フーリガン通信 -13ページ目

日本サッカー「天気晴朗ナレドモ波高シ」

昨年末から司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読み始め、現在文庫本の第八巻、いよいよ日露戦争クライマックスの日本海海戦の開戦である。ちょうど日本連合艦隊がバルチック艦隊を発見したところまで読み進んだ。


以下、本文よりそのシーンを紹介する。バルチック艦隊を発見した哨戒艦・信濃丸(巡洋艦の偽装を施した汽船)によるかの有名な「敵艦見ゆ」の電信を受けた後、三等巡洋艦和泉の取った行動に関する記述である。(「坂の上の雲」第八巻 P1720)


 和泉の艦長石田一郎大佐は信濃丸からの第一報を受信したとき、自分の艦が信濃丸のもっとも近くにいることを考え、
「わが艦が全軍の犠牲たらざるべからず」

と決断し、速力を増してバルチック艦隊と交叉するであろう地点をもとめて航進を開始した。


《 中略 》


むろん敵艦隊に接触すれば撃沈させられる公算が大きかったが、しかし石田は、

「わが連合艦隊にとって、和泉一艦をうしなっても戦力にさほどのマイナスにはならない。それより和泉が敵艦隊に接触することによってその状況を逐一司令部に送ることの方が遥かにプラスになる」

と考えた。

《 中略 》


おりから濛気が濃くなり、展望はわずか五、六海里であった。この濛気のために和泉はより接近するしかなかった。しかし接近すれば敵に射たれるであろう。
が、和泉は猛然と接近した。距離がちぢまってついに八、九千メートルにすぎなくなった。
 石田は望遠鏡をもって、陣形を見、艦数を数えた。
 望遠鏡にうつる敵の大艦たちは、すでに和泉に気づいていただけでなく、その巨砲群をねじむけてこの小さな猟犬にむかってその照準をつけつつあった。

しかし、石田は観察と報告に没頭した。艦を敵艦隊に並進させた。
 その間、バルチック艦隊の勢力、陣形、針路などをじつに綿密に報告した。東郷はのちに、
「自分は、敵艦隊のすべてを、敵に遭う前に手にとるように知り尽くしていた。それは和泉の功績である。」
 といったが、和泉は東郷のために忠実な目になろうとしていた。ただ一艦をもって、世界有数の連合艦隊に立ちむかっているのである。  《 以下略 》


「坂の上の雲」では旅順攻略の際に、戦場のはるか後方に司令部を置き、戦局が不利であるにも関わらず前線に行こうとしなかった乃木軍(特にその参謀長)の愚かさについて度々非難する記述があった。戦局が変わったきかっけは業を煮やした陸軍参謀長・児玉源太郎の前線視察であった。やはり、戦争においては現場で敵状をつぶさに観察しなければ、有効な対策は打てないのである。“戦争”には勝てないのである。


さて、以下は110日 8:35の「nikkansports.com」で読んだ記事である。まずはご一読いただきたい。


【日本協会がカメルーンの偵察を見合わせ】

 アンゴラでのトーゴ代表襲撃事件を受け、日本協会はアフリカ選手権への偵察隊の派遣を一時、見合わせることにした。当初は10日、岡田ジャパンの技術スタッフ2人を派遣し、W杯1次リーグで対戦するカメルーン代表を徹底マークして、分析する予定だった。原博実強化担当技術委員長は「10日の出発は見合わせます。大会自体がどうなるか分からないし、大会が開催されたとしても、しばらくは状況を見て、遅れて派遣するかも含め検討してから判断します」と話した。
 現在、外務省と現地の日本大使館などを通じ、情報を集めている。偵察隊を派遣しない場合に備え、カメルーン代表を中心に、大会のビデオ入手の手続きは終えている。また25日にアンゴラに入って、1822年W杯日本招致をアピールする予定だった日本協会の田嶋幸三専務理事も、今後の情勢を見ることにした。


日本代表の南アフリカでの“戦い”において最も重要なのは第1戦のカメルーン戦であることは、有識者の誰もが同じ見解を持っている。ここで勝ち点を取らなければ、日本はグループリーグ突破の望みは潰える。その重要な相手の“敵状視察”の最高の機会を日本は失おうとしている。


前回の通信で大会での安全確保の重要性について語ったが、それは実際に“避けることができない戦争”(本大会)が始まった際の、“兵士”と“従軍記者”(選手・関係者・サポーター)たちの身の安全である。次元がまったく違うのである。


ビデオでの分析で準備が出来るなら、最初から偵察に行く必要もないだろう。石田大佐のように危険を侵しても前線に行くのが偵察である。危険だからという理由で偵察を中止する“参謀本部”。まずは「坂の上の雲」を読破することをお勧めする。


おっと、しかし1822年W杯日本招致をアピールする予定であった田嶋専務理事は行く必要はない。それが危機管理というものである。


魂のフーリガン

































トーゴ代表の悲報に見るアフリカの憂鬱

さて、今回は地理の問題である。


【問題】


次の文章は外務省海外安全ホームページに記載されたある国の一般的な犯罪発生状況です。では、下線部に当てはまる国の名前を以下の①~③の中から選びなさい。

_____は、犯罪発生率が世界で最も高い国の一つです。犯罪の特徴は、犯行時に銃器を使用する等、悪質、凶悪なことです。同国は、銃社会であり比較的簡単に銃が所持できるほか、違法銃器が氾濫していることもあり、犯罪者が銃器を所持している確率が極めて高く、例えば2007年度の統計によると、最近1年間の殺人事件の発生件数は日本の28倍に達しています。また、犯罪シンジケートの活動や失業者による貧困層の増加、周辺諸国からの不法移民や銃器の流入のため、都市部やその周辺地域での犯罪が後を絶たず、銃器使用による殺傷事件や性犯罪、組織的な武装強盗や誘拐、車両強盗、住居侵入、カード詐欺等の犯罪が発生し、いずれも凶悪化・多様化しています。

選択肢 : ①アンゴラ  ②トーゴ  ③南アフリカ共和国


正解をお伝えする前に、ヒントを与えよう。



【ヒント】


18日、サッカー・アフリカネーションズカップ開催国アンゴラ北部のカビンダで、トーゴ代表チームを乗せたバスが待ち伏せしていた反政府武装グループにより銃撃を受け、トーゴ代表のアシスタント・コーチと広報担当者の2名が死亡、その他選手や関係者にも多くの負傷者が出た。
トーゴ代表は11日にガーナ代表と対戦する予定でキャンプ地のコンゴから試合会場のあるガビンダに移動中だったという。事件後、トーゴ代表は大会出場辞退を決めたが、その後、撤回。選手が出場意思を示していたが、安全確保を重視したトーゴ政府が帰国を命じて、同国の大会欠場が決定した。
この事件に対し、アンゴラの大会運営側は「バス移動は回避するように呼びかけていたのに無視された」と弁明している。


さあ、賢明な読者の皆様もうお分かりだろう。問題の答えは、そう ③南アフリカ共和国 である。


南アフリカのジェイコブ・ズマ大統領は、「アンゴラで起こったことは、2010年W杯・南アフリカ大会とは結びつけるべきではない。南アフリカでW杯を開催するための準備は100%整っている」と述べ、W杯組織委員会のジョーダーン専務理事も、「同じ大陸だからと同一視しないで欲しい。遠く離れた別世界の出来事だ」と述べた。主催者側の2人の要人は当然のことながらアンゴラと南アフリカの治安状況の違いを強調しW杯の安全を訴えた。



しかし、南アフリカに関する外務省の注意を読む限り、アンゴラと南アフリカの安全レベルに違いは見られない。もちろん、大会期間中は警備を強化するであろうが、我々日本人はそんな開催国に代表チームを送ることになることを肝に銘じておかなければならない。



もちろん南アフリカ大会が成功に終わることを願っているが、その前に日本サッカー協会は日本政府の協力を得て、代表の安全確保に万全の態勢を整えて大会に臨んで欲しい。そして、応援に駆けつけるサポーターも、南アフリカに行くからには自身の危機管理に責任を持ち、慎重に行動すべきである。


W杯でこのような悲報は聞きたくない。もちろん、日本代表のゲームについても・・・



魂のフーリガン




























“黄金世代”の旅の終わりに

小野伸二のブンデスリーガ・ボーフムから清水エスパルスへの移籍が発表された。契約期間を6ヶ月残したままの帰国である。1999年ワールドユース・アルジェリア大会で準優勝に輝いた“黄金世代”。そのチームの“太陽”が「日出ずる国」に戻る。


伸二はかつてはオランダの名門フェイエノルートで栄光の14番を背負い、エールディビジでの優勝こそなかったものの、UEFAカップ優勝という確かな足跡を欧州に残した。その後、浦和で2シーズンすごした後再び挑戦したドイツでは、すでに怪我で痛んだ身体は再び輝くことはなかった。



まだ正式発表はされていないが、フランス・レンヌの稲本も帰国するだろう。この世代ではいち早く21歳で海外に飛び出した“イナ”も、アーセナル、フラム、WBA、カーディフ、ガラタサライ、フランクフルト、レンヌという4カ国7クラブの旅をそろそろ終えようとしている。


高原はアルゼンチンのボカ・ジュニアーズとドイツのHSV、フランクフルト、小笠原はイタリアのメッシーナ、中田浩二はフランスのマルセイユとスイスのバーゼルと、それぞれが海外で過ごした日々も、もう昔のこと。今はJリーグで2009年MVPとなった小笠原以外は、その存在感を示すことなく、その余生を過ごしている。


ユースという特定のカテゴリーではあっても、1968年メキシコオリンピック銅メダルを越えて、日本サッカーがFIFAの公認大会で最も世界に近づいた“黄金世代”。世界に戦いの場を求めていった彼らであったが、結局のところ行く先で“黄金”には輝くことはなかった。



(“黄金世代”にはまだ、昨年アジア最優秀選手となった“代表の心臓”遠藤がいる。しかし、咲くのが遅すぎた彼が、これから欧州に行ったとしても、トップシーンで輝く可能性は低いだろう。ならば行かないほうが良い。)



加齢という誰にも訪れる事情がある中で、「世代交代」は避けられない。しかし、続く後の世代には、当然のことながら先駆者の到達点を越えて欲しいし、またそうあるべきであろう。それが日本サッカーの成長の証である。


しかし、現実は甘くない。大久保、松井、平山、水野、森本、長谷部、本田、伊藤・・・ 後続世代の海外挑戦は、長谷部と本田を除いて成功とは言えない。


そう考えると、“輝かなかった”とはいえ、やはり日本サッカーにとって“黄金世代”の“黄金世代”であったと言えよう。その優れた個性の頂点にいた伸二の帰国が、新聞の最下段に小さく告げられただけだった・・・


熱くなるべきワールドカップイヤーの年明けに、少し寒い風を感じたのは私だけではあるまい。



魂のフーリガン