数年前から始まった「ととのう」サウナブーム。依然としてハマっている人は多いですね。

そんなサウナで欠かせないのが水風呂。あったまった後に汗を流して入った時のあの感じはなんとも言えない心地良さがありますよね。命を削っているような気もしますが。

 

そんな水風呂、施設によって温度はまちまちですが、皆さんはどんな時に特に冷たく感じますか?

入りはじめは特に冷たくて、場所を決めてゆっくりしていると少し慣れて、また動き出すと冷たく感じませんか?

 

入りはじめは水温が体温より低いので当然としても、慣れたはずなのに出ようとする時に一層冷たくなるのは不思議だと思ったので、少し考えてみます。

 

 

まず、慣れがどうやって起きるのか。二つ可能性が考えられると思います。

①動きを止めている間、体がエネルギーの消費を抑えるなどの目的で神経を鈍らせている

②体と周りの水で熱が交換されて温度が近づいている

 

①の場合について。水の中で動けば流れが生まれ、体に水が次々に当たっていくような形になります。そうすると、体は何かしらの脅威を感じ、神経を研ぎ澄ますのかもしれません。

 

②の場合について。水の中で動くということは、止まっている時の体の位置より遠いところの水に触れることになります。体より遠ければそれだけ体温によって温められにくいので、水温は低くなっています。

 

動くとき以外に水風呂で強い冷たさを感じるシチュエーションとしては、水の噴き出し口の近くにいる時が挙げられますが、これについても①、②のどちらで考えても説明することはできます。

 

少し調べてみると②での説明がほとんどですが、僕は①の効果も少なからずあり得ると思います。

 

例えば、炭酸泉。止まっていると体中に炭酸の泡がついてきますが、止まっているうちは特別な感覚はありません。

ですが、泡を払おうとしたり出ようとして体を動かすと、途端にシュワ〜というあの独特の感覚が訪れます。水風呂との胆汁な比較は成り立たないかもしれませんが、これは①の効果が大きいように思われます。

 

ちなみに、僕はサウナや水風呂より46〜7度くらいの熱い温泉に入るのが大好きなのですが、そこでも今回取り上げたのと同じような感覚になります。もちろん、体温より高いか低いかで逆にはなりますが。

 

そんなことに考え遊ばせながら温泉に浸かっていました。

 

 

 

先日某所の多機能トイレを利用したのですが、手洗い場に設置されている鏡が手前に傾いているのに気づきました。

 

比較的大きめで、手洗い場に立って少し見上げると十分に姿が写ったので特に不便さは感じませんでしたが、ふつう壁にぺったりと貼り付けられている鏡が傾いているのは奇妙に思って不思議に思っていたところ、車椅子の方向けのものではないか、ということに気がつきました。

 

エレベーターで昇降ボタンなどが低い位置にも設置されているのはよく見かけるようになりましたが、こういった障害のある方もない方も暮らしやすい社会に近づけるアイデアはいいですね。見習いたいものです。

小さい子が困りにくい社会、とも言えるかもしれませんね。

 

 

また見かけたら、写真をとって追記しようかと思います。

最近はめっきり耳にしなくなったものの数ヶ月前まではかなり聞く機会のあった、コロナ禍の象徴的な言葉“3密“。

ご存知の通り“密閉““密接““密集“と、感染を防ぐために警戒するべき状況をうまくまとめたものですが、英語圏ではどう表現されているかご存知ですか?

 

“密閉“は"closed spaces" 

“密接“は"close-contact settings"

そして“密集“は"crowded places"

 

この3つの頭文字をとって"3Cs"と呼ばれているんですね。なかなか上手くないですか?

 

"close"で共通している“密閉“と“密接“はともかく、“密集“の"crowd"。

"close"はラテン語由来であるのに対し、"crowd"はゲルマン系が由来になるみたいです。ラテン語もゲルマン祖語も区分ではインド・ヨーロッパ語族に含まれるのですが、この二つの語には直接関係あるとはあまり思えません。

 

“3密“は確か官邸かどこかの省庁の方のアイデアだったはずですが、英語のことも考えてネーミングしたんでしょうか。

 

そんな、少しだけ不思議な言葉の話でした。

 

 

 

 

今回は、一番のお気に入りの本を紹介します。

 

 

かわいらしい装丁のこの本は、江戸時代の江戸の民衆生活を扱ったエッセイ集です。

 

著者の杉浦日向子さんは江戸風俗をこよなく愛されていて、いわゆる「粋」な江戸っ子の生き方のかわいらしさなどを紹介されていました。

杉浦さんが46歳の若さで亡くなられた後、友人の方々によって生前に各誌に寄稿されていたエッセイなどが集められ、この本が完成しました。

 

江戸っ子の考え方や暮らしには、現代人から見るとばからしくクスッとくるようなものが多々あるのですが、杉浦さんはそのどうしようもなさを愛し、近い場所でそれを見守る母親のような視点から読者を引き込む軽妙な語り口で江戸の生活を描かれていて、短い劇を続けてみているかのような気持ちになります。

 

 

こちらで紹介されている話の中に、羊羹を扱ったものがあります。

茶文化の広がりとともにお茶うけの和菓子も広まったのですが、当時砂糖は依然として高額で、商人などの富裕層の間で広がるのみでした。

当時の歌に

「羊羹を すなおに食って 睨まれる」

というものがあったそうです。

当時の商人たちは、客に羊羹を出さないと面目が立たないと考えていたのですが、客の格によってその厚さを変えて出していたそうです。

 

そして羊羹を出された客の方はというと、貴重品ですのでそのまま食べることはせずにお茶だけいただき(本当は食べたいのだろうに!)、主人はそれをそのまま戸棚にしまう、という流れを繰り返し、そのうち砂糖が吹き出してとても客に出せる代物でなくなってやっと主人が食べる、という風習があったそうなんです。

 

妙なマナーがたびたび話題になりますが、この羊羹の話にはそれらと違い人と人との血の通った関係の中での温かみやくだらなさが感じられます。

 

 

こんな類のいろいな話が、先ほど書いたような語りで紹介されています。この話が掲載されている章の中でもまた別の話も紹介されていて、合わせて30章近くあるので、がっつり読みたい方にもあっさり読みたい方にもおすすめできます。個人的にはだらだらと読むのが良いと思います。

 

是非読んでみてください!

 

昨日アメブロを始めたばかりなのですが、想像以上にアクセスがありびっくりしています。皆さん、どこから見つけてくださってるんでしょう?ありがたいものですが。

 

 

さて、今日は「先」について。皆さんは「先」と聞くと過去と未来のどっちの時間を思い浮かべますか?

 

僕は未来のイメージが強かったんですが、実は「先」は過去と未来の両方を表せるんですね。

 

例えば「○年先」「先を見る(先見性)」「先取り」などで使う場合は、未来を指しています。

一方で、「先日」「先例」「先人」などの言葉では、過去を指していますよね。

「先に済ます」では、未来のある時点より前(=過去)を指しています。

 

過去を表す「前」について考えてみると、現代語では見かけませんが、古語では「前」を「さき」と読む例があります。また、音読みでは「前日」などで「ゼン」という読み方があり、「先」の「セン」と何らかの関わりがあるように思えます。

 

例は少ないものの「前途」は未来を表していますし、時間としての未来を表しているとは言えないかもしれませんが、「前向き」も近い意味を持っています。

 

「前」と「先」については、時間でなく空間を表す場合も対象の正面を表す用法で共通しています。この場合、背面を示すことはありません。

 

また、「前」は「後」と対になっていますが、「後先考えない」からわかる通り「先」も「後」と対になるんですよね。

 

「前」と「後」は主に自分の体を基準にして正面と背面で空間を区切る表現です。となると、自分が過去と未来のどっちを意識して語るのかによって、その意味が入れ替わるのかもしれません。

 

こう見てみると、「先」と「前」は時間を表す語の中でも強い類似性があるように思えます。

 

「先」と一応「前」「後」を除くと、正反対の過去と未来の両方を表せる語は見当たりません。

 

なぜ「先」だけに過去と未来の豊富な用例があるのか。「前」との関係はどうなのか。

 

そんなことを考えてみると、面白いものですね。