ニーチェ著、木場深定 訳、『道徳の系譜』を読みました。
岩波文庫の青です。








***




今回の本のお供は、私の猫4号くんです。
なかなか賢そうなお顔をしているでしょう?

彼は実は、今では、そこらの猫ちゃんたちとはちょっと違う猫ちゃんになっているのです。
なぜなら、彼はこのニーチェの『道徳の系譜』を通読した猫ちゃんとなったからです。

私の読書中、猫4号くんはよく傍にきて寝ているのですが。
今回、私、『道徳の系譜』を一度声に出して、朗読したのです。
その時も彼は私の脇にいたのです。

ですから、彼はこの本の内容を全て聞いております。

…きっと、私よりもずっと深く理解しているのではないでしょうかね?
彼の中の「力への意志」は、私よりもはるかに大きそうですもの!



***






私、この本は10年ぶりくらいの再読、及び再再読(しかも猫と朗読)になります。
つまり今回二回続けて読んだわけです(…だって、難しいんだもん)。
あ、ついでに言うなら、この記事を書きながらもう一度読んでますから、再再再読中でもあります。


確か…、10年前には『道徳の系譜』と『善悪の彼岸』をセットで読んだんじゃなかったかな?
今回もまた、この2冊をセットで読もうとしたら、『善悪の彼岸』が見つかりませんでした…。
まあ、捨ててないはずですから、どこかにはあるはず。
見つかったら読みましょう。うむ。

今回、この本を読み直してみて一番に思ったことは、すっかり忘れてるもんだなぁという、当然っちゃ当然のことでした。
てか、当時の自分はちゃんと読んだのかな?そこすら今となっては疑問なんですけれど。

ただ、ニーチェの毒舌っぷりは、思い出の中のままでした。
この人、痛烈ですね。
アイタタタと胸がちくちく痛むようなことが、力強い毒舌で書かれていますよ。

…でも、私は好きだな。
私、弱いものよりも強いものの方が好きなんですもの!
そして、闘うものが好きなのです。










本書、序言と三つの論文から成っています。

序言
第一論文 「善と悪」・「よいとわるい」
第二論文 「負い目」・「良心の疚(やま)しさ」
第三論文 禁欲主義的理想は何を意味するか


そして、タイトル見返しには、
『最近に公にした『善悪の彼岸』を補説し解説するために』
とあります。

どうも、巻末の訳者による解説を読むと、『善悪の彼岸』の世間の無理解に業を煮やしたニーチェが、我慢できずにこの『道徳の系譜』を一気に書きあげたらしいです。






序言において、

『人間はいかなる条件のもとに善悪というあの価値判断を案出したか。そしてそれらの価値判断そのものはいかなる価値を有するか。それらの価値判断はこれまで人間の進展を阻止してきたか、それとも促進してきたか。それらの価値判断は生の窮境・貧困・退化の徴候であるか。それとも逆に、生の充実・力・意志を、その勇気を、その確信を、その未来を覗かせているか。』
(p11)

なんて書かれています。
その答えが三つの論文に書かれているわけです。




***




まず第一論文では、2種類の善悪の概念、「よいとわるい」「善と悪」が説明されています。
一つは『上位の支配的種族』の貴族的な「よいとわるい」、もう一つは『下層者』の奴隷的な「善と悪」です。
(この本の訳では、漢字と平仮名を使って、2種類の善悪の概念を、分けて言葉にしています。)


貴族的な「よいとわるい」は、

『高貴な人々、強力な人々、高位の人々、高邁な人々が、自分たち自身および自分たちの行為を「よい」と感じ、つまり第一級のものと決めて、これをすべての低級なもの、卑賤なもの、卑俗なもの、賤民的なものに対置したのだ。こうした距離感の感じから、彼らは初めて、価値を創造し価値の名を刻印する権利を獲得した。』
(p22)

つまり、貴族道徳における「よい」は、自発的な「よい」なのです。自分たちは素晴らしい!だから自分たちの行いは「よい」ものだ、と。
そして、「よい」の基準が自分たちであるから、そうではないもの達は「わるい」になるのですね。



対して、奴隷的な「善と悪」は、

『彼はまず「悪い敵」を、すなわち「悪人」を考想する。しかもこれを基礎概念として、それからやがてその模像として、その対象物として、更にもう一つ「善人」を案出するーーーこれが自分自身なのだ!』
(p40)

ここの場合の「彼」というのは弱者、虐げられたもの達のことです。そして、「悪人」は彼らを虐げるもの達、つまりは強者のことです。
強者を「悪い」とするからこそ、そうではない自分たち弱者は「善」だと、こういうことです。

奴隷道徳においては、「善と悪」は『反感ーーールサンチマン』から生まれます。

『行動上のそれが禁じられているので、単に想像上の復讐によってのみその埋め合わせをつけるような徒輩の《反感》である』
(p37)




これは、例えば…そうですね、私は女子ですから、女子的な例を出してみましょうか?
とってもかわい子ちゃんな女の子がいたとする。
私がどんなに頑張ったって、勝てやしないかわい子ちゃんです。
そのかわい子ちゃんが、みんなにチヤホヤされて、かわいーかわいー言われてるのを見て、私は悔しくてたまらない!
「キーーッッ!何よ、あの女!ちょっと可愛いからって誉められて喜んじゃって!ああ悔しい!ムカつくわ!」
…これがルサンチマン《反感》ですね。
強者=かわい子ちゃんに、弱者=私が鬱屈した恨みを抱いているのです。
その上、
「誉められたからって単純に喜んじゃって、あの女バカじゃないの?あー、私はあんなバカな女ぢゃなくてよかったわー!ふん!」
…なんて思ったりしたら、ルサンチマンから生まれた、これぞ「善と悪」になります。奴隷道徳です。

…みっともないですね。ちょっと、カッコ悪いな、コレ。







ニーチェは完全に貴族道徳をたたえて、奴隷道徳を批難しています。

奴隷道徳に対する記述はかなり痛烈です。

『返報をしない無力さは『善さ』に変えられ、臆病な卑劣さは『謙虚』に変えられ、憎む相手に対する『恭順』…(中略)に変えられます。弱者の事勿れ主義、弱者が十分にもっている臆病さそのもの、戸口に立って是が非でも待たなければならないこと、それがここでは『忍耐』という立派な名前になります。そしてこれがどうやら徳そのものをさえ意味しているようです。『復讐することができない』が『復讐したくない』の意味になり、恐らくは寛恕をさえも意味するのです』
(p50)

うーん、心が痛くなりますねぇ。
アイタタタです。
綺麗な言葉で飾ってごまかしたところで、弱者の鬱屈した心そのものは変わりはしない。
醜い…。というか、ダサい。






貴族道徳の「よいとわるい」と奴隷道徳の「善と悪」の違いを、言葉の違いにそってもう少し詳しく述べると。

ニーチェによると、貴族道徳の「わるいschlecht」には下層民を自分たちから区別するほとんど好意に近いようなニュアンスがあるそうです。そこには、憐憫や容赦の念が含まれていると。
対して奴隷道徳の「悪いböse」は不満な憎悪の醸造釜から出て来たものであります。

さらに貴族道徳の「よい」と奴隷道徳の「善」は共通したドイツ語gutを使ってますけれど、これも同じ言葉を使っていても、貴族道徳のグート(よい)と奴隷道徳のグート(善)は先に述べた通り、違うものです。
しかも貴族道徳における「よい」は、奴隷道徳においてはルサンチマンによって捻じ曲げられ「悪い」に変わってしまいます。



先ほどの女子的な例を続けてみますと。
私がハンカチ噛んで、キーッ!悔しいわ!なんて思ってる一方。
チヤホヤされてるかわい子ちゃんは
「あたし、なんて可愛いのかしら?マジ可愛いは正義!私は正義!」
なんて自発的な貴族道徳の「よい」を謳歌しています。
この時、私は彼女の貴族道徳の「よい」を、ルサンチマンから奴隷道徳の「悪い」にねじまげて、彼女に投げつけています。
そして、彼女は隅っこの方で妬みタラタラ睨みつけている私を見て、
「まあ、なんてかわいそうな醜いおばさんかしら?憐れだわ、かわいそうだわ、私みたいに可愛くないなんて!いいのよ、醜いおばさん、私が羨ましいのね?いくらでも睨みなさい、許してあげるわ!」
…ほらね、憐れみをもった貴族道徳の「わるい」を私に投げかけてくださいました。
ムカつくけれど、どうしようもないので、奴隷道徳の「善」を自分にあてはめて、私は自らをなぐさめておきましょう…。







***






ところで、ニーチェはこの強者と弱者を、古代の支配者ローマと被支配者ユダヤの関係に当てはめています。
つまり、これはキリスト教批判になりますね。
ユダヤから出てきたのがキリスト教ですから。
キリスト教の教えは、ルサンチマンをうまく利用した『禁欲主義的僧職者』達の戯言だと、後の第三論文では展開されていくことになりますよ。



そして、古代の貴族道徳から生まれた「よいとわるい」は、ルサンチマンの「善と悪」に、結局のところ負けちゃいます。
キリスト教の勝利です。

蛮人とも呼ばれうる荒々しい強者、支配者、貴族的道徳をもつもの達、自らをよいものと疑わぬものたち「人間」という猛獣を、おとなしい家畜にしたのは、文化(この場合はキリスト教の)です。
そして、その文化が猛獣をおとなしくさせる道具として使ったのが、ルサンチマンであったと、ニーチェは書いてあります。
しかし、このルサンチマンという道具の所持者、奴隷道徳に従うものたちは、文化の体現者ではない。むしろその逆で、人類の退歩を体現しているものたちである。

こんな活気のない飼いならされた家畜のような人たちがあふれかえってしまっているから、人間は人間に倦んでしまう。
そして、こんな人達に倦むよりは、猛獣たる荒々しい人間に恐れることを選ぶのが人間の宿命だと。
キリスト教を捨てることになるのは当然だってことですかね、これは。
そんなことも書いてあります。


…ってことになるのかな?


が、このあたり、第二論文第三論文を読まないと、なんだかピンとこない感じです。
なんせなんで「よいとわるい」が「善と悪」に負けたのかという理由がそこで説明されていますから。
今ここでこんなこと言われちゃっても、ちょっとよくわからない感じになります。



とにかく、この第一論文では。
善悪は奴隷道徳と貴族道徳との2種類があるということと、その二つの道徳の関係性、これを抑えておけばいいのかな?と思いました。







***








ここまでで、一応第一論文についてはおしまいにします。
長くなりそうなので、第二論文以降については、分けて記事を投稿しようと思います。


簡単に自分が理解したことをまとめてみましたが。
実際のこの本はもっと、ややこしいです。
何度も読んで、やっと意味がわかったところが、けっこう多いのですよ。…哲学書って呼ばれるものは、たいていそういうものなのだけれど。

ニーチェの筆がかなり先走っているような部分が多くて。
この第一論文においても、まだ書かれていない第二論文第三論文の内容につっこんできてますし。
脱線も多いし…理路整然とは言えない感じです。
私なんて読んでいて、そういや一体ニーチェはなんについて書いていたのだったっけか、気がついたらわからなくなっちゃってたこともしばしばで。

言葉もきついですし、煽りまくりだし、なんだか情熱たっぷりに書き上げた感のある文章ですね。











近いうちに、第二論文、第三論文の…感想というか、自分が学び得たことというか、そんなものの記事を書きますね。


続きます。






















***







読書感想文の記事をまとめたインデックスページです↓


他のページもよろしくお願いします。
過去記事へのコメント等も嬉しいです。