突然スペイン語を勉強しはじめたので、巻き舌 tongue trillを習得しなければならなくなった。
子供のころ、弟が得意げにルルルルル~♪とやっているのをうらやましく見てた思い出があるのだけど、しかしながら練習したら、たった一ヶ月程度で、できるようになった。
巻き舌は、ヘビースモーカーで肺活量の少ない、舌の短いおっさんでも、習得できます。

私がやったのは、ごく有名なもので、『サッポロラーメンとろろ芋』または『pru pra pru pra』を連呼する方法。私の場合、最終的に練習に使ったのは、「サッポロ」、さらには「ポロ」の部分だけだった。この部分を発音してると、そのうち舌がふるえるのが感じられるはず。
音声学の専門的なことはわからないがこの「サッポロ」、「ッ」の声門閉鎖、pの破裂音、母音oの口のかたちなどが相まって、「巻き舌入門」としてナイスな環境を形成しているのだと思われる。母音がiとかeだと難易度が高い。

この感覚を保って、成長させるだけ、そう思ってからが、長かった。
その後、一ヶ月間の練習のほとんどが、いかにしてこの「ポロッ、ポロロッ」から「ポロロロロ~」へ進化するのか?というもんだいに費やされました。振動が一瞬で終わってしまう。
ぶっちゃけ、一時は、絶望した


そこで、いろいろ調音の工夫をする。
呼気を強くしたり(眩暈がしてきた。普通の息でOK)、口の形をいろいろ試したり(結局、普通に「サッポロ」という時の形でOKです)、舌の筋トレに手を出したり(結局、一ヶ月でトータル5分間しかやらなかった)、いろいろやりました。
複式呼吸...わたしは座禅やってたから普通にできるのだけど、巻き舌の練習において、それほど呼吸は意識しませんでした。

結局のところ、口腔の断面図を睨んで舌の位置を調節したり、舌の筋肉トレーニングを日々実践したり、そういうことは、ひょっとしたら確実で効率的なのかもしれないが、必須ではないと思う。
(声楽などのための巻き舌などならば、話は変わってくるのかもしれないが)
また、遺伝的要因というのも、よほど舌が短いといったことがなければ、たぶん問題にならないのではないか、と思われる。

結局、わたしの場合は、舌先の位置を微妙に変えたことが決め手になりました。
歯茎の上、口腔が深くえぐれるところの前にでっぱりがあると思いますが、だいたい舌先はそのあたりで震える。舌を口腔の天井方向に丸める「反り舌」ではない。
そこから自分なりの感覚で微調整。あくまで微調整であって、てきとう。フィーリングです。むずかしく考えることは何もなし。つまるところ、多少の試行錯誤はありつつも、「サッポロ」を言い続けているうちに、自然にできるようになります、としか言い様がないなあ。

たぶん、誰でも、やりつづけていれば、ブレイクスルーの瞬間が絶対にあるはず。

しかし、スペイン語のrr音は、perroとか、Israelとか、honraとか、「サッポロ」より難易度の高い音の配列の中で発音できるようにならないといけない。道のりは長そうだ...
昼こそは雲雀もあがれ日も霞め野なかの家の暮れて幽けさ

死にかはり生まれかはりて見し夢の幾夜を風の吹きやまざりし

(『白描』)

海鳥のこゑあらあらしおもひでの杳き(とほき)に触るる朝のひととき

いつの世のねむりにかよふたまゆらかまひるしづかに雷雲崩る

星の座を指にかざせばそこここに散らばれる譜のみな鳴り交す

われの眼のつひに見るなき世はありて昼のもなかを白萩の散る

(『翳』)

わがために南無阿弥陀仏と言ひし夜も人は眠るかその夜のごとく

指針尖(はりさき)に脳の重さの顫ふ(ふるふ)とき黄金(きん)の羽虫は息絶えにけり

しづしづと霧が占めくる巷には朝を失くして鳴かぬ玄鳥(つばくら)

(白描以後『翳(二)』)


明石海人(1901-1939)は静岡県沼津市生まれの歌人。
小学校教員として勤務する傍ら、美術、音楽、文学に親しみ、妻との間に二女を儲けた海人は、大正15年(1926)25歳のときにハンセン病と診断されます。

現代ではハンセン病は治療法が確立され、また感染力が非常に低い病気であることが知られていますが、明石海人の時代には、患者は「隔離」され、また結婚は「断種」を条件に許されていました。

「ハンセン病とは天刑などではない、伝染病である」という、「科学的な」言説が、人間が「人間の類を逐はれ」ることを正統化する、という状況があったわけです。
「健康」とか「幸福」とかいうのが、「管理」と同義語になると、怖い。


闘病生活の中で作歌に集中するようになった海人は、昭和10年(1935)初頭、短歌結社「水甕」に入り、その年の5月には前川佐美雄(1903-1990)の『日本歌人』に移ります(同じ年、海人は病状悪化により視力を失ってしまいます)。前川佐美雄は日本浪漫派、30年代モダニズム短歌の推進者で、後の塚本邦雄、山中智恵子、杉原一司などの師でもある。
ちなみに海人は万葉集を筆写して研究されたみたいですが、ひたぶるな赤茄子が出て来るのは斎藤茂吉の影響でしょうね。

昭和13年(1938)改造社『新万葉集』に11首が入選したことで明石海人は脚光を浴び、その注目を受けて発表された改造社からの歌集『白描』は二十五万部を超えるベストセラーとなったそうです。

『白描』の興味深い特徴として、全体が第一部『白描』と第二部『翳』に分かれていることがあります。
第一部『白描』では、ハンセン病の人々の発病から療養所での日々に至るまでをリアリズムで描いていきますが、第二部は、第一部の現実が象徴的に扱われる、詩的な世界になっています。


岩波文庫版の村井紀の解説では、この二つの作風について海人が意識的にとった方法だったことが説明されています。

「白描」というのは大和絵の線画のこと、翳とは、それに対して、曖昧な象徴の世界を意味する。
つまり、『新万葉集』の国民歌人として、「ハンセン病歌人」として、世間や同じ病に苦しむ人たちに向けた、ある意味公的な世界としての第一部と、それを一人の詩人として個人的に探求している第二部、ということです。


第一部『白描』も、偉大な歌人による優れた歌集だと思うけれど、そこで詠われる同じ出来事や風景は、この文庫後半の、第二部『翳』や、白描以後の歌では、もっと強烈な叫びとして詠われているようで、やっぱり『翳』の方向性の方に明石海人のすごさが出ていると思います。

シルレア紀の地層は杳きそのかみを海の蠍の我も棲みけむ

あらぬ世に生れあはせて今日をみる砌の石は雨にそぼてり

煙突ありあがる煙ありめぐる日にみじかき影を地におとせり

かたつむりあとを絶ちたり篁の午前十時のひかりは縞に

傷つける指をまもりてねむる夜を遙かなる湖に魚群死にゆく

こともなき真昼を影の駆けめぐり青葉のみだれいづこに果てむ

更くる夜の化粧はさむし灯のそこに己が肉喰む鬼ともならず

口語モダニズム短歌の手法を使った、読むのが苦しくなるほど激しい歌もあります。
といいつつ、その中でもおとなしめの歌ばかり引用してしまったけど。


昨日こそ四方が失せたと目をさまし空には無頼の花びらばかり

軽戦車重戦車など遠ざかり花びらを啖ふ子犬と私

あきらめか何かわからぬ褪せた血が凩よりも暗く流れる

墜ちてゆく穴はずんずん深くなりいつか小さい天が見えだす

霧も灯も青くよごれてまた一人我より不運なやつが生まれぬ

つのりくる如法の闇にまみれつつ身よりくされし錆掻きむしる

夜一夜に壁の羽虫を刷きおとし地平きびしくむき直り来ぬ

童心は寝ものがたりにをののきぬ月の暈には雨の星一つ

たましひの寒がる夜だ眠つたらそのまま地獄に墜ちてしまふ夜だ

とある夜の透き眼の色幾世経てまのあたりなる花を誑る

おほきな蜘蛛が小さい蜘蛛に噛みついたおれはどろんと赤い日を見た

嚔(はなひ)れば星も花弁もけし飛んで午夜をしづかに頭蓋のきしむ



つぶらなる朱の果ひとつうつつなれ瞬く間をも消えゆかむとす

息の孔潰えむとするこの夜をことさらに冴ゆる星のそこらく


もし『翳(二)』の方向性を前面に出していたら、絶対にベストセラーにはならなかっただろうし、今日明石海人の名を知ることもなかったのかもしれないけれど。
明石海人は、人々に語りかけるように詠うこともできたし、心のままに叫ぶこともできた。多様な文体を使い分けて、短い生涯にすばらしい歌をたくさん歌った歌人だったと思います。
明石海人歌集 (岩波文庫)/岩波書店
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津の国の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風わたるなり

西行(1118-1190)の歌で、能因(998-1050頃)の後拾遺歌
心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春のけしきを
への返歌。能因の歌は、わかってくれる風流人と、この難波の春を共に語り合いたいよ、という歌。

「心なき」風流人、西行の方は、「夢なれや」。
「なり」の已然形、疑問の「や」で、「難波の春とは、夢だったのか」。ただ葦の枯葉をわたる風だけが…

能因の本歌はさておいても、「夢なれや」は、すごい。
難波の春が夢である、ということは、「なれや」と留保されている。「なりけり」「なりき」ではなくて。
だから、薄れ行く夢と現実の寂寞のあわいに立ちずさんでいる感じ。
無常というより、まぼろしと現実の寂寞の二重写し、夢幻。

当然、西行の眼に「難波の春」は、まさに夢、だったわけですよね。それを疑問形で言うということは、表現としては結構テンションが高い。演劇的といってもいい。

これを本歌にしたのが、豊臣秀吉の辞世とされる歌。
露とおち露と消えにしわが身かな難波のことも夢のまた夢
「難波のことも」の「も」がいいと思う。
古今和歌集の次の、第二勅撰和歌集『後撰和歌集』を岩波の新日本古典文学大系版でゲット。これで八代集は手乗りサイズ(?)でそろった。国歌大観は取り回しにくいので、うれしい。

この歌は、巻2春中の部の歌。

河原左大臣は源融(822-895)。陽成天皇、光孝天皇のころの人。
嵯峨源氏融流の祖。
六条に、塩釜の景を模した「河原院」を造営して棲んだ、風流人。光源氏のモデルの一人とされる。

百人一首に14「みちのくのしのぶもぢ摺り誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」があるけど、勅撰集に載った歌はたったの四つ、家集もない。

この歌、風にあとかたもなく散ってしまう前に、散る桜のしずくに濡れよう、というだけのこと。
花の雫というのも、「古今集」の藤原敏行「心から花のしづくにそぼちつつ」
とかにあって、別に独創じゃない。

ただ「けふ桜」という歌い出しや「いざ」、下句「香込め(かごめ)」「風」「来ぬ」のK音とかが、弾んだ心を表現しつつ、香り高い感じが、いいなあ、と思って。

勅撰集の和歌の多くは、桜が散るのがつらい、とか、雁は薄情な奴らだ、とか、秋の露に萩がどうした、とか、百年一日のごとく、同じことばっか言ってる。

でも百も類歌があるようなことでも、ことばの続け方や、しらべによって、ステキなものにもなるのだと思う。

雨霽れてああ三百の雫する杉原一司忌の桐の花
あめはれて/ああさんびゃくの/しずくする/すぎはらかずし/きのきりのはな

塚本邦雄(1920-2005)、最後から2番目の第23序数歌集『詩魂玲瓏』(1997,発行柊書房)に収録歌、連作『雨月百首』の一首。
「ああ」というあまりにストレートな感情表現や、杉原一司という名前が、この歌の語り手を、「現実の作者である塚本邦雄」と完全に一致させているとしか見えない点で、異色作だと思います。

ここで追悼されている歌人、杉原一司(1926-1950)は、初期の塚本邦雄の共同作業者。二人の目論んだのは、短歌の歴史的なあり方を乗り越えること。


それまでの近代短歌では、歌の(潜在的なものであれ)一人称話者は、暗黙のうちに、作者と同一視されて読まれてきました。言い換えればそこでは、歌を鑑賞することは、作者のあり方を鑑賞することと、等しい。

ある実在の人物の瞬間の認識が、そのまま透明なメディアとしてのことばに定着するということ。その対象を一挙に把握する体験に向け、自己を鍛えていくこと。


また、短歌は、万葉集以来の、古い伝統によってその正統性を保証されていました。
短歌形を二つに切断し「切れ」を重視する俳句ではなく、自由詩でもない、短歌という詩形は、その本質を正しく踏まえるかぎり、あくまで抒情的に流れなければならない宿命をもっています。

「美しい日本」を、57577のリズムにのって、正しく歌えば、それだけで、歌は美に変わる。歌における話者は、作者と等しいのですから、作者もまた、そこで美しく荘厳されるというわけです。
それが、ごくつまらない小市民的な身辺雑記であっても、はたまた戦時体制への翼賛などであっても。


戦争が終わったとき、多くの短歌(←ずいぶん図式的で乱暴な言い方ですが)はその事態を「ああ、戦争は遂に終わりけり」というような抒情的な詠嘆としてしか表現できませんでした。あるいはただ沈黙するか。それらは数年前には「ああ、大御戦よ」といった抒情的な詠嘆だったわけです。

沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ 斎藤茂吉

茂吉の昭和20年、終戦を詠ったとされる名歌です。「百房の黒き葡萄が見よとぞふりそそぐ」というのは、「沈黙」というには、あまりに饒舌に思われますが、塚本の「雨霽れて」は茂吉のこの歌を踏まえているのかもしれません。


杉原・塚本は、そのような短歌の歴史の乗り越えには、まず「方法 メトード」がなければならない、と考えました。彼らは、塚本の実作を杉原が理論的に検討するような形で、共同作業をつづけました。

彼らの「方法」は、歌を象徴表現で重層化し、また、句跨がり・句割れのリズムで耳障りのよい短歌定型をゆさぶり、作者、歌の語り手、読者、の共犯関係を分断することでした。

聖母像ばかりならべてある美術館の出口につづく火薬庫
せいぼぞう/ばかりならべて/あるびじゅつ/かんのでぐちに/つづくかやくこ
海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空母艦も火夫も
戦争のたびに砂鉄をしたたらす暗き乳房のために禱るも


既にモダニズム短歌、口語自由律短歌などは、短歌の形式的・内容的な拡大を試みていました。しかし韻律の無視・破壊ではなく、あくまでも伝統的な韻律の中に、そのような否定性を刻印することが、塚本と杉原の望みでした。伝統を捨ててしまえば、伝統の揺さぶりはありえないからです。


杉原は1950年に23歳で死去しますが、その影響は塚本邦雄の中に生き続けました。

その早すぎた死の後に発表された塚本の第1歌集『水葬物語』(1951)の歌風は、杉原との共同作業の結実とされていますし、ランボーとヴェルレーヌの詩と愛をテーマとした第4歌集『水銀伝説』(1961)のタイトル、コンセプトも、杉原の言葉にインスパイアされたものでした。

しかし、第1歌集『水葬物語』に顕著に見られる、日本ともヨーロッパともつかない土地を舞台に、冷笑的な軽みをもった歌世界は、第2歌集『装飾楽句 カデンツア』(1956)では、より重く現実的?になってきているように見えます。

特に、
五月祭の汗の青年病むわれは火のごとき孤独持ちてへだたる

に始まる巻頭の『悪について』は、30首中14回に及ぶ「我」(内一つは「己れ」)という語の集中的な出現が、鮮烈です。
このような一人称的な「我」は、架空の登場人物の演じる劇のようだった『水葬物語』とは異質で、そして、どの「我」も、苦い味をもっています。

喜劇最後まで笑はず出て来しがわが鼻の尖ばかりに雪降る
われに昏き五月始まる血を売りて来し青年に笑みかけられて

このような歌では、「喜劇」や「売血」よりも、そうした現実の景に対する「われ」の沈黙に、表現の中心があります。


『装飾楽句』跋には、所収歌は1951年から1955年までの作歌の「ほぼ逆年順の配列」とあります。
ならば開巻の一連は、この時期の塚本の「réalité」(現実)を希求し、「『水葬物語』的な世界から急速に遠ざからうと試みた」、その時点での、とりあえずの成果といえるでしょう。

塚本は短歌の無条件な一人称性に対立した歌人であり、この連作の「我」は、塚本自身と読まれるべきではないのでしょうが、しかし、巻頭にこの苦い「われ」の連呼。
どうしても『水葬物語』との決別、杉原一司と別れて、『水葬物語』の彼方に向かう「われ」、と重ねて読みたくもなります。


植物の知識とか故事の知識は、修行中...なので間違いもあるかもしれませんが、
しかし解釈にチャレンジ。勉強だ。

杉原一司忌は五月二十一日ということです。
この歌の「桐」は、ゴマノハグサ科の木本で、4~5月が花期。
花の感じを見ると、なるほどまさに、雨霽れて「ああ」という感じだなあ、と思った。

中国の故事で鳳凰がとまるのはアオイ科の梧桐(アオギリ、花期は6~7月)。
『詩経』に典拠がある。
日本では梧桐と、このキリが同一視され、菊に次ぐ高貴な紋様としても使われた。

ここでは、杉原を花期の桐の枝のように、翅をひろげ飛翔の姿勢をとった鳳凰として讃えてるようです。

それから、笙の達人である蕭史と弄玉の夫婦が、遂にその音色に惹かれた鳳凰に乗り、天に去ったというし、周の王子喬の笙の音色も鳳凰の鳴き声にたとえられている。
雅楽の笙も鳳凰のかたちを模している。

そういう鳳凰の楽がここでは「歌」になぞられられているのだろう。


ところで、この『詩魂玲瓏』ではもう一度杉原一司の名が出て来る。『往かば還らじ Ⅲ』という連作の一首目です。

火薬粉粉 杉の花季過ぎつつを杉原一司目覚むるなかれ


杉原と塚本についての事実は、楠見朋彦『塚本邦雄の青春』(2009,ウェッジ文庫)が、『水銀伝説』までの伝記的事実に加え、そこから塚本歌の考察まで展開する、素晴らしい一冊。
また寺山修司は『黄金時代』に収められた「塚本邦雄論」で、杉原の塚本宛書簡が「水銀伝説」のルーツであると指摘している。


塚本邦雄の青春 (ウェッジ文庫)/楠見 朋彦
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金槐和歌集読了したので、とりあえず気になった歌。


塩釜の浦の松風霞むなり八十島かけて春や立つらむ
古寺のくち木の梅も春雨にそぼちて花もほころびにけり
咲きしよりかねてぞ惜しき梅の花散りの別れは我が身と思へば
我が袖に香をだに残せ梅花あかで散りぬる忘れがたみに
山風のさくら吹きまき散る花のみだれてみゆる志賀の浦波
春ふかみ花散りかかる山の井はふるき清水に蛙鳴くなり
春雨の露のやどりを吹く風にこぼれてにほふやまぶきの花


五月闇おぼつかなきにほととぎすふかき嶺より鳴きていづなり
さみだれに夜の更け行けば時鳥ひとり山べを鳴きて過ぐなり
いにしへを忍ぶとなしにふる里の夕べの雨に匂ふたちばな
夏山に鳴くなる蝉の木がくれて秋ちかしとや声も惜しまぬ


きのふこそ夏は暮れしか朝戸出の衣手さむし秋の初風
霧たちて秋こそ空に来にけらしふきあげの濱の浦の潮風
天の川水泡さかまきゆく水のはやくも秋の立ちにけるかな
萩の花くれぐれまでもありつるが月出て見るになきがはかなき
夕されば野路の刈萱うちなびき乱れてのみぞ露もおきける
わたの原八重の潮路にとぶ雁の翅のなみに秋風ぞふく
鳴きわたる雁の羽風に雲消えて夜ふかき空にすめる月影
雲のゐる梢はるかに霧こめて高師の山に鹿ぞ鳴くなる
きりぎりす鳴く夕ぐれの秋風に我さへあやな物ぞかなしき
ながめやる心も絶へぬわたの原八重の潮路の秋のゆふぐれ
塩竈の浦吹く風に秋たけて籬が島に月かたぶきぬ
佐保山のははそのもみぢ千々の色にうつろふ秋は時雨ふりけり
初雁の羽風のさむくなるままに佐保の山辺は色づきにけり
雁鳴きてさむきあさけの露霜に矢野の神山色づきにけり


木の葉散り秋も暮れにし片岡のさびしき森に冬は来にけり
大澤の池の水草かれにけりながき夜すがら霜やおくらむ
夜を寒み河瀬にうかぶ水の泡の消えあへぬ程に氷しにけり
比良の山やま風さむきからさきの鳰の水うみ月ぞこほれる
月の澄む磯の松風冴えさえてしろくも見ゆる雪のしらはま
もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原
ささの葉のみ山もそよに霰ふり寒き霜夜をひとりかも寝む
夕月夜満つ潮あひの潟をなみ波にしをれて鳴く千鳥かな
水鳥の鴨の浮き寝のうきながら玉藻の床にいく夜へぬらむ
ゆふさればすず吹く嵐身にしみて吉野のたけにみ雪ふるらし
炭をやく人の心もあはれなりさてもこの世を過ぐるならひは
足引の山よりおくに宿もがな年の来まじき隠れ家にせむ
ちぶさ吸ふまだいとけなきみどり児のともに泣きぬる年の暮れかな


春ふかみ峯のあらしに散る花のさだめなき世に恋ひつまぞする
我が恋はみ山の松にはふ葛の繁きを人の問はずぞありける
我が宿の籬のはたてに這ふ瓜のなりもならずも二人寝まほし
はみのぼる鮎すむ川の瀬を早み早くや君に恋ひわたりなむ
我が恋は百島めぐりはま千鳥ゆくへも知らぬかたに鳴くなり
ひさかたの天とぶ雲の風をいたみ我はしか思ふ妹にし逢はねば
わが恋は初山藍の摺り衣人こそ知らねみだれてぞおもふ
かもめゐる荒磯の洲崎潮みちて隠ろひ行けばまさる我が恋
おく山の岩がき沼に木の葉落ちてしづめる心人知るらめや
わだつみに流れ出でたるしかま川しかもたえずや恋わたりなむ
わが恋はかこの渡りの綱手縄たゆたふ心やむ時もなし
かくれ沼の下這ふ葦の水隠りに我ぞ物思ふ行方しらねば
さ筵に露のはかなく置きていなば暁ごとに消えやわたらむ
浅茅原跡なき野辺におく霜の結ぼほれつつ消えやわたらむ
我が袖におぼえず月ぞ宿りけるとふ人あらばいかが答へむ
こがねほるみちのく山にたつ民の命もしらぬ恋もするかな


世の中は常にもがもな渚こぐ海人の小舟の綱手かなしも
あかつきの夢の枕に雪つもり我が寝覚め訪ふみねの松風
まれに来て聞くだにかなし山がつの苔の庵の庭の松風

箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
 真淵が「かくまではいかに詠み給ふらむと常に愛でらるめり」と激賞した歌。
 個人的には好きじゃないけど。

小夜ふけていなりの山の杉の葉に白くも霜のおきにけるかな
大海の磯もとどろに寄する波割れて砕けて裂けて散るかも
玉くしげ箱根の海はけけれあれやふた山かけて何かたゆたふ
いつも斯くさびしきものか葦の屋に焚きすさびたる海士の藻塩火
紅のちしほのま振り山の端に日の入るときの空にぞありける
うば玉の闇の暗きにあま雲の八重雲隠れ雁ぞ鳴くなる


金槐和歌集 (岩波文庫)/岩波書店
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金槐和歌集読了。すっごく、おもしろかった。

実朝は、万葉のますらをぶりに向かったからエライ、と言われます。
わたしは実朝歌の時系列的な変遷などの研究史については、まだ知らないので、
『金槐和歌集』を、一冊の書物として読むことになります。
そうすると、万葉的なものと王朝和歌的なものが混在し、習作や戯れ歌めいたものも交じった、発展途上の歌人の歌集に見える。
和歌を勉強中の武士の青年が、いろんな詠み方を試してるような感じに、共感しました。

恋部
・かささぎの羽におく露の丸木橋踏み見ぬさきに消えやわたらむ
牽牛・織女の間を渡すカササギの橋を、どうして丸木橋にしようと思ったのか。
賀茂真淵曰く「ふさはず」。

雑部
・今つくる三輪のはふりが杉社すぎにしことは問はずともよし
過ぎたことは問わないでいい。

・山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
・ひむがしの国にわがをれば朝日さす藐姑射の山のかげとなりにき
朝廷への忠誠を詠った歌。しかしその後の時代は公武の決裂へ。

・我いくそ見し世の事を思ひ出のあくるほどなき夜の寝覚めに
・道遠し腰は二重にかがまれり杖にすがりてここまでもくる
二十代の若者なのに、老いを詠った歌が何首かある。

・うば玉の闇の暗きにあま雲の八重雲隠れ雁ぞ鳴くなる
・あはれなり雲井のよそに行く雁もかかる姿になりぬと思へば
一首目は、題詠「黒」。
厚い黒雲に取り巻かれた雁のか細い叫びが彼方から、かすかに聞こえてくる。
堀田善衛がこの歌の狂的なムードを指摘していた。
二首目はその歌の前に置かれている、雁がまな板の上に載せられていた、というヘンな歌。二首の順番を変えてみると、台無しな感じ。

・いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母を尋ぬる
路傍で目にした光景に素朴な共感を示した歌。実朝の優しさが見えて、ほっとする。
・物いはぬ四方の獣だにすらもあはれなるかな親の子を思ふ
賀茂真淵が、「だに」か「すら」か、どっちかでいい、とツッコミを入れた歌。
・時により過ぐれば民のなげきなり八大龍王雨やめたまへ
有名な、スケールの大きな歌。これも実朝の素直な一面を偲ばせる。

・紅のちしほのま振り山の端に日の入るときの空にぞありける
「ちしほのまふり」は「千入のまふり」で、布を染料に幾度も浸すことだそうですが、
一瞬「血潮」かと思ってしまう。
新古今に造詣の深かったという春日井健『未青年』所収歌も、この歌を意識しているのでしょうか?
大空の斬首ののちの静もりか没ちし日輪がのこすむらさき 
中村幸弘・碁石雅利『日本古典 文・和歌・文章の構造』(2012,新典社)

読解のための古典文法の本。簡潔で読みやすい。

タイトル通り、「和歌特有の文法構造」の解説もあって、
たとえば、「第三句の枕詞」について解説されている。
これは枕詞にかぎらないと思うけど、古今集などの勅撰集を読むと、三句に体言などをおき、上句と下句の、一種のピボットにするような構造が、一つの典型的な和歌の構造としてあることに気づく。
そういうことをまとめた本が読みたかったので、非常におもしろく、勉強になった。

日本古典 文・和歌・文章の構造/新典社
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「最勝院四天王院の名所の障子の歌に、生田の森の歌入らずとて、所々にしてあざけりそしる。あまつさえ種々の過言、かへりては己れが放逸を知らざる。まことに清濁を弁えぬは遺恨なれども、代々勅撰承るともがらも、必ずしも万人のこころに適う事はなけれども、傍輩なほ誹謗することやはある。」

それから、定家がプロデュースしてくれた、最勝院四天王院の名所の障子の歌に、定家自作の「生田の森」の歌が取られなかったといって、あちこちで「院の選歌センス、ダサい」とか、嘲笑しまくった。
それにとどまらない毒舌の数々、つまり、己の空気の読めなさをわかっていないのだ。

…まあ、朕も、「生田の森」については、歌の良し悪しを見誤った。(´・ω・`)
だが、今まで代々の勅撰の選者に任命された人々も、あらゆる人の心に叶う選歌ができたわけでもなかった。
それでも、選者として仲間同士でそれを、さらに罵倒しあうことなど、あっただろうか。ない


「総じて彼の卿が歌の姿、殊勝のものなれども、人のまねぶべき風情にはあらず。心有る様をば庶幾せず。ただ詞すがたの艶に優しきを本体とせる間、その骨優れざらむ初心のもの真似ばば、正体なきことになりぬべし。」

結論として、あの卿の歌の体、すぐれたものではあるが、人が習うべき風情ではない。
本質的に、あ奴は歌に「心」(人間的な感情表現)を求めていない。
ただ、言語表現の妖艶さ優美さを本質としているので、
歌の骨法を体得していない初心者がそれを真似すれば、ひ弱なアート気取り野郎になってしまうだろう。


「定家は生来の上手にてこそ、心なにとはなけれども美しくは言ひつづけ付けたれば、殊勝のものにてこそはあれ。
 秋とだに吹きあへぬ風に色かはるいくたの森の露のした草」


定家は生まれついての天才だから、特に表現すべき感情がなくても、美しく詞を言い流しただけで、優れたものになるのだ。で、問題の「生田の森」だが。
 秋風、というでもなく、かすかに、かすかにそよ吹く風に、色が移ろっていく...
 ...生田の森の露に濡れた下草。


「まことに、秋とだに、とうちはじめたるより、ふきあへぬ風に色かはるといへる詞つづき、露の下草と置ける下の句、上下あひかねて優なる歌の本体と見ゆ。かの障子の生田の森の歌には、まことにまさりて見ゆらむ。しかはあれども、如比(このごとき)の失錯自他、今もいまもあるべき事なり。さればとて、永き咎になるべきにあらず。

まあ和歌を現代語訳してもしょうがないんだが、この、「秋というほどでも...」と歌いはじめ、そして「というほど吹きつのるでもない風に、色が移ろう」と続く、ことばの流れ。
...うむ、実にすばらしいではないか。

そして、「露の下草」と歌い収める下の句。
「下草の露」じゃないという点にも、注目だ。
上の句と下の句が調和し、優美な歌の本質を備えた例と見える。
確かに、あの名所障子の生田の歌として採ったら、素晴らしく見えたことだろう。
しかし、このような歌の評価の間違いは、いつ誰にだって、あることだ
間違えたからといって、いつまでも批判されるほどじゃないだろう。


「この歌も、よくよく見るべし。詞のやさしく艶なる外は、心もおもかげもいたくは無きなり。森の下に少し枯れたる草のあるより外は、景気も理もなけれども、いひながしたることば続きのいみじきにてこそあれ。」

では、この歌もじっくり検討してみよう。
ことばの音調の流れが優美である以外、一首に込められた感情とか意味も、イメージの興趣も、それほどはっきりある訳ではない
要は、森の下に少し枯れた草があるだけで、四季の絵画的なイメージのおもしろさや、意味というのもないけれども、言い流したことばの流れが、優れているのだ。


「案内知らぬものなどは、か様の歌をば何とも心得ぬ間、彼の卿が秀歌とて人の口にある歌多くもなし。自ずからあるも、主が心には不受なり。釈阿、西行などが最上の秀歌は、詞も優にやさしき上、心ことに深く謂はれも有る故に、人の口にある歌不可勝斗(あげてはかるべからず)」

定家卿や朕のレベルで歌のことを学んでない者どもは、こういう歌を何とも理解できないから、定家卿の歌の中で、大ヒットとして人々が口ずさむものも、そんな多くない
もちろん優れた歌はあるが、本人がそんなの全然ダメと主張するんだから、仕方ない。

釈阿(定家の父、俊成)、西行などの最高傑作レベルの歌は、ことばも優美で、感情も深く、また趣き深いエピソードもあったりするから、人の愛唱歌は数え切れないほどある。


「凡そ顕宗なりとも良きは良く愚意に覚る間、一すぢに彼卿が我心に適はぬをもて、無左右(左右なく)歌見知らずと定むることも偏執の義なり。すべて心には適はぬなり。歌見知らぬは事かけぬ事なり。撰集にも入りて、後代にも留まることは歌にてこそはあれ。たとひ見知らずとても、さまで恨みにはあらず」


仏教の神髄を知らない顕教の僧侶であっても、優れた僧侶なら、愚かな解釈のままであっても、悟りに達するというではないか。

定家卿が、自分と異なる意見のものは、歌を知らないと決めつけているのも、かたくなな感情にすぎないのではないか。
自分の心のままになるものなど、何一つこの世にはないのだ。

歌をアカデミックに理解してない、とかいうことに、それほどこだわることもないだろう。撰集などに入って、後の世にも残ることは、歌人の知識なんかの問題ではなく、その歌自体のもんだいではないか。

作者に専門的な知識がなくとも、たいした欠点というわけでもないのだ。
「先年、大内の花の盛り、昔の春の面影思ひ出でられて、忍びてかの木の下にて、男ども歌つかうまつりしに、定家左近中将にて詠じていはく、

 としをへて行幸に馴るる花のかげふりぬる身をもあはれとや思ふ」


先年、内裏の桜の盛りのころ、かつて見た春の面影が思い出され、何人かの貴族が内々で、その木の下で歌を詠じた。朕も、お忍びで行幸した。
そのとき、左近中将だった定家が詠んだ歌が、

 年をへて、行幸に馴れた内裏の左近の桜よ、今年もまた降る花の蔭、降りゆくわが身の上も、しみじみあわれに感じられて。(官位が上がらない…)


「左近中将として二十年に及びき。述懐の心もやさしく見えしうへ、ことがらも希代の勝事にてありき。最も自讃すべき歌と見えき。」

定家は、左近中将として、二十年の長きにわたり仕えてきた。
その境涯を述べた述懐のこころが、内裏の桜に託して優美に表現され、題材も、朕と一緒に花見をした、という、極めて珍しいものだ。まさに晴れの機会の歌ではないか。
自讃歌(自薦の代表作)とするだろう、普通なら


「先達どもも、必ず歌の善悪にはよらず、ことがらも優しくおもしろくもあるやうなる歌をば必ず自讃歌とす。」
和歌の道の習いとして、歌の先達たちも、詠んだ歌の良し悪しとは必ずしも関係なく、題材が優美で、由緒や趣きのある歌なら、必ず自分の代表作としたものだ。


「定家がこの歌詠みたりし日、大内より硯の箱に庭の花を取り入れて、中御門摂政のもとへ遣わしたりしに、さそはれぬ人のためにや残りけむと返歌せられしは、あながちに歌のいみじきにてはなかりしかども、新古今に申し入れて、この度の撰集の我が歌には、これ詮なりとて、度々自讃し申されけりと聞き侍りき。」

定家がこの歌を詠んだ日、内裏から硯の箱にその庭の花を入れて、中御門摂政(藤原良経)に送ったところ、
「誘われなかった日のためにも、花は残ってくれていたのですね」という返歌があった。雅びな、挨拶歌である。
別にこの歌が良経一世一代の傑作、という訳ではないけれど、新古今に入れて、今回の勅撰集の私の歌では、この歌に尽きる、とたびたび自讃していたと聞いた。

...ちなみに、朕は承久の乱の後、隠岐での新古今集ひとり編集大会で、朕の贈った歌と一緒に、その良経の歌も平気で削除するけど。それは未来の話だから、今は関係ない。
いや、この御口伝が乱後の成立なら、現在の話か? たぶん未来かも、と思うんだが、
朕も、今は自分でもどっちか、わからぬのだ。

閑話休題...つまり、和歌の道において、TPOとか、人との関係性というのもまた重要なんである。専門家の定家なら、そんなことはわかってるはずだ。
なのに、なんでああいう態度なんだ。


「昔よりかくこそ思ひ習はしたれ、歌いかにいみじけれども、異様の振る舞ひして詠みたる恋の歌などは、勅撰受け給ひたる人の元へをくることなし。これらの故実知らぬものやはある。」

昔からこういう習わしなので、歌がいかに優れていても、けしからぬ振る舞いをして詠んだ恋の歌などは、勅撰集の選者に候補として送られることはない。
こういう故実を知らない歌人がいるはずもないだろう。


「されども左近の桜の歌受け容れられぬよし、たびたび歌評定の座にて申しき。家隆も聞きし事なり。諸事これらに露はなり。」

それなのに、あの程度の桜の歌を勅撰に入れるなんて、歌の良し悪しがわからん人が、なんかこの辺にいるんですか、的なことを、たびたび選歌の場で言ってたのだ。
家隆も、そういう定家の発言を聞いている。
もう、こういう振る舞いで、定家卿の態度というのがはっきりわかるだろう。

つづきます。