長生きするのはいつでも悪党なんだぜ
姪っ子と両親と飯能河原の花火大会行きました。
えー、高い花火、大きい花火は上がりませんが(予算の関係上)花火から近いのが売りです。
香りと音とセットで、花火ですよね。
昨今、テレビで花火大会の中継してますけど、人混みも無けりゃ蒸し暑くも無く極楽ですけど、一味足らない。まるでオリーブの入ってないアクアパッツァのように(わかりにくい)。
先週、幼馴染の弟のお通夜に参列してお焼香して来ました。
家が近所で、小中学校は勿論、最も多感な高校時代、まさに青の時代まで共に同じ学校で過ごした友達の弟でした。
大人になってから弟に会う事はなかったけれど、小学生の頃は、弟も含めて遊んだりしてましたので、私の記憶ではいつまでも小さくて可愛い少年のままです。
35歳でした。
何があっても親より先に死んではいけない。
そう改めて思いました。
悲しすぎる。
夏は暑くて祭りだ花火だオリンピックだ、と賑やかですけど、広島長崎の原爆の日があったり、終戦記念日があったりと、命について考えさせられます。
記憶の中の少年と戦争の犠牲者のために祈ります。
安らかな眠りの中に居ますように。
限りある時間ですから、もっと大切に生きないと、と思います。
再放送はないですから。
あの頃、音楽があれば無敵だった
「火花」読み終わりました。
面白かったですよ。
純文学という事ですけど、思いの外、ポップな仕上がりでした。読み間違えてるんですかね。
因みにウッチャンの「金メダル男」も読みました。
これ、映像になるみたいですけど、絶対に映像化したら面白いと思います。
代官山で郁ちゃん(仮名)とお食事に行くので、都内に出たついでに、渋谷タワレコの醒めない展をみてきました、時間はたっぷりあったんですけど敢えて、ザッと。
醒めないツアーのグッズはモニャモニャ推しですかね。
そして、ディナーは。
代官山のアシエンダデルシエロというメキシカンへ来ました。
郁ちゃん(仮名)といえば、メキシカン(私にとって)。夏といえば、メキシカン。
夏もアボカドもパクチーもトルティーヤも好きな私は、メキシカンは例に漏れず好きです。
夏といえば、モヒート。そして、サングリア。
欲をいえば、フローズンマルゲリータ。(しかし、酒に弱いので、ここまで到達出来ない事が多い)
ここ数年でいうと、モヒートは本当に好きです。
味も勿論好きですが、モヒートが持つ夏感がとにかく好きです。なので、冬季に飲む事はありません。
余談ですけど、冬感のある飲み物といえば、安定のバンショーですよね。バンショーとオニグラですよね。
とにかく、人気のお店で時間制で引っ切り無しにお客さんが入れ替わります。ロケーションも眺めも最高。
タパス系の小皿も多くて、ただ呑みに来るのも良いかも知れません。
メキシカンとスパニッシュって、似てるんですかね。
郁ちゃん(仮名)に初めてサシで食事に連れて行ってもらって、フローズンマルゲリータを呑んだのも、20年前のメキシカンでした。
そのすぐ後に食べた表参道沿いのカフェのピスタチオのジェラートも美味しかったこと!
20年、長かったけど、あっという間でした。
結婚して子供を産んだ同級生も、独身のまま遊び働いている同級生も、結婚して再び独身に戻った同級生も、更には同級生以外の全ての人間に、平等に20年。
時は誰に対しても流れ、それだけは全人類、平等である。と。
時間を止める事は出来ないし、巻き戻す事も出来ない。時間に関しては誰もが前へ進むしかないんですね。
と、出会ってからの20年に思いを馳せつつ帰宅しました。
色々、ありがとう!(私信)
姉にくっ付いて帰省してきた姪の描いたイチゴが万願寺唐辛子っぽかったので、貼ります。
DAISOのレインボーシート、楽しいな。
私は夕立が、ゲリラ豪雨が、好きです。
空気中のザワザワモヤモヤした物質を洗い流すように降る激しい雨を見ると、心が晴れるかのような清々しさがあります。
中途半端に降られると蒸し暑くなりますけど、豪雨ともなると、その後は涼しくなるのも好ましいです。けど、これは田舎あるあるでしょうか。
災害につながる程だと困りますけど、豪雨の後って川の水も、川底の藻のついた石や、苔むした石も、洗い流されて本当に綺麗です。
あ、札幌のチエリエ(仮名)が、函館に行ったお土産のイカ尽くしを送ってくれました!
ご馳走様です。(ここ、見てないだろうけど)
智恵(仮名)に以前頂いた毛ガニは。
父によって、油絵に生まれ変わった。
玄関に飾ってある毛ガニの絵。
風水的に大丈夫かなぁ。
エジソンが発明したのは闇
タイトルは今まさに読み途中の「火花」からです。
「火花」面白いです。
とか何とか言ってるうちに、恐ろしい事件がありました。戦後最悪と言われてる障害者施設での殺戮です。
なんかこう、モヤモヤする事件でした。
このタイミングでYahoo!知恵袋で、興味深い質問と回答があったので、覚え書きとして貼ります。
アンサーが素晴らしく分かりやすかったので。
知恵袋の質問から。
Q:「不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂ければと思います。
自然界では弱肉強食という単語通り、弱い者が強い者に捕食される。
でも人間の社会では何故それが行
われないのでしょうか?
文明が開かれた頃は、種族同士の争いが行われ、
弱い者は殺されて行きました。
ですが、今日の社会では弱者を税金だのなんだので、
生かしてます。
優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理ではないのですか。
今の人間社会は理に適ってないのではないでしょうか。」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1463546664
A:「え~っと、、、よくある勘違いなんですが、自然界は「弱肉強食」ではありません
弱いからといって喰われるとは限らないし、強いからといって食えるとも限りません
虎は兎より掛け値なしに強いですが、兎は世界中で繁栄し、虎は絶滅の危機に瀕しています
***
自然界の掟は、個体レベルでは「全肉全食」で、種レベルでは「適者生存」です
個体レベルでは、最終的に全ての個体が「喰われ」ます
全ての個体は、多少の寿命の差こそあれ、必ず死にます
個体間の寿命の違いは、自然界全体で観れば意味はありません
ある犬が2年生き、別の犬が10年生きたとしても、それはほとんど大した違いは無く、どっちでもいいことです
種レベルでは「適者生存」です
この言葉は誤解されて広まってますが、決して「弱肉強食」の意味ではありません
「強い者」が残るのではなく、「適した者」が残るんです
(「残る」という意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味であることに注意)
そして自然というものの特徴は、「無限と言っていいほどの環境適応のやり方がある」ということです
必ずしも活発なものが残るとは限らず、ナマケモノや深海生物のように極端に代謝を落とした生存戦略もあります
多産なもの少産なもの、速いもの遅いもの、強いもの弱いもの、大きいもの小さいもの、、、、
あらゆる形態の生物が存在することは御存じの通り
「適応」してさえいれば、強かろうが弱かろうが関係無いんです
そして「適者生存」の意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味である以上、ある特定の個体が外敵に喰われようがどうしようが関係ないんです
10年生き延びて子を1匹しか生まなかった個体と、1年しか生きられなかったが子を10匹生んだ個体とでは、後者の方がより「適者」として「生存」したことになります
「生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります
人間の生存戦略は、、、、「社会性」
高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する
個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる"弱者"です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する、、、、という戦略です
どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の"弱者"を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します
人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました
生物の生存戦略としては大成功でしょう
(生物が子孫を増やすのは本源的なものであり、そのこと自体の価値を問うてもそれは無意味です。「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません)
「優秀な遺伝子」ってものは無いんですよ
あるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」です
遺伝子によって発現されるどういう"形質"が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です
例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれません
だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです
(「生まれつき目が見えないことが、どういう状況で有利になるのか?」という質問をしないでくださいね。それこそ誰にも読めないことなんです。自然とは、無数の可能性の塊であって、全てを計算しきるのは神ならぬ人間には不可能ですから)
アマゾンのジャングルに一人で放置されて生き延びられる現代人はいませんね
ということは、「社会」というものが無い生の自然状態に置かれるなら、人間は全員「弱者」だということです
その「弱者」たちが集まって、出来るだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのが人間の生存戦略なんです
だから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である、と答えるんです
「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからです
我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略だということです」
何だか、目から鱗でした。
ホモ・サピエンス…
クロマニョン人、ネアンデルタール人…。
人間ってややこしい生き物です。









