ニーチェ著、木場深定 訳、『道徳の系譜』の感想の続きです。
前回の記事はこちら↓
『道徳の系譜』再読中1
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今回も本のお供は、引き続き私の猫4号くんです。
ニーチェの思想を知る賢き猫くんです。
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第一論文では、貴族道徳と奴隷道徳における2種類の「よいとわるい」「善と悪い」が説明されました。
次に第二論文です。
ここでは良心の疚(やま)しさなるものがどこからやってくるか、説明されます。
まずはじめに書かれるのは、
『約束をなしうる動物を育て上げるーーーこれこそは自然が人間に関して自らに課したあの逆説的な課題そのものではないか。人間に関する本来の問題ではないか……』
(p62)
こんな風にして第二論文ははじまります。
ニーチェ曰く、健忘の力は能動的なものであるそうです。健忘は「精神的消化」とよんでもよいそうで。
くだらない邪魔なことを意識にのぼらせない阻止能力だと。
これは、なくてはならないものなのです。
しかし、我々は、それとは逆の能力、ある場合に健忘を取りはずすことを助ける記憶という能力も手にいれました。
ある場合…約束をしなくてはならない場合です。
そして、能動的な健忘の動物である我らが手にいれたからこそ、この記憶という約束をなしうる能力は
『単に一旦刻み込まれた印象から再び脱却することができないというような受動的な状態では決してなく…(中略)…再び脱却したくないという能動的な意欲であり、一旦意欲したことをいつまでも継続しようとする意欲であり、本来の意志の記憶である』
『未来としての自己を保証しうる』
(p63)
こんな力強い能力になるそうです。
そして、これこそが「責任」の系譜の長い歴史だと。
さて、この約束をなしうる動物となる為の、忘却の力に逆らう記憶という能力、これを人間が習得するまでには、なかなかたいそうな道のりがあったそうです。
忘却の力によって、その場その時でやりたいことやるべきことをやる、そんな刹那的な動物が未来に責任を持てるようになるために必要な記憶の力を手に入れるには…一体どういったことが必要かというと、
『「烙きつけるのは記憶に残すためである。苦痛を与えることをやめないもののみが記憶に残る」』
(p68)
血なまぐさい苦痛によって覚えこませる…わけですね。
ここで、ニーチェは特に刑罰をあげています。
恐ろしい刑罰によって、
『人々はついに、社会生活の便益を享有するためにかねて約束した事柄に関して、幾つかの「われ欲せず」を記憶に留めるようになる』
『この種の記憶の助けによって、人々はついに「理性に」辿り着いたのだ!』
(p68)
なかなか高い代価を払って、私達はやっと、社会生活、それに理性やら真摯やら感情の統御やら、そんなものを手に入れることができたらしいです。
さてここまでで、責任の系譜、つまり約束をできる動物はどのようにして作られたのか?というものが明らかにされました。
次は論題でもある「良心の疚しさ」「負い目の意識」がどこからやってきたのか?というところへニーチェの筆は向かいます。
負い目という、道徳上の主要概念が生まれた歴史は、「債権者と債務者との間の契約関係」から始まります。
ここで先に述べた、約束できる能力が活きてきもし、またさらに強化されてきもしますよ。これのおかげで契約を結べるし、契約を破った時には刑罰という苦痛でもってして肝に銘じられるわけですから。
『債務者は返済の約束に対する信用を起こさせるために、その約束の厳粛と神聖に対する保証を与えるために、また自分自身としては返済を義務や責務として内心に銘じておくために、万一返済しないような場合の代償物として、債権者との取り極めによって、自分がなお「占有する」他の何物かを、自分の手中にある他の何物かを抵当に入れる。』
(p71)
この時、抵当に入れられるのは自分の身体や家族や自由や死後の救いまでを含みます。
でも、これ、不思議でしょう?
だって、例えば誰かにお金を貸してあげて、それが返してもらえないからって、その人の腕なんて切り落として代わりにこれで…なんて言われたって。なんの足しにもならないはずです。
なのに、なんで、そんなものが抵当として認められるかというと。
それは、苦しませることは喜びだからです。
ニーチェ曰くの飼いならされた家畜たる近代人のデリカシーにはこれは耐えられないものですが、古代人においては違っていた。
古代の人々にとっては、
『苦しませることーーーそれは一つの真の祝祭であ』
(p73)
ったのです。
しかも、その苦しませる相手が、弱いほど、快感は増大します。
『債権者は一種の快感ーーー非力な者の上に何の躊躇もなく自己の力を放出しうるという快感、《悪を為すことの喜びのために悪を為す》愉悦、暴圧を加えるという満足感ーーーを返済または補償として受け取ることを許される』
(p72)
債権者は債務者に刑罰を与えることで、補償(快感)を得、一種の支配権を振るうのです。
そして、
『人々はまもなく「事物はそれぞれその価値を有する、一切はその代価を支払われうる」というあの大きな概括に辿り着いた。ーーーこれが正義の最も古くかつ最も素朴な道徳的基準であり、地上におけるあらゆる「客観性」の発端である。』
(p80)
債権者は、債務者を苦しませることから得る快感という形で、たとえ返済されなくとも必ず補償を得ることができる。
この快感が補償になるという保証によって、契約は可能になり、債務者と債権者の関係が生まれる。
その関係から、「正義」が生まれる…ってことですかね。
そしてこのような債権者と債務者の関係は、共同体と個人の関係にもあてはまります。
共同体は債権者であり、その構成メンバーの一人一人は債務者です。
共同体は外部の敵から構成員を保護する。
かわりに構成員は自分自身を抵当として、共同体に加わっていることで、平和に暮らすことができる。
債務者たる構成員が、抵当に入れたはずの自分自身を好きなように扱う、つまり、自分勝手な行動をおこし、債権者たる共同体への義務を放棄したとしたらどうなるか?
もちろん、債権者たる共同体は、債務者たる構成員に支払いを請求することになります。
共同体は義務を放棄した債権者=かつての共同体の構成員であり今では犯罪者ーーーの保護を解きます。
犯罪者は保護を失うことになり、あらゆる種類の敵意を受けても良い存在となる。
ここにおいて共同体の「刑罰」は、債権者と債務者の関係の模写です。
しかし、やがて共同体が力を増すにつれ、構成員個人の違背は重大ではなくなってきます。
ただ一人の個人の力が全体に対して相対的に小さくなるのです。
そうなってくると、逆に犯罪者は、その罪と個人とを分けられ、共同体全体からは保護されることになります。
『ーーー非行者はむしろ今やこの怒りに対して、殊に直接の被害者の怒りに対して、全体の側から慎重に弁護され、保護される。非行を差し当たり仕かけられた人々との妥協、事故の範囲を局限し、より広汎な、まして一般的な関与や動揺を予防しようという努力、等価物を見つけて係争全体を調停しようとする試み(《示談コンポシテイオ》)、わけても違背はそれぞれ何らかの意味で償却されうると見ようとする』
(p82)
共同体の力が大きければ大きいほど、この加害者を罰せずにおくという人情の度合いが高まります。
やがて、
『「一切は償却されうる、一切は償却されなければならない」という命題に始まった正義は、支払能力のない者を大目に見遁すことをもって終わる。』
(p83)
これは『恩恵』です。
『常に最も強大な者の特権であり、もっと適切な言葉を用いるならば、彼の法の彼岸である。』
(p83)
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ふと気づけば。
今は夜の11時過ぎです。
ありゃま、もうすぐ、今日が終わってしまう。
私は、できるだけ、一日一記事の投稿をしたいのです。
別に特に理由はありませんけど。
ただの気分の問題です。
できれば第二論文については、一記事で終わらせたかったのですけれど…時間が足りませんでした。
仕方ありませんので、これでは中途半端ですけど、続きはまた今度にしましょう。
でも、明日は、お花の記事を書きたいからなぁ。
チューリップが並んで咲き始めたんですもの!
…てなわけで、ちょっと先になると思います。
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