北朝初代 光厳天皇 山国陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
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【平成29年6月20日(火)参拝】 

 

南朝4代のあとは、時代を少し遡って北朝5代を辿っていきます。

 

山国陵は常照皇寺の境内にあり、公共機関では中々辿り着けない難所なので、またまた車で行って来ましたが、これがまた結構遠かった…。(自宅から2.5h)

ちなみに公共機関だと京都駅から西日本JRバスで周山下車(約1.5h)、京北ふるさとバスで山国御陵前下車(16分)、徒歩7分です。

               

駐車場はこの左側にあります。(無料)

 

               

御陵参道は山門手前から右に続いています。

 

               

苔むした参道は風情があっていい。                 約200mの参道

 

                            

御陵は境内の一番奥にあります。

 

光厳(こうごん)天皇陵 御陵名:山国陵  陵形:円丘

所在地:京都府京都市右京区京北井戸町丸山14-6 常照皇寺内

 

               

 

               

                                       一般参拝者はここまで(一般拝所)

 

               

 

               

崩御翌日に常照皇寺の後山で火葬、そのまま陵とした。遺勅により、陵上に松柏が植えられたという。「常照寺後山陵」とも称されたが、幕末修陵の際に現陵号に改定した。なお、分骨所が大阪府河内長野市天野町の金剛寺、髪塔が京都市右京区嵯峨天竜寺北造路町の金剛院にある。

 

光厳天皇(こうごんてんのう 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年7月7日(1364年8月5日))は、鎌倉時代末期の持明院統の天皇(在位:元弘元年9月20日(1331年10月22日) - 元弘3年5月25日(1333年7月7日))。諱を量仁(かずひと)という。

持明院統後伏見天皇の第三皇子。母は女御寧子(左大臣西園寺公衡の娘、広義門院)。叔父花園天皇猶子となる。

 

後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇125代の内には含まれず、北朝初代として扱われている。ただし、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた2代15年の間、光厳上皇治天(皇室の長)の座にあって院政を行った。

光厳天皇(量仁親王)が生まれた時代には、鎌倉幕府の裁定で持明院統大覚寺統から交互に天皇を立てていた(両統迭立)。正安3年(1301年)1月、量仁の父後伏見天皇大覚寺統後二条天皇譲位したが、時に13歳の後伏見にまだ子は無く、皇太子に立ったのは後伏見の弟で5歳の富仁親王(花園天皇)であった。7年後の徳治3年(1308年)8月、後二条が24歳で急死し、花園即位する。この時点でも後伏見の嫡男量仁は生まれておらず、また大覚寺統嫡系の邦良親王(後二条皇子)も未だ9歳で病弱でもあった。そこで、後二条の弟で21歳の尊治親王(後醍醐天皇)が中継ぎ的に立太子することとなった。それから10年後の文保2年(1318年)2月、花園後醍醐譲位し、皇太子には19歳に達した邦良が立った。後伏見花園の父伏見法皇は倒幕計画の噂があり側近の京極為兼が流罪に処せられたのもそのためとする説があるなど幕府から警戒された人物で、しかも前年にじていた。一方、後二条後醍醐後宇多法皇は健在で大覚寺統の力は強く、この時6歳の量仁親王はようやく邦良の次の皇太子に立てられることとされた。ところが皇太子邦良は8年後の嘉暦元年(1326年)3月に病死し、幕府の裁定で7月24日に量仁が皇太子に立った。わが子の立太子を望む後醍醐は、裁定の無効を主張して譲位しようとしなかった。

元弘元年(1331年)8月、倒幕の企てが発覚した後醍醐は南山城の笠置山に立て籠もり(元弘の乱)、9月20日に19歳の光厳天皇即位した。父の後伏見院院政を開始し、皇太子には病死した大覚寺統邦良親王の皇子康仁親王が立てられる。後醍醐は10月6日に廃され、翌年隠岐に流された。なお、この時の光厳里内裏が現在の京都御所になっていく。

元弘3年(1333年)5月、後醍醐綸旨に応じた足利高氏(尊氏)の軍が京都の六波羅探題を襲撃、北条仲時北条時益の両探題は光厳後伏見花園を連れて東国に逃れた。しかし道中で野伏に襲われ時益は討ち死に、近江国番場宿(滋賀県米原市)でも野伏に襲われ、さらに佐々木道誉に進路を阻まれて仲時と一族432人が自決、光厳は両上皇とともに捕らえられて、三種の神器を没収されて京都に戻された。

同じ頃、関東では鎌倉幕府が新田義貞の攻撃をうけて滅亡した。後醍醐は帰京して建武の新政を開始、5月25日に光厳は在位1年半余で廃立された。しかも光厳後醍醐によって「朕の皇太子の地位を退き、皇位には就かなかったが、特に上皇の待遇を与える」として即位そのものを否定される。

 

建武新政の失敗はわずかな間に明らかとなっていった。混迷が拡大する中、倒幕の二大功臣である足利尊氏と新田義貞の確執が深まり、互いに相手の誅伐を求めて後醍醐に奏上するに至るが、けっきょく追討の宣旨は義貞の得るところとなった。建武3年(1336年)2月、尊氏は義貞に敗れて九州に落ち延びたが、光厳院から義貞追討の院宣を獲得して盛り返し、後醍醐方を破って上洛する。8月15日、光厳の院宣により弟豊仁親王(光明天皇)が即位光厳治天の君として院政を開始した。一方、三種の神器を譲与して幽閉された後醍醐は、12月に京都を脱出して大和国吉野に拠り、神器は偽物で光明の即位も無効と主張した。ここに大覚寺統南朝)と持明院統北朝)の天皇が並立する南北朝時代が始まった。これとほぼ同時に室町幕府も開かれたが、光厳院政は積極的に政務を展開した。

吉野に拠った後醍醐は暦応2年(南朝延元4年、1339年)8月にじたが、それまでに後醍醐の主だった武将も相次いで戦死しており、南北朝の初期段階で早くも大勢が決した観があった。ただ、二人の天皇が並び立ち互いに相手を偽主と呼ばわる状況で、しかも神器と即位の無効を主張された北朝側の正当性や権威のゆらぎは否めず、暦応3年(1340年)10月、光厳院の弟亮性法親王が門跡として入る妙法院の紅葉の枝を折って咎められた佐々木道誉は、妙法院を焼き討ちにして幕府から流罪に処せられた。

正平3年(1348年)10月27日に第一皇子である崇光天皇即位し、光厳は治天として引き続き院政を行った。このとき、叔父花園上皇の皇子直仁親王光厳の猶子として皇太子に立てられたが、遡って興国4年(1343年)4月13日付で崇光に宛てた「光厳上皇宸翰置文」の中で、光厳は直仁の実の父親であると告白し、崇光の皇位は一代限りとし、以後は直仁の系列に皇位を譲るよう記されている。この置文は長らくその存在が秘され、研究者の間でもそのまま事実として受け入れられていなかった。しかし、多くの神仏の名にかけて誓約する真剣さや、信頼性の高い系図である「田中本帝系図」に直仁が光厳院第二皇子とされていることから、この内容は真実だと考えられる。

この間ほとんど逼塞状態にあった南朝方だったが、幕府内の対立が観応の擾乱に発展すると息を吹き返す。

正平6年(1351年)11月、将軍尊氏は優位に立つべく南朝後村上天皇に帰順し、北朝は廃止され(正平一統)、後醍醐から偽物と言われた神器も南朝側に接収された。明くる正平7年(1352年)2月、京都を奪回した南軍は、光厳光明崇光の三上皇と皇太子直仁親王を拘禁する。その後一統が破れると、撤退する南軍によって三上皇と直仁は山城国男山(京都府八幡市)、さらに南朝本拠地である大和国賀名生(奈良県五條市)に拉致された。

かねてより夢窓疎石に帰依していた光厳院だったが、8月に賀名生で出家し、法名を勝光智と称した(後に光智に改める)。南朝の軟禁下にあること5年、正平12年(1357年)2月に河内金剛寺より還京し、深草金剛寿院に入り、ついで嵯峨小倉に隠棲。世俗を断って禅宗に深く帰依し、春屋妙葩らに師事した。

晩年は丹波山国荘の常照皇寺(京都府京都市右京区京北井戸町)で禅僧としての勤めに精進し、正平19年(1364年)7月7日、この地で崩御した。

【系譜】

典侍:藤原(三条)秀子(陽禄門院)(1311-1352) - 正親町三条公秀

 ・第一皇子:興仁親王(崇光天皇)(1334-1398)

 ・第二皇子:弥仁親王(後光厳天皇)(1338-1374)

 

 (参考文献:2017年4月10日付ウィキ抜粋)

 

常照皇寺

常照皇寺は、光厳法皇(1313~1364)によって貞治元年(1362)に開かれ、歴代天皇の帰依を得た皇室ゆかりの寺で「大雄名山萬壽常照皇禪寺」を正式名とする臨済宗天龍寺派に属する禅宗寺院です。

 朝廷が南北に分かれた頃、吉野後醍醐統と京都光厳上皇統が、武権足利を後ろ盾に60年余りも乱争しました。光厳法皇は、40歳も過ぎる頃、禅の修行の道に入り、戦亡慰霊の巡礼を重ねる途上、この地の無住廃寺を改修して小庵の和尚となったのです。そして世の静謐を祈りつつ崩御され、寺の裏山に山国陵として祀られました。

               

 

               

山門                                     勅額門

 

               

勅使門

 

書院

 

山国陵参拝後、御朱印を貰いに書院に立ち寄りましたが、どなたも居られずに断念…w。

また後花園帝の時にでも頂こう!

 

光厳天皇分骨所   光厳天皇髪塔

 

検証 天皇陵 検証 天皇陵
 
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