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〇一駅違いの代償

大野城とは一駅北に移動した所にある大草城。この城は尾張地域では数少ない城跡としての遺構が比較的よく残っている城跡です。その理由は歴史で後述していきます。さて、この城へ向かう時に迷ったのは「最寄り駅」。近くを走るのは名鉄常滑線なのですが、城との距離が微妙な位置。二駅の中間にあたります。このうち新舞子駅は特急も停車する駅。名古屋からだと列車一本でも行けます。これに対して南の大野町駅は急行どまりなので必然的に新舞子駅で乗り換えとなるのですが…ちょっと面倒だったので新舞子駅で降りることにしましたが、これが思いのほか遠かった。

ここも周囲は住宅街なので思ったより道は狭く、案内などは無いのでスマホが必携です。

やがて大草公園に到着しました。大草公園となっていますが、見るからに城跡としての遺構は残っていそうです。

まずは外郭の水堀

公園という割には非常に複雑に入り組んでおり、まさに「城跡公園」としては本来の意味合いで使っていると言えるでしょう。

二曲輪内の空堀

大土塁

 

 

二曲輪内は非常に広大なエリアで、そこを周囲が土塁で覆われ、そこを遊歩道で散策できるようになっています。

空堀跡

遊歩道を進んでいくと

一郭跡に到着しました

ここには天守閣風の展望台が設けられています。内部には大草城の歴史が詳しく記載されていました。

この公園の外側部分にもかつて城の外郭があったとされていますが、それらは現在は住宅街となっています。

一郭は二郭と比較すると平坦で、こちらは文字通りの「公園」となっていました…

 

最後に二郭の櫓台址を観察。

そこから到着したのは20分ほどの距離にある「最寄り駅」の大野町駅に到着しました。ただ、この駅急行しか止まらないのよね~

本当に何もない無人駅です。

知多大草城は史料から築城時期がかなり特定され、築城者もはっきりしているという尾張の城では珍しい城です。織田家一門の城でありながら、石垣を用いずに土の技術を駆使して築かせた「織田の城」を味わうには丁度良い城跡でした。
 
〇覇者の弟が築いた城
知多大草城の歴史ではっきりと分かるのは現在に至る城を築き上げたのは信長の弟の織田有楽斎(長益)とされています。天正12年(1584)近隣の大野城主であった佐治一成が退去した後にその所領と家臣団を引き継いだのが有楽斎でした。元々有楽斎は先代の死去後、まだ幼年であった一成の後見をしていたとされ、大野城が山上に位置し、水源が十分確保できない点を考慮して、現在の大草城を新たな拠点として選定したと言われています。
 有楽斎は当初は甥である織田信雄の重臣として知多半島に所領を与えられていましたが、その後は巧みに羽柴秀吉にも仕える等巧みな世渡りの末、大名家としてその系統は江戸時代まで続く生き延び上手となりました。
 さて江戸時代にはこの地は徳川御三家尾張徳川家の家臣山澄氏が所領として与えられ、この城跡の地の保存を行っていました。これは知多半島の要衝に位置することからいざという時の有事に備えた可能性も考えられます。結果、廃城となった後もこの大草城は城跡としての遺構を多く現代にも止めたのでした。

 

〇アクセス

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名鉄常滑線大野町駅から徒歩20分

 

「知多大草城に狼煙が一本…」