潜行に三種の神器を帯同していく猶予はなかったと考えられ、実際に後の正平の一統後村上天皇は北朝の神器を奪還している)。

正平3年(1348年)10月27日に光厳上皇の第1皇子崇光天皇譲位した。上皇になった後は、正平7年(1352年)に足利氏の内紛である観応の擾乱に乗じて後村上天皇の軍が京都の足利義詮を追い都を奪回した際に、光厳上皇と共々南朝に捕らえられる。南朝による正平一統が行われると以後は南朝方により大和国賀名生(奈良県五條市)に軟禁される。

正平10年(1355年)に京へ戻り、以後は落髪して仏道に入ったとされる。天授6年(1380年)6月24日、崩御した。

 

(参考文献: 2017年6月10日付ウィキ抜粋)

 

 

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