〇中部国際空港近くの夕陽
知多半島西部伊勢湾沿いを走る名鉄常滑線。現在では中部国際空港へのアクセス路線として、愛知県都名古屋から特急列車一本で行ける路線です。しかし、その一方で普通列車は2両だけの電車とローカル線の趣も強い。今回はそんな知多半島西部を行ってきました。
名鉄西ノ口駅にて下車。
列車越しに見える小高いあの丘こそ、大野城があった場所です。
駅から歩いて丘を目指せば大丈夫…と言いたいところですが、丘へ上がる登り道は住宅街となっており、細かい路地を入り組んでおり、真っすぐへはいけない。スマホの地図アプリを片手に必死に探していきます。
ようやく見つけた城山公園入口の案内板
城跡は現在では公園となっています。ただこれちょっと城跡としての遺構はどうかな…
現在では遊具広場となっている二の曲輪跡
やがて模擬天守風の展望台が見えてきました。
主郭入口にはこちらも模擬城門が建てられていました。
主郭跡に設置された天守閣風天守閣と門
ここから見ると伊勢湾の景色が一望できる恰好のスポットです。実際、私以外にも何人かの訪問者もいましたし、結構観光スポットになっている。
伊勢湾の夕陽光景が少し感動的
こうしてみるとかなり主郭跡は手狭な印象を受けます。やはり佐治水軍の城ということで、大事なのは海上アクセスが重視されたためでしょうか
鳥居沿いから見た夕陽
夕陽に染まる伊勢湾の海、今も船が多く行きかっています。
大野城跡の石碑
それでは降りていきます。
降りてきた区画はかなり自然が残されており、むしろこちらの方が城があった名残が強いのではないか?と思います。
実際、それなりに土塁らしき土盛なども見られ、
空堀などが残っていました。まだこちらの方が城跡としての名残があって良かった。
ということで大野城散策は終了、例によって例のごとく城山公園の名称通り、かなり公園化が進んでいるので、遺構は殆どありませんが伊勢湾の眺望は素晴らしく、これだけでも見られてよかったです。
最後に中部国際空港まで行ってきました。
ここは国際空港として見ると、成田や関空に比べるとそんなに広くはなく、むしろ手ごろに回れるのがむしろ好き。あれらはやはり広すぎですからね。
夕陽は沈み、この旅ももう少しで終了です。
〇お江が最初に嫁いだ城
南北朝時代の観応年間ごろに三河国守護の一色範氏が知多半島に勢力を伸ばし、その子の一色範光が伊勢湾を見下ろすこの地に城を築いたのが大野城の始まりです。この一帯は大野湊を中心とした伊勢湾海上交通の要衝として重要拠点となりました。
その後一色氏は8代将軍足利義政と対立して、三河国守護を失い、やがて衰退。その後は尾張守護の土岐氏家臣の佐治宗貞が入城し、戦国時代には佐治氏4代の城となったのでした。三代信方の代に佐治氏は尾張一国の大名となった織田信長に臣従。その枢要の地故に重視された為か、信長は妹を嫁がせました。信方は伊勢長嶋一向一揆攻めで戦死し、佐治氏当主はまだ幼年であり、信長の甥でもある佐治一成となります。この人物こそ、後に徳川秀忠に嫁ぐことになるお江の最初の夫となる人物です。一成にとっても従姉妹に当たる彼女が嫁いだ理由として、当時清州会議の結果、佐治氏は尾張の支配者となった織田信雄配下となっていましたが、その佐治水軍を取り込むための羽柴秀吉の政略的思惑が介在していた可能性が指摘されています。しかし、その後佐治氏は小牧長久手の戦いで信雄配下として活動し、改易となります。秀吉によってお江は離縁となり、領地を失い、妻を失った佐治一成はその後、叔父である織田信包の家臣となり、その後京において隠棲出家したと伝わります。
なお、大野城はその後秀吉方についた叔父の織田有楽斎のものとなりますが、有楽斎は山上の大野城を嫌い、城を北方の大草城へと拠点を移動し、城は廃城となったと伝わります。
〇アクセス
名鉄常滑線西ノ口駅から徒歩15分
「知多大野城に狼煙が一本…」